囚われの姫と騎士
「姫さま、陛下がお探しですよ」
俺は扉の奥へ呼びかけた。拗ねたときの姫さまは大抵この場所にいる。姫さまと俺だけが鍵を持つ、昔からの秘密基地に。だが、扉を開けた先に彼女の姿はなく、紙切れだけが遺されていた。窓から冷たい風が入り込み、紙を少し揺らす。
「姫さま……?」
何処かの賊に拐かされたのかもしれない。慌てて机上の手紙を鷲掴んだ。
『この世界にも恋ってあったのね!
私、王子様に出会ってしまったの。こういうとき、囚われのお姫様がどうするのかあなたにも教えてあげたでしょう?
駆け落ち、してくるわ』
興奮した、走るような文字が手紙には綴られている。その美しい文字と、高飛車な物言いは間違いなく彼女のものだった。
俺は、天が落っこちてくるような衝撃を受けた。相手は分かっている。宮廷に彗星の如く現れた、あの異国の王子だろう。あの男も、この秘密基地に入ったのだろうか。
彼女のお気に入りの恋愛小説は全てなくなっていて、姫さまらしい、と俺は呟いた。逃避行にまで何冊も本を連れていくのは邪魔に違いない。しかし、あれらが姫さまの城での救いであったことは、俺が一番良く知っていた。もし恋を見つけられたのなら、それが彼女の幸せなのだ。
がらんどうになった本棚を見て、俺は頭を抱えた。
生まれたときから、俺は姫さまの騎士として育てられた。何があっても守るように。両親の言いつけは、気付けば俺の使命だった。いつから一緒にいるのかは、もう分からない。ただ、姫さまの幸せについて考え始めたのは、此処をつくったときだった。
姫さまは、城の外に出たことがない。外は危険だから、と誤魔化す大人の事情を、俺たちは教えてもらえなかった。何も言わない大人たちに、案の定姫さまは怒った。
「そんなの理不尽よ!」
騒ぐ彼女に一つだけ、自由が認められた。それが、秘密基地の存在だった。
「大人に秘密があるなら、私たちにだって隠し事があっても良いじゃない。あなたもそう思うでしょ?」
窓際の椅子に姫さまは腰かけ、机の上に足を伸ばす。一日中泣いた為か、鼻は赤く腫れ、髪はひどく絡まっていた。
「姫さま、お行儀悪いですよ。それに、陛下にもきっとお考えが--」
「お父様の話なんてしないで! ここでお行儀の話なんて良いじゃない。だーれも見てないわ」
円らな碧い瞳を不機嫌そうに細める。
「もっと楽しい話をしましょうよ。ほら見て、この本。世の中にはこんなにたくさんの恋物語があるのよ。炎のように熱く、愛してくれる存在がいて、自分よりも大切な守りたい誰かがいるのよ。とっても素敵なことじゃない?」
彼女は未だ潤んだままの瞳を窓の外へ向けた。涙で頬にはりついた髪を耳にかける。
「それなのに、私はここにいることしかできないの。王子様が私を連れ出してくれれば良いのに。この青空まで、連れて行ってほしいわ」
俺は姫さまに言葉をかけることもできず、その姿から目を離せないでいた。俺が姫さまを幸せにできたら。そう強く願うと同時に、姫さまが俺を相手に望むことはないと解っていた。姫さまの夢見る物語はそうそう現実にはなり得ない、とも。ただ、姫さまの傍に居られれば良いと思っていたのだ。
それなのに、どうして俺は姫さまを探しに来てしまったのだろう。
暗闇に身を潜め、木の陰から二人を見つめる。彼らを見つけてしまい、俺は早速後悔し始めていた。やはりお似合いの二人だった。最初からあの男は、彼女の求める王子様として完璧だったのだ。二人は互いに身を寄せ合い、親しげに言葉を交わしている。碧い髪に男の手が触れた。常に艶がかっていたはずの髪は、どこかくすんでしまっているようにも見える。ふっと漏らした俺の溜息は、白く宙に消えた。
姫さまを探す話が出たとき、俺が一番に手を挙げたのには理由があった。まず、最後に一言、彼女と話したかったから。願いを叶える姿を一目見たかったから。そして、俺なしで幸せになれる姫さまが許せなかったから。
鬱蒼とした森の中、炎を囲む二人は本当にお伽話のようで、俺にはそれが悔しかった。瞳は灯に明るく照らされ、きらきらと輝いている。細かな傷の付いた四肢はなお美しいままで、むしろ彼女の可憐さを引き立てていた。
このまま帰ってしまおうか、という躊躇いをどうにか握り潰す。ここに来た理由を果たさなくれは。そう気合いを入れ直したとき、彼女の悲鳴が聞こえた。
「きゃあ!」
目を離した隙に何かあったのか。思わず二人の元へ飛び出す。
「姫さま!」
「あ、あなた、どうしてここに?」
姫さまは呆けたように、俺と男の顔を交互に見る。どうやら命の危険には晒されていないようだ。そっと胸を撫でおろしながら、二人との距離を詰めていく。
「俺が姫さまを追いかけてきたからです。姫さま、先程の悲鳴は?」
「えぇと、それは……」
目を泳がせる彼女に、隣の男が口を挟んだ。
「少し、僕が驚かせてしまっただけさ。お姫様は至って健康だし、何の心配もいらないよ」
そして、芝居がかった動作で前髪をかきあげる。
「君、ちょうど良いところに来てくれたね」
「え?」
「君はお姫様の騎士だろう? もうお帰りだそうから、君がお城まで連れ帰ってあげたまえ」
「は?」
男の言葉に、姫さまは頬を膨らませた。
「えぇ、もうちょっとくらい良いじゃない。もう終わりにしてしまうの?」
「あぁ……僕じゃあ駄目だって言ったじゃないか。お姫様だって、もう気が付いただろう?」
二人の会話に全くついていけない。
「だって、姫さま、駆け落ちなさるって……」
そう、手紙には書いてあったのに。
「もう、あなたは相変わらずね。ちゃんと手紙は読んだの? 私、駆け落ちしてくる、って書いたでしょう? 帰るに決まってるじゃない」
確かにそう書いてあったかもしれない。が、姫さまの言う通りに解釈する人は少ないだろう。駆け落ちしても、横柄な部分は変わらないらしい。
男が姫さまの耳に何か囁く。仮の駆け落ちならば、二人の距離は近すぎやしないだろうか?
「それより、あなた。どうしてこんなに汗塗れなのよ。風邪でも引いたら私のこと、守れないじゃない。……走って、ここまで来てくれたの?」
「当たり前ですよ。俺は姫さまの騎士ですから」
「へぇ、騎士だから。じゃあもし騎士じゃなかったら、私を探しに来てくれないの?」
姫さまは髪をくるくると指に巻きつけた。その姿が昔の、窓の外を見つめていた泣き顔に重なる。
「ひ、姫さまの騎士じゃない俺なんて想像もできないですけど。姫さまあっての俺ですから。でもいつか、俺が騎士でなくなったとしても、姫さまのことは大切です」
「……そう。これからも、その心意気で私を守ってちょうだいね」
彼女は視線を上へ向けた。星々が夜空を埋め尽くしている。こんなに多くの星があるとは、夜も明るい城に居たときは気が付かなかった。
「ねぇ、空には行けなかったけど、楽しかったわ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。お姫様」
男は胡散臭い笑みを浮かべて会釈をすると、忽然と姿を消した。
驚く俺に、姫さまは平然と袋を押しつけた。予想以上の重さに、取り落としそうになる。
「姫さま、これ、重いんですが」
「重いからあなたに持たせたんじゃない」
袋の中を確認すると、姫さまお気に入りの本が詰め込まれている。
「さぁ、家へ帰るわよ」
姫さまが見せたのは、煌めくような笑顔だった。