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ルカはまた田舎から来たおのぼりさんに逆戻りして、縮こまって震えていた。
だが、いつまでもそうしていてはいられない。仕事があるから、ルカはこの街に来たのだ。
両親は国内外を相手にワインとその関連商品の取引を行っているほか、高級レストランや上流階級向けのクラブなどを経営している。
本格的に跡を継ぐ前の練習—と言うと語弊があるかもしれないが—としてルカが任されたのが、故郷にあるいくつかの農園と、ディオネイス商会だ。この商会では、主に国内の小売業者や飲食店を相手にしてベイル家のワインを売っていた。
ベテランにも負けない知識を持ち、飲酒もできるようになったルカにとって、自社のワインを売り込むのはとても簡単だ。両親に引けを取らない弁舌と熱意はそれまでの取引先からも認められ、若輩ながらも問題なく父の地盤を継ぐことができた。
都会は怖いし、都会で暮らす人も怖い。でも、たったひとつ、彼らに決して嗤われない得意分野がある。それに気づいたルカは、少しだけ自信を取り戻した。
若者だと舐められないよう一級品に身を包み、訛りが出てしまわないよう常に綺麗な言葉を心がけ、商談以外のことができないと悟られないよう徹底的にプライベートを秘匿する。おかげで生来の純朴さはうまい具合に隠し通すことができた。
その擬態の反動か、ルカは方々から「底の知れない、何を考えているかわからない商人」「ワインに関しては信用できるが、人としては信頼できそうにない」「おだてられて油断したら最後、まるでワインのように生き血を飲み干されるぞ」などと勝手なことを囁かれるようになるのだが。
仕事を覚え、顔を売り、故郷のワイナリーと帝都の会社を往復する。日々は慌ただしく過ぎていき、あっという間に二年が経った。
二十歳になったルカは仕事が忙しいこともあって、相変わらず私的な人付き合いができなかった。
もちろん、ビジネスの場での交流はできる。仕事用のフォーマルな服に身を包み、仕事の話をすればいいからだ。その延長と考えれば、接待もまあそれなりにこなすことはできた。
だが、そこからさらに踏み込んだ私的な関係を築くことができず……より具体的に言うなら、女っ気がなかった。
趣味ならある。散歩と庭いじりだ。故郷の農園には遠く及ばないが、庭付きの家を買ったので庭園の一角で家庭菜園を始めていた。それに、少年時代に農作業で汗を流していたころのように早起きをして家の周囲や公園を散歩していると、頭がすっきりする。
隠居したおじいちゃんかな? と家と一緒に雇い入れた使用人からは思われているのだが、直接言われたことはないのでルカはまったく気づいていない。
しかしある日、そんなルカの運命を変える出会いがあった。
「クレセント座をご存知で? 最近、評判のいい女優がいましてね。いい座席のチケットを手に入れましたので、よければご一緒しませんか?」
これが若い男女であれば、デートの誘いかと頬のひとつも赤らめるのかもしれない。
しかしあいにく、誘われたのはルカで誘ってきたのは取引先の重役のおっさんだ。別にロマンスの気配はなく、もちろんときめきなどあるわけもなかった。
観劇などしたこともなかったが、クレセント座という名前ならルカも知っていた。ワインを卸しているからだ。まさか観劇中に飲む客がいるのかと疑問に思ったルカに、秘書がこっそり囁いたことがある。「楽屋で支援者が役者と語らう時に、嗜まれるのです」と。
ああ、好きな役者と一緒に軽食が取れたり、差し入れができたりするのか。気の利いたサービスだなぁ。その時は、ただそんな風にのほほんと思うだけだった。
どうやらこの重役は、ルカの接待がしたいらしい。だから、クレセント座の観劇の誘いを受けても、ルカは特に疑問に思うことなく了承した。
「お恥ずかしながら、芸術には疎いのですが……芝居というのはよいものですね」
公演の後、ルカは誘ってくれた重役に本心からの礼を述べた。それだけ素晴らしい舞台だったからだ。特に主演の、美しい目をした女優。まるで味わい深い赤ワインで染めたような、綺麗な赤紫の瞳が印象的だった。
「お気に召していただけましたか! ……ちなみに、誰ぞ気に入った役者などはおりましたか?」
「え? そうですね……ティターニャ姫役の方は、素敵だったと思います」
なんの気なしに、主演女優を思い浮かべる。すると重役は笑みを浮かべた。
「さすが、お目が高い。夜のラナンキュラスは別格ですからな。では僭越ながら、楽屋にて挨拶ができるよう取り計らいましょう。なに、私からのほんの気持ちです」
「は、はぁ。ありがとうございます」
困った。確かに舞台の上で見て、素敵だとは思ったが……それと対面で話すのとではまったく違う。
だが、下手に断っても角が立ちそうだ。それに、楽屋で供される料理のことは気になった。
うちのワインは、どんな料理と一緒に出されるのだろう。普通の食事処で飲むのとでは、やはり雰囲気も異なるのだろうか。
重役が劇場の人間に何か言いつけると、ルカ達は楽屋に案内された。重役も別の楽屋に通される。ひいきの役者がすでにいるようだ。
楽屋の扉を開ける。そこはまるで普通の部屋のようで、ソファには一人の美女が嫣然と座っていた。ふわりと広がるオレンジ色の髪は、まるで柔らかな花びらのようだ。
エデ・リトリアと名乗ったその女性から、ルカは目が離せなかった。彼女のぽってりとした魅惑的な唇が何か言葉を紡ぐたび、甘い痺れがルカを襲う。こんな感覚は生まれて初めてだった。
確かに、舞台の上の彼女を眺めるのと、直接対面するのとでは勝手が全然異なっていた――――その女神のような美しさは、ルカを虜にするのに十分すぎる。
舞台と客席の間には、圧倒的な隔たりがあった。遠い世界の人間の美醜は、芸術品を鑑賞しているかのようにどこか他人事として受け止められた。
だが、今はどうだ。手を伸ばせば届く距離に、美と愛の化身がいる。相手は生身の女性なのだと思い知らされる。それに気づいてしまえば、もう戻れない。
こんなことになるのなら、花束のひとつでも用意してくればよかった。せめていいワインを差し入れよう。ルカは小間使いを呼び、自慢の銘柄を持ってこさせた。
その芳醇な味わいはエデの眼鏡に適ったらしく、うっとりと頬を染めてルカにしなだれかかってきた。
このあたりで、さすがのルカも何かおかしいことに気づく。失礼にならない程度のさりげなさを装い、内心では心臓をバクバク鳴らしながら、ルカはエデから距離を取った。
「あら、どうしたの?」
酔いが回って少しとろんとした赤紫の目が、ルカを見上げている。白くて細い彼女の腕は、そのままルカのトラウザーズに伸ばされた。
ルカだって健全な若者であるからして、好みの美女に急接近されれば平静は保てない。免疫がないこともあって、すっかりたじたじだった。
だからこそ、ここで理性を働かせなければ。『田舎育ちの野獣、帝都の美姫を襲う』……無理無理無理。脳内で踊った架空の新聞の恐ろしすぎる見出しを慌てて掻き消し、ルカは自然に見えるようにエデをかわしてワイングラスに手を伸ばした。
ルカは長身ではあるが、野獣というほど粗暴そうには見えない。しかし長年の農作業のおかげで、実は服の下は意外と引き締まっているのだ。
それに、田舎臭さの象徴である訛りがうっかり出てしまえば、下品なけだものと思われても仕方ない気がする。欲望に負けて醜態を晒すのならなおさらだ。
「今日はただ、ご挨拶にうかがっただけですから」
血筋なのか、ルカは酒豪だ。その体質は生業を思えばメリットしかない。
酒を飲んでタガが外れたことは一度もなかった。むしろ緊張を和らげて自信を与えるスイッチだ。ワインの力を借りて落ち着きを取り戻したルカを、エデは不思議そうに見た。
なんとかその後も紳士的に振る舞い続け、喋るだけで時間を迎えた。劇場に用意させた食事を食べながら舞台の感想を話すだけで、時間はあっという間に過ぎたのだ。
エデと話すのは楽しかった。エデは聞き上手で、話も面白い。緊張のあまりルカが妙なことを口走っても、エデは嗤わず聞いてくれた。
それはきっと、そうすることが彼女の仕事だったからだ。何もかもを肯定し、盛り上げてくれるエデの話術は、ルカにとって心地よかった。
久しぶりに、自分の仕事とは関係ない話をできた気がする。もしも自分に友人が……あるいは恋人がいたら、こんな感じなのだろうか。
部下にこっそり尋ねて“劇場”のもう一つの意味を知ったルカは赤面したものの、エデと知り合うきっかけをくれた重役には感謝した。
以来、ルカはクレセント座に足繁く通うようになった。公演の後に花束と手土産を持参してエデに会うのは、ルカの数少ない楽しみの一つになった。
こうしてベイル家の御曹司は夜のラナンキュラスの支援者の一人になり、やがて遠い偶像への恋に身を焦がすようになったのだ。
顔馴染みと呼べるぐらいに仲が深まって、エデはぽつぽつと自分の話をしてくれるようになった。家族のことも、彼女の口から教えてもらったことだ。
懸命な彼女のために何かしてあげたくて、彼女の小さな弟妹も誘って母の経営するレストランに連れて行った。劇場に払う金を上乗せすれば、役者を外に出したり公演外で会ったりすることも許されたからだ。
偽善はいらないと、憐れむなと怒られないか心配だったが、エデは喜んでくれた。彼女の小さな弟妹達も、美味しそうに料理を頬張ってくれた。
無邪気な子供達のことはルカもすっかり気に入ってしまい、エデを通しておもちゃやお菓子をあげることも多々あった。この若さですでにこんなにいい子達を守り育てているのだから、エデはきっと心根も綺麗な素晴らしい庇護者なのだろう。エデへの好意はますます高まった。
結婚するならこんな女性がいいな、と、微笑むエデを見て何度思ったかわからない。
金で娼婦を買っているにもかかわらず、一度も褥を共にできないヘタレ。それがルカだ。
そのくせ恋人面はするだなんて、気持ち悪い男だと思われているかもしれない。金がなければ、エデはきっと自分のような野暮ったくてつまらない男になど関心も持たなかっただろう。
ルカの自己評価は、十四の頃の自分で止まっていた。
商人という鎧を脱ぎ、見栄と虚飾の盾を捨てれば、そこにいるのは地味で芋っぽい自分だけだ。都会の洗練されたお嬢さんに、本気で相手をされるわけがない。
それならそれで構わなかった。裏を返せば、自分のような冴えない男でも金さえあれば人を振り向かせることができるということなのだから。
だから、エデもいつかきっと、諦めてくれるのではないだろうか。たとえ心を別の男に寄せていても、ルカの手を取ってくれる日が来るかもしれない。
ふとした時にそんな風に思ってしまう自分のことが、たまらなく嫌いだった。
エデのことは好きだ。でも、どうすればエデに好かれるのかわからない。
自分が何をしたって、エデの本当の心は得られないのではないか。金でしか、エデを繋ぎ止めることができない。それはなんて虚しくて、無様なことなのだろう。
悩んだまま月日は過ぎる。
エデの義兄が、将来有望な軍人であると小耳に挟むたびに男としての格の違いを見せつけられたような気がして。その男が、自分がいかに人気の女優と仲がいいか吹聴しているか聞いて、醜い嫉妬はもはや抑えきれないほどに膨らんでいた。
エデも彼のことを愛しているのだろうか。女優でも娼婦でもない、一人の女性としての彼女をもっともよく知る男が、ウィズという将校だ。ルカとはまったく違う立場に、その男は位置していた。
悔しかった。惨めだった。頭がおかしくなりそうだ。貢ぐことでやっと二番手になれた自分を、ウィズがどこかで嘲笑っているような気がした。
だから、まさかエデがルカの求婚を本気で受け入れてくれる日が来るだなんて、その時が来るまでルカは思いもしていなかった。
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