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「あははははっ! それで、英雄サマを伸してきたと? 見てみたかったですね、勇猛果敢な将校が美女に再起不能にされるところは!」

「そこまでしてないわよ。頬を思いっきりひっぱたいて、家から蹴り出しただけ」


 ワイングラスを手に笑う瀟洒な紳士の名はルカ・ベイル。彼は、エデの太い支援者の一人だ。

 十八の時から二年間、二週に一度は来てくれる。仕事が立て込んでいて来れないときは、言伝までよこすマメっぷりだ。エデに貢いだ額で言えば、この六年間の全支援者の中でもトップに君臨するかもしれない。


 年はエデより二つ上だというが、その若さで劇場に出入りして派手に遊ぶ者は決して少なくなかった。それだけ親の金を自由に動かせるということだ。

 ルカも国内では指折りの豪商の息子らしい。彼自身も、南西部に大きなブドウ農園を所有しているとか。支援者の素性を深く追求しないのは暗黙の了解で、金さえきちんと払ってくれるなら細かい懐事情などどうでもいいのだが。


 ルカはワインを飲み干し、エデに手を伸ばした。エデは顔をしかめるが、手に重ねられた彼の手を受け入れる。

 確かにルカとは友人とも呼べるような気安い仲だ。だが、女優と支援者として逆らうことの無意味さはよく知っていた。


 ルカは他の支援者とは違い、支援の見返りにエデの体を求めることはない。流行りの店で買い物に付き合わせたり食事をしたり、あるいは社交界での同伴者にする。そればかりだ。

 そういう使い方・・・も珍しくはなかった。ただ、若い女性を娘のように可愛がりたい老紳士ならまだしも、若者がそれだけで満足するのはあまりないことだが。少なくとも、他の若い支援者の中ではルカしか知らない。


「ねえ、エデさん。これで貴方を守ってくれる王子はいなくなりました。いい加減、私のものになってくれませんか? 貴方はもちろん、貴方の弟妹だって幸せにしてあげますから」

「……」

「かの英雄サマも、貴方の手を振り払ったのでしょう?」


 正直なところ、エデはこのルカ・ベイルという青年を苦手に思うことがあった。ルカの心は、いつだって読めないからだ。


 彼が何を望み、何を言ってほしいのか。どれだけ観察しても察せない。そういう相手はたまにいる。

 その中でも、特にルカは外しやすかった。それでもルカは幻滅した様子を見せないのが救いだが、だからこそ不気味でもあった。


 それは、怖いからだ。彼に嫌われるのが、怖い。

 何をすれば彼が離れていってしまうのかまったくわからない。闇の中を手探りで歩くこの不安感は、いつまで経っても慣れなかった。


「この仕事がいつまでも続けられると思わないでくださいね。もちろん今はいいでしょう。ですが十年後、二十年後、貴方は今と同じように暮らしていけるおつもりですか?」


 その答えは、エデもよく知っている。団員が一座を抜けるのは、他に望む生き方を見つけたときか、裕福な支援者に専属の愛人や後添えに望まれたときか、何かの事情でこの仕事を続けられなくなったときか……誰の“支援”も受けられなくなったときだった。


 華麗な転身ができなければ、あとは落ちていくだけだ。貯金も切り崩していればいつかはなくなる。

 いくら実入りがいいといえど、その収入は支援者の気まぐれに左右されるのだ。女優しょうふより安定していて、一度味わった贅沢を捨てなくて済む立場が手に入るのなら、誰だってそれに飛びつくだろう。


「……考えさせて」


 それでも、エデはルカに落籍を持ちかけられるたび、いつも返事を先延ばしにしていた。

 ルカのことが信じられないからとか、もっと金を稼ぎたいからとか、他にも支援者はいるしこれからが働き盛りだからとか、色々と自分に言い聞かせて。


 でも、きっと本当の理由は他にあった。それまでエデ自身も気づいていなかったそのことを、今のエデは自覚してしまっていた。


「またそれですか。頼みの綱の大尉は他の女性を選んだんでしょう? 貴方も諦めればいいのに」


 ルカが呆れたようにぼやく。

 心がぐさりと抉られたような気がして。エデの瞳から、勝手に涙があふれてきた。


「やだっ……!」


 その意味を否定したくて、エデは慌てて手で涙をぬぐおうとする。けれど、とっさに動かした腕はルカに掴まれた。


 ルカは怒ったような、悲しいような目でエデを見つめていた。


「泣くほど好きですか、あの男のことが」


 その問いに、今のエデは何も答えられなかった。


 ルカはハンカチでエデの涙を拭きとり、そっと抱きしめて頭を優しく撫でてくれる。それでも、胸の奥にぽっかり空いたところから流れ出てくる悲しみはいつまで経っても枯れてくれなかった。


*


「エデ、昨日ウィズが来て……」

「なぁに? あいつ、シャロンのところにも転がり込んだの?」


 翌日、青い顔のシャロンが家にやってきた。

 大学が休みの日、彼女はよくちび達に勉強を教えに来てくれる。特にジャンは飲み込みが早く頭がいいので、大学を目指すよう諭すべきかもしれない。ジャンは週に二日の学校でも成績がいいし、彼自身も勉強を好いているようだから、その気になってくれる可能性は高かった。


 今日も彼女は家庭教師のために来たのだが、どうも様子がおかしいと思ったらこれだ。休憩の時間になって、ちび達がおやつに夢中になっているうちに話してしまうつもりなのだろう。


「婚約が決まったから、あまり女性の影を感じさせたくない。だから距離を置いてくれ、って。それから、エデが傷ついてるだろうから慰めてやってほしいとも言われた。……言いたいことはわかるけど、わたし達の関係って……ウィズにとって、その程度のものだったんだ」


 シャロンは悔しげに拳を握り締めている。家族同然の絆をはぐくんで、もう十年以上が経った。それがこうもあっさり崩れるとは、彼女も予想していなかったのだろう。


「そりゃ、結局は赤の他人ですもの。あんたみたいにまっとうな子ならともかく、女優に親しげにされたら向こうも困るでしょうし」

「……わたしはエデのこと、嫌だとか恥ずかしいとか思ってないから。人とたくさん喋って、仲良くなって……それに、大勢の人が見ている舞台の上で堂々とできるなんて、エデはすごい」

「他にできることが思いつかなかっただけよ。たまたまスカウトされた仕事があたしに向いてて、好きで続けてただけ」


 分厚い眼鏡の奥の瞳は、とてもまっすぐだった。エデはうつむき、手元の紅茶に視線を落とす。


「別に、身を挺してあんた達に恩を売りたかったわけでもない。ちやほやされながら華やかな暮らしができて、楽しかったの。……だから、ウィズに拒絶されるのは当然なのよ。これまで自由にやってきたツケが回ってきただけなんだから」

「でも、そのこととウィズが勝手に家族を否定することは関係ないはず。エデがよくても、わたしは納得できない。どうしてウィズは、わたし達のことを家族だと説明できない? 貧民街出身の孤児だったと言えないから? 過去を隠してまで結婚することに意味があるの? どうせいつかは知られるのに?」

「あたしがウィズを家族として見てないって、ウィズは思ってたからでしょ。……ごめんね、シャロン。あたしのせいで、家族はばらばらになっちゃった」


 この場にいないウィズに対して怒りをあらわにするシャロンに、エデは静かに告げた。シャロンは戸惑った様子だったが、しばらくして目を見開く。


「エデ……もしかして、ウィズのこと……。ごめん、わたし、知らなくて……」

「……どうしてかしら。みんな、勘違いするのよね。あたしは確かに、恋をしてたけど――」


 ちゃんと笑えているだろうか。笑い話にできるだろうか。

 元々抱くべきではなかった想いだ。それを、舞い上がっていたからこうなった。


 家族でい続けたいのなら、せめて悟られずにしまいこんで捨てておくべきだった。無自覚の恋心をウィズに垂れ流していたなんて、最悪にもほどがある。


 何とも言えない微妙な空気は、皿を片付けに来たジャンが壊してくれた。シャロンは気遣わしげにエデを一瞥し、ちび達の授業を再開させる。


 もっと馬鹿にして、軽蔑してくれてよかったのに。そうすれば、あの愚かな恋を忘れられるような気がした。

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