序章
『月が綺麗ですね』
序章:業火の悪鬼、白蜘蛛に惑う
時は江戸。
黒煙は天を焦がし、朱に染まった夜空の下、町は燃え盛る地獄と化していた。家屋は紅蓮の炎に抱かれて轟々と崩れ落ち、逃げ惑う人々の悲鳴は断末魔の叫びとなって虚空に木霊する。まさに阿鼻叫喚の業火。その凄惨たる光景を背に、財宝の詰まった革袋を肩に食い込ませ、獣のような鋭い眼光で闇を駆ける男がいた。
男の名は、世一。いつからか、そう自ら名乗っていたか、あるいは誰かが恐怖を込めてそう呼び始めたのか。確かなことは、その名が「悪虐非道」の代名詞として、江戸の裏社会に、いや、表の者たちの間ですら畏怖と共に囁かれていたという事実のみ。
つい先刻まで、世一はその悪名に違わぬ所業を成し遂げたばかりだった。炎上する屋敷の一室で、分け前を巡って仲間と呼んだ男たちを皆殺しにし、全ての財宝を独り占めにしたのだ。ずしりと重い革袋の感触と、鼻腔をくすぐる血と炎の匂いに、男の口元には歪んだ歓喜の笑みが浮かんでいた。周囲の絶叫も、燃え盛る炎熱も、今の彼にとっては己の勝利を祝う宴の騒めきでしかない。
「――けっ、下らねぇ。取り分で揉めて仲間割れとは、どこの三文芝居だ」
嘲りの言葉を吐き捨て、さらに速度を上げようとした、その時だった。
逃げ道を遮るように、目の前で火柱を上げていた大木が、ミシリ、と不吉な音を立てて傾いだ。その刹那、炎に照らされた地面に、ふと白いものが映った。
「……あ?」
思わず足を止めた世一の目に飛び込んできたのは、一匹の白い蜘蛛であった。
闇と炎が支配するこの地獄絵図の中にあって、その蜘蛛の白さは際立って美しく、どこかこの世ならぬ気配すら漂わせている。しかし、そのか弱き美は、今まさに潰えようとしていた。先ほどの大木が、白い蜘蛛の真上へと倒れかかってきていたのだ。焼かれていた幹からは火の粉が雨のように降り注ぎ、蜘蛛は必死に逃れようとしているのか、細い脚を懸命に動かしているが、もはや逃げ場はなかった。
仲間を殺し、その財宝を奪ってなお満たされぬ渇望に嗤っていた世一。そんな彼が、何を思ったか。
常ならば虫けら同然に踏み潰し、あるいは気にも留めぬであろう小さな命。しかし、その白い蜘蛛の死にゆく姿から、なぜか目が離せなかった。
「……チッ」
舌打ち一つ。次の瞬間、世一の身体は、我知らず飛び出していた。財宝の袋が肩から滑り落ちるのも構わず、彼は燃え盛る大木の下へと身を躍らせた。熱風が肌を焼き、煙が喉を塞ぐ。だが、男は構わず手を伸ばし、まさに潰えんとしていた白い蜘蛛を、その無骨な掌で優しく包み込むように掬い上げた。
白い蜘蛛を助けた。
ただ、それだけのこと。
しかし、それが悪虐非道と呼ばれた男、世一の最後の行動となった。
身を翻し逃れようとした彼の上に、ついに燃え落ちる大木が影を落とし――。
世一は、自らが熾し、そして広げた業火の只中で、絶命した。