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「あたしには一つ、認めたくないことがあったの。だからずっとそのことから目をそらして、知らないふりをしてたわ」
女優と支援者。娼婦と上客。庶民の女と裕福な男。本気になったほうが馬鹿を見る、そんな恋ばかりを見てきたから。自分がそんな喜劇の主役を演じるのはまっぴらだと思っていた。
「でも、ウィズにあんなことを言われて気づいたの。ああ、好きな人がいるんだって周りから思われるくらい、あたしって心から舞い上がっちゃってたんだって」
明確に意識を始めたのは、一年ほど前からだろうか。親の権力を傘に着て、強引にモノ扱いしてくる年若い一見の支援者を見て、「ここにいるのがルカだったら」と思ったのがきっかけだった。
他の若い支援者にはない、余裕そうで紳士的なエスコート。父親や祖父ほどに年の差のある相手ならまだしも、同世代でその包容力を見せてくれるのはルカだけだ。
まるで本当の恋人のように扱ってくれる彼に、思わず勘違いしそうになる。それを自制するだけで精いっぱいだった。
彼は客だから。特別扱いするのはそういう営業の仕方だから。ずっと自分にそう言い聞かせてきた。
でも、ルカにあげようと作ったお菓子の余りを家族に配った時や、ルカに贈ろうと思って結局渡せずしまい込んだ男物のプレゼントを眺める時に、エデを見た誰かはこう思ったのだ。彼女は恋をしているに違いない、と。
エデが客に恋するなんて、誰も思わなかっただろう。客自身も、エデに愛を囁くくせにエデのことを難攻不落の要塞か何かと思っていた。
だから、恋するエデを見た誰かは、プライベートのエデにもっとも近いところにいる男……ウィズこそ懸想の相手だと勘違いしたに違いない。
「だからもう、認めざるを得なくなったのよ——あたし、ルカのことが好き」
そのルカからすらも、ウィズのことを好きだと思われていて。ただただそれが悲しかった。想いは同じはずなのに、まったく通じていなかったことが。本当に選びたいのはルカなのに、妥協だと思われてしまうことが。
ルカにそう思われる原因になった、それまでの自分の振る舞いを悔いた。ルカに嫌われたくないと、不安だったのはエデだけではない。ルカだって、ずっと自信がなかったのだろう。
「ルカに嫌われたり、捨てられたりするのがずっと怖かったわ。客を相手に本気になって、幸せになれる人がどれだけいると思う? 愛人になるのを了承するのは、みんなお金のためって割り切ってるからよ。だってそうしないと、いつか傷つくのは自分だって知ってるもの」
エデはルカに手を伸ばし、彼の手に重ねた。固くて、温かい。
「女優と支援者。その関係性さえ保ち続けて一線を超えなければ、誰だってうまくやれるの。だってただの遊びだもの。……だからずっと、あんたの求婚も本気にしないであしらってた。でも……ルカは本当に、あたしを愛してくれるの?」
「冗談であんなことは言いません。一生をかけて幸せにしますし、当然貴方を日陰の存在にするつもりもありませんから」
ルカは強く言い切る。たとえそれが楽屋の中だけの戯言だったとしても、嬉しかった。
* * *
エデ・リトリアを一座から退団させる交渉は、思ったよりもあっさりと終わった。
エデは役者として身を立てたいわけではなかったので、結婚を機に引退すると彼女から申し出があったのだ。
エデ本人の同意という大義名分があれば、ルカはどこまでも強気になれた。
ルカが父から任された、ディオネイス商会の名も大きいだろう。支配人はエデの退団に合意した。これでエデは、晴れてルカだけのエデになったのだ。
もともと、女優を妻にしたいというのは両親に打ち明けていた。両親はそれを快く認めてくれていて、あとはエデの了承を得るだけだったのだ。
金に物を言わせて強引に娶ることもできたが、それではルカの気が収まらなかった────何故なら彼は、生粋の夢見がちな純情童貞だからだ。
「信ずらぃね。エデさん……わーのかがに……!?」
劇場を出たルカは心の中で喝采を叫び、拳を天に突き上げる。
あの勝気な美女がついに自分との結婚を承諾してくれたのだと、道行く人々に触れ回りながら大通りを駆け抜けたい気分だった。というか、ここが故郷の村だったらやっていた。
ベイル家は、古くに財を成した老舗のワインメーカーだ。南西部に広大なブドウ農園をいくつも持ち、自社の醸造所や直営店を営んでいる。
最高級の品質を誇っていると、国内外では有名だ。ルカのディオネイス商会も、ベイル家の直営店としてワインやそれに関する商品を取り扱っている。
両親は商売のために帝都にいたが、ルカは子供の時から南西部に位置する郷里の村でブドウ農家として暮らす祖父母に育てられていた。自分の扱う商品に幼いころから触れることで理解を深め、大地とともに在るのだという価値観を根付かせるためだ。
故郷は超がつくほどのド田舎だ。そこは大地主であるベイル家の産業によって成り立っている、ワインのための村だった。田舎育ちの御曹司は、大店の跡取りというより豪農の長男だった。
だからルカは、従業員に混じって農作業に従事し、醸造職人に師事してきた。村の大人はルカを若だとか坊だとか呼んで可愛がり、ルカも彼らになついて素直に従った。
大人達の教えをぐんぐん吸収するルカは、神童ともてはやされるようになった。たまに帰ってくる両親はルカの成長を喜び、ルカも期待されているとわかって嬉しかった。
子供ということで酒が飲めない悔しさを、知識量で補った。
産地と香りでワインの味を想像し、いつか飲める日が来ることを楽しみに待ち続けた。
農業と醸造に関する知識、そしてワインに対する情熱なら大人にだって負けない自信があった。
そしてルカは、剪定されて廃棄されるブドウを扱う老婆の手が妙に若々しいことに目をつけた。ルカの発見によってベイル家ではワインをもとにした化粧品も扱うようになるが、この時の功績からルカの名声は本人の知らないところで確立されていた。
やがて十四歳になったルカは、大学に行くことになった。ずっとこのまま村でブドウを育てていたかったが、両親の跡を継ぐならそういうわけにもいかないからだ。
祖父の信条で、村には田舎に似つかわしくない立派な学校があった。よりよいブドウを作り、よりよいワインを作るには、それにふさわしい学問の知識が必要だというのが祖父の意見だった。
そこには村の住民であれば大人でも子供でも通うことができ、ルカも仕事の合間に通っていた。基礎学力に問題はないので、箔付けのためなし崩し的に有名な大学を進学先に選んだ。
南西部の地方都市にある、南西部で一番大きな大学だ。同年代の友人の中には、進学のためにいっとき村を離れる者もいた。だが、その大学……その地方都市に行くのはルカだけだった。
けれど、そこでルカは人生初の挫折と呼んでもいい、もっとも大きな問題にぶち当たった。
勉強についていけなかったわけではない。むしろその逆で、勉強以外のことが何一つわからなかったのだ。
南西部の中でもさらに田舎で育ったルカの言葉には、強い訛りがあった。
けれど周りの教授も学友も、こんな話し方はしていない。訛ってはいるが、ルカほどきつくはないのだ。それに気づくと途端に恥ずかしくなって、ルカは極端に口数を減らしていった。
自然ばかりの村で育ったルカの目には、地方とはいえ都市の様子は異様に映った。右も左もわからないのだ。辻馬車を呼ぶより裸馬にまたがるほうが楽だったし、おしゃれのひとつも満足にできなかった。
話題も合わない。賭け事もダンスもさっぱりだ。酒場の話ならいけるかと思ったが、あの曜日には胸の大きな女給がいるとか、あの酒場にいる女給は尻はでかいが顔はイマイチだとか、そういう話だったのでついていくのは早々に諦めた。
見た目は決して悪くなく、根もまっすぐなルカだったが、周囲と打ち解けて誰かと親しくなることはできなかった。ベイル家の御曹司ということで最初は注目されたものの、野暮ったくて無口なルカを見て誰もがすぐに興味を失ったのだ。
それまで故郷で大らかな愛に包まれていたルカにとって、都会で嗤われて失望されることは初めての経験だった。
怖くて怖くてたまらない。冷たい視線に耐え切れず、自分から彼らに近づくこともできなかった。
道行く人々を観察し、真似をして、都会の人間らしく振る舞ってみた。丁寧な言葉を使うことで訛りを隠し、服も人気の生地と型のものだけで揃えるようにした。
けれどいつまで経っても、どこかがちぐはぐで誰かが嗤っているんじゃないかと不安だった。
あまりにもしんどすぎて、大学は飛び級で卒業した。勉強以外にすることもなかったせいか、成績が途方もなくよかったのだ。
重苦しかった大学生活は、通常六年かかるところを四年で終わらせることができた。
これで故郷に帰れると喜んだのもつかの間、帝都に来るよう両親に呼ばれてしまった。祖父母もいい勉強になるから行ってきなさいと言うし、ルカは泣く泣く帝都に行く羽目になり────地方都市で震えていたのが馬鹿らしくなるほど、本当の“都会”を目の当たりにしたのだ。