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「大尉の婚約者殿がわかりましたよ」
手土産の大きな花束とチョコレートを掲げ、ルカはなんでもないことのように言った。
「……あのねぇ。女の子との逢瀬の時に、他の女の子の名前を出すなって教わらなかった?」
二週間前の話を、わざわざ蒸し返されるとは。
こんなことなら楽屋に入れなければよかった。エデは溜息をつく。その間にも、ルカは手早く高価な赤ワインのボトルを入れていた。どうせ自分の商会で扱っている品なのだから持参すればいいのに、彼は毎回高価なものをわざわざ注文してくれる。
この曜日のこの時間帯はルカを接待するための時間だ。予約は毎回きちんと入れてあるし、今回の支援額も申し分ない。支配人からも、ルカのような太客は逃がすなと口を酸っぱくして言われていた。
エデの苛立ちに気づいているのかいないのか、ルカは我が物顔で晩酌の用意を始める。
エデの楽屋は広い。応接間と寝室の続き部屋だ。ルカを寝室に通したことはなかったが、応接間のことであればエデの支援者の誰より知り尽くしているだろう。
「名はフレミア・リンバーソン嬢。カルゼル男爵のご息女ですよ。カルゼル男爵は第三師団の司令官ですから、典型的な政略結婚かもしれませんね。これで大尉は出世街道まっしぐら、というわけです」
「そう。だから? 貴族のご令嬢なんて天地がひっくり返っても勝てっこないのはわかったけど、そもそもあたしには争う気なんてないのに」
「現実を見てください、という私からの優しさです。貴方が恋した男は、貴方の微笑ではなく自身の栄達を取ったんですよ? そんな男のために、どうして貴方が憂うことがありますか」
「現実なんて、わざわざ教えてもらわなくてもとっくに思い知ってるわよ」
エデはワイングラスを呷り、チョコレートをつまむ。ほろ苦くて、けれどしっとりと甘かった。
「別にいいじゃない、出世が第一で。人間、仕事がなければ何もできないわ。愛さえあればいいなんて、そんなのは嘘っぱちよ」
「……」
「どうやって調べたか知らないけど、おあいにくさま。ウィズが誰と結婚しようがあたしにはちっとも関係ないの。あたしの心を揺さぶって、絶望させたかったなら残念ね。その情報収集力、もっと人の役に立つことに使ったら?」
ルカは何も言い返してこなかった。どうしたのだろう、とチョコレートの皿から顔を上げる。
ルカは悔しそうにエデを見ていた。彼の手元のグラスはいつの間にか空になっていた。
「愛がなくてもいいなんて、それが貴方の本心であるはずがありません。だって、それなら貴方が私からの求婚を拒む理由がありませんから。金さえあればいいのなら、私でもいいじゃありませんか」
「ルカ?」
「ねえ、エデさん。支援者の分際で何をと笑われるかもしれませんが、私はこれまで貴方を大切にしてきたつもりです。貴方が何をすれば喜んでくれるか知りたくて、随分慣れないこともしました」
宝飾品や花束を貰ったことは数え切れない。今日のように、高級店のお菓子もよくもらった。家にいるちび達も食べられるようにと、たくさんだ。
流行の仕立て屋で、最新のドレスを仕立ててもらったこともある。高級レストランには、ちび達もめかしこんで連れていってもらったっけ。
それらは、ルカが勝手にやったことだ。
客は金を出し、娼婦は彼を悦ばせる。
だから、彼が望む結果をもたらそうと、エデはすべてを喜んだ。
もちろん、もらってばかりではだめだ。誕生日やら記念日やら、まめにチェックした。彼の好みそうなものを好むようなタイミングで渡し、自分がエデの特別であると錯覚させた。
それが仕事だから。仕事だから、やってもよかった。
他の男が相手でも、同じことをしている。彼らへのそれが演技だったか本心かは、いちいち覚えていられない。
女心をくすぐることのできる男、という評価は、プライドを大いに満たしてくれる。ルカも、そういう手合いだと思っていた。
「貴方を苦しめるもの、貴方を悲しませるもの、何もかもを奪ってしまいたい。愛以外であれば、私は貴方が求めるすべてを用意できます。貴方の好きなもので溢れた私だけのしあわせな楽園に、何度貴方を閉じ込めようと思ったことか」
握りしめて震えるルカの拳は、力が入りすぎてまっしろだった。
「でも、それでは貴方は笑ってくれないでしょう? ……貴方の愛する家族を奪ってまで、私は貴方を束縛することができない。愛する貴方を、私が愛したせいで傷つけたくないんです」
やめて。そんな簡単に、愛してるなんて言わないで。
そう言えたらどれほどよかっただろう。けれど言葉は喉に貼りついたまま出てこない。
これがなんてことのない楽屋での軽口だったなら、いつもの通り受け流せた。支援者の囁きを本気にするなんて馬鹿なことはしなかった。
エデは、そうやって弄ばれてきた先輩をたくさん見てきた。
支援者達にとって、エデ達は後腐れなく遊べる存在だ。侍らせて可愛がることのできる、見目のいい人形。それだけでしかない。
舞台から降りたエデ達がただの人であるように、楽屋を出れば支援者達もひとかどの人物になる。
立場があって、仕事があって、身分があって、家庭がある。彼らを相手にした恋が本当に叶うなんてこと、あるはずがなかった。
でも、今は。エデの恋心がずたずたになって、ウィズを勘違いさせてしまったせいでシャロンからも家族を奪ってしまった今、ルカの苛立ちはただ甘く聴こえた。
「金を払わずとも貴方と恋人になれる男が妬ましかった。愛を金で買って恋人ごっこに興じる私では決して手に入らないものを、その男は持っていたんですから」
ですが、その男はせっかくの特権を捨てました。
そう吐き捨てるルカの目には、明確な憎悪が宿っていた。
「あんな見る目のない男などではなく、私のことを選んでくれませんか。私なら、あんな男なんかより貴方を幸せにできますし、貴方の背負うものごと愛せます。……どうしてもあの男がいいと言うのなら、私をあの男の代わりと思ってくれても構いません。目を閉じて、あの男の名で呼ぶといいでしょう。その間、私は黙っていますから」
「……それは無理ね。あんたとウィズって、ちっとも似てないし」
反論しようとしたルカを、手のひらで押し止める。
確かにルカとウィズは、全然似ていない。顔立ちも、髪や目の色も、声も体つきも、それにもちろん性格も。
「そもそも、なんであたしがあんたをウィズの代わりにしなきゃいけないの? ……あたし、ウィズのことが好きだなんて一言だって言ったかしら」
「……はい?」
エデはわざとらしく大きな溜息をついてルカを見つめる。透き通る琥珀のような彼の瞳は戸惑うように揺れていた。
「十年以上も家族としてやってきた相手に他人呼ばわりされたら、誰だって怒ると思うんだけど。そりゃあたしの場合は職業が職業だから、仕方ないとは思うわよ? 婚約の決まった男が娼婦と仲良くしてるなんて、醜聞以外の何物でもないだろうし」
でも、それだけなら、シャロンにまで釘を刺す必要はない。彼女は大学で医者になるための勉強をしているような、真面目で優秀な子なのだから。
義家族になる者達にエデのことを紹介できないのはわかるが、シャロンなら堂々と妹と呼べるだろう。それなのに、女性であるという理由だけで交友関係が制限されるなんておかしい。
だから、もう一つ理由がある。ウィズがシャロンとエデを妹だとみなせないような……職業ではなく性別で、他人から家族同然のつながりを否定されるおそれがあることが。
それは多分、エデがウィズに恋していることだ。正確には、エデが自分に恋しているとウィズが思い込んでいること、だが。
ウィズがそんな勘違いをするに至った原因は、たぶんエデにもある。
こんなことになるのなら、うかつにウィズを頼るんじゃなかった。彼ぐらいの年の男性はどんなものを好むのか、ウィズから聞き出すのではなく……素直に、ルカ本人に聞けばよかったのだ。
支援者に渡すプレゼントは、ある程度のマニュアルが存在する。貴族社会のマナーやら、家族に見つかったときの言い訳やらを考慮して選ぶためだ。
だけど、ルカに配偶者や恋人はいないし、資産家ではあるが中流階級の出だと聞いていた。家族とも一緒に暮らしていないと言っていたから、マニュアルに従わなくても大丈夫だと思ったのだ。
だから、日頃のお礼を兼ねてちゃんとエデが選んだものを贈りたかった。一番の太客なのだからそれくらいのサービスはしてやるべきだと、自分に言い聞かせて。
本音を気取られるのが怖かったり、タイミングを失ったりして、贈れなかった物もある。それでも、プレゼントは捨てる気にも横流しする気にもなれずしまい込んでたまに眺めていた。
ことあるごとに、もっとも身近な参考資料としてウィズを頼っていた。同じ一座の男優には、ルカへの想いを勘繰られるのが嫌で訊けなかったからだ。
同じ場所にいる以上、どこかで見かけることはある。何かのはずみで、エデが真剣に選んだ物を支援者の青年が身につけているところを見られたら。
その意味を、同僚達はすぐに察する。もし気づかれていれば、彼らはエデを諫めただろう。逆の立場ならエデもそうしていた。
その点、ルカとまったく接点のないウィズは安心だった。ウィズなら何も気づかないからだ。
ウィズには、付き合ってくれたお礼を贈ったこともある。そういう積み重ねが、ウィズ本人の勘違いを招いたのだろう。
常連客へのご機嫌取りのためだとは説明していたが……それすらも建前なのだ。ただの強がりだと見抜かれて、明後日の方向に受け取られても仕方ない。
「あたしが一番ショックだったのは、あたしがウィズに恋してるってあんたにまで思われてたことよ、ルカ」
 




