後編
機械工学科史上最強の車オタクの二つ名は伊達ではなく、もう翌日には車は動くようになっていた。
相変わらず震動は激しい。だけど、螺子の飛びは徐々に少なくなっていった。そして、そんな厳しい条件下にあっても、僕の運転技能はそれなりに進歩していった。
だけど、ただ一つ慣れなかったものがある。
それは先輩のお体に触れたときの衝撃だ。
◇◇◇
絶滅危惧種の貧乏学生であるこの僕は、運転免許センターでの試験でも一回で受かりたい。
いや何度も受けるお金がないのだ。
慎重が上に慎重に訓練を重ね、これなら技能試験も合格するだろうというレベルまで到達した時、季節はもう冬になっていた。
「来次くん、頑張ったな。科学的に見て、これなら合格できるだろう」
そんな先輩のお墨付きも得た。
試験は来週だ。僕はそれに合格する。合格しないわけにはいかない。
だから、大宝寺先輩と車に乗れるのもこれが最後だ。それに先輩は四年生。来春で卒業する。
僕はありったけの勇気を振り絞り、問いかけた。
「大宝寺先輩。先輩は卒業したら、どうするんですか?」
◇◇◇
先輩は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐにいつもの冷静な顔に戻った。
「来次くん、驚いたよ。科学的に見て、あたしは人からそんなことを質問されることがないのでな。それを聴いたのは、指導教官、母親、そして、君だけだ」
先輩は少し自嘲的な笑いを見せてから続けた。
「卒業したら、あたしは実家の近くの小さな自動車修理工場に就職する。就職と言っても、あたしの他には八十歳になる社長がいるだけだ。科学的に見て零細企業だな」
「!」
「指導教官からはさんざん言われたよ。『大宝寺の実力なら大手企業でも引く手数多なのに何でまた』とな」
「本当に……どうしてなんですか?」
「来次くん」
先輩は僕の方におもむろに振り向く。顔が近い。僕の心臓は飛び出しそうだ
「来次くん。君は知っているか。今の日本では車が損傷すると、壊れていない部分も併せてユニットごと交換してしまうんだ。そのせいで今まで持っていた板金を打ち直す技術はどんどん失われてきてしまっている。科学的にな」
「……」
「あたしはその技術がなくなるのが惜しい。あたしが就職する会社の社長は日本一の技術者だが、もう八十歳。科学的に仕事が出来る時間は残り少ない」
「……」
「あたしは卒業後三年以内に社長の技術を全て引き継ぐ。科学的に日本一の自動車修理の技術を持つ。そして、あたしが社長になる」
三年以内。三年。今一年の僕も三年経てば卒業だ。その時には、どうする?
◇◇◇
僕は普通自動車運転免許を取得した。学科・技能とも満点。試験官は感心する以上に呆れていた。
でも、そんなことはどうでもいい。僕はシャブに向かって駆けた。
駆けながら探した。その人の姿を。
そして、見つけたんだ。その人を。
「先輩っ! 大宝寺先輩っ!」
その人はゆっくりと僕の方を振り向いた。その顔がどことなく寂しげに感じられたのは気のせいだったか。
「おおっ、来次くん。科学的に免許は取れたのか?」
「バッチリです」
「そうか良かったな。これで運転免許を要するアルバイトも出来るから、科学的に生活も楽になるだろう。但し、あたしとの自動車教習もこれで終わりだが」
「先輩っ!」
学科・技能とも満点合格。今の僕は乗りに乗っている。このまま行くしかない。
「先輩っ! 先輩は三年以内に自動車修理工場の社長になるんですよね。絶対」
大宝寺先輩は少し驚いた顔を見せたが、またいつもの顔に戻った。
「ああ。科学的に間違えなく、技術を習得し、社長になってみせる」
その言葉に僕の二つの握りこぶしに力が入る。
「だったらっ! だったらっ! 三年後に僕をその会社に入社させてくださいっ!」
大宝寺先輩はまたも驚いた顔を見せたが、今度はニヤリと笑った。
「来次くん。科学的に君がそこまで言ってくれるのなら、あたしも敢えて問おう。君は三年後あたしの会社に入りたいだけなのか?」
今度は僕が驚かさせられる番だ。でもっ、負けるもんかっ! 今日の僕は乗りに乗っているんだっ!
「いっ、いえっ、そういう『公』だけでなくっ! 『私』もご一緒させていただければっ!」
僕のその言葉を聞くと、大宝寺先輩は僕に近づき、その唇を僕の頬につけた。わあっ!
◇◇◇
「ありがとう。その言葉が聞きたかった。科学的に見て、あたしだって自信満々ってわけじゃないんだぞ。そうだ。これを受け取ってくれないか?」
そう言って、大宝寺先輩はポケットからボルトがはまったナットを取り出した。
「これはあたしが一から作ったボルトにナットだ。規格外だから、科学的に見て、この大きさ、形のものは世界にこれしかない。これを……」
ボルトを回してナットを取り外すと、何とそのナットを僕の左手の薬指にはめた。
「あっ……」
そして、大宝寺先輩は両手を僕の両肩に置き、まっすぐに僕の目を見ると言った。
「来次くん。お互いに三年頑張ろう。そして、それでお互いが良かったら、共に生きていこう」
僕は頷いた。
「はい。必ず」
三年後
僕は指導教官と研究室で相対していた。
「来次。本当にこの就職先でいいのか?」
「はいっ!」
「『大宝寺自動車工業』。うちの学校の卒業生が二十五歳で社長やってて、どんな自動車でも直すと評判で急成長しているところだな」
「そうですっ!」
「なるほど、いい会社ではある。だけど、来次はうちの学科の首席じゃないか。いくらでも大企業に推薦出来るんだぞ」
「ありがとうございます。でも、僕は『大宝寺自動車工業』がいいんです」
「……そうか。来次のことだ。ちゃんと考えた上でのことだろう。就職おめでとう」
「いえ。先生。違うんですよ」
「何がだ?」
「『就職』じゃないんです。『永久就職』なんですよ」
その時の僕は満面の笑みだったと思う。
左手の薬指にはまったナットはにじんだ油で虹色に輝いていた。