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「わぁ……!」
鏡台の前に座るフレミアは、目を輝かせて鏡を見つめた。
フレミアとの買い物は、ティーサロンでの邂逅から数日後に実現した。
フレミアを連れてあれこれと買った後、さっそくリンバーソン邸に戻ってエデが手ずからドレスアップさせた。家庭教師は足腰が悪いので外出にはあまり同伴しないこと、エデに説得されて勇気を得たフレミアが帰宅後も彼女を締め出したことで邪魔が入る心配はなかった。
「ざっとこんなものかしら。どう、あんた達。明日からこれ、やれそう?」
エデが尋ねると、フレミアのメイド達は力強く肯定の返事をする。もしかしたら彼女達も、家庭教師の言いなりになってフレミアに似合わない恰好をさせることに心苦しさを感じていたのかもしれない。
フレミアはエデの手によってだいぶ様変わりしていた。わざわざ買い物に連れ出して磨いたかいがある。
もう、あの時代遅れでぼんやりした野暮ったい少女はいない。そこにいるのは大人びた雰囲気の、気高く凛とした淑女だ。誰にも不美人だとは言わせない。もちろんフレミア自身にも。
「これで少しは自信がついた?」
「はい、お姉様!」
フレミアの眼差しがあまりに純粋すぎて、ツッコミが遅れた。
「わたくし、ドレスやお化粧なんてどれも同じだと思っていて……でも、お姉様のおかげでそれが間違いだったと気づくことができたのです! わたくしでもこんなに素敵になれるだなんて、お姉様がいらっしゃらなければ一生知らないままでした」
「そう。そこまで喜んでくれるなら、あたしも嬉しいわ」
ここで指摘して訂正を求めるのは無粋では? エデは流すことにした。
「あとは、もう少し全体的に肉付きをよくしたいところね。食べて寝て運動する、これが美容には一番大事なの。おすすめの体操をいくつか教えてあげる。毎日続ければ健康的になるし、豊胸にも効果があるわ」
「やっ、やります! ぜひ教えてくださいまし!」
フレミアは食い気味に頷いた。その視線はエデのたわわに実った胸元に注がれている。
ディアードラには小枝のようだと言われたエデの四肢だが、これでもだいぶ鍛えてはいた。
引かれない程度に引き締まった手足はすらりと美しく伸びている。体型の維持は当然の心得だった。
フレミアの専属メイド達も交え、毎日続けられそうなエクササイズを何種類か伝授する。もしこれでフレミアが音を上げるようなことがあっても、メイド達が引っ張ってくれるだろう。目に見えた変化はすぐには現れないだろうが、いずれ効果を実感する日が来るはずだ。
そろそろ帰ろうかと思ったころ、部屋の外からフレミアを呼ぶ声があった。家庭教師だ。来客を告げている。どうやらウィズが来たらしい。
ちらりとフレミアを見る。知らせを聞いたフレミアは怯えたように目を見開いたものの、エデの目を見て頷いた。
ドアを開けたフレミアの姿に「そんなはしたない格好をするなんて情けない」だとか「淑女としてふさわしくない」だとか金切り声で駄目出しする老婆の声など、今のフレミアには聞こえないようだ。それでいいとエデも思う。
「反してるのは貴族社会のマナーにじゃなくて、あんたがフレミアに押しつけてるその黴臭い考え方にでしょ。あんた、ちゃんと社交界に出たことあるの?」
家庭教師が泡を吹いて倒れたので後のことはメイドに任せ、エデは帰ろうとする。
だが、エデの袖を引く手があった。フレミアだ。
「お姉様、もしお姉様さえよければ、見守ってくださいませんか。図々しいお願いだとは承知の上ですけれど……」
「今さらよ。別にいいけど、離れた場所にいるからね。あたしが同席してたら、あんたもウィズも話しづらいでしょ」
まだ日は高い。帰るころにはフレミアの家から送りの馬車を出してくれるというので、夕飯までには間に合うはずだ。
*
庭園でお茶を飲むフレミアとウィズを、エデは少し離れたところから聞き耳を立てている。ちょうどウィズの死角になる位置だ。会話の内容はあまり聞こえないが、これ以上近づいたら気づかれてしまうかもしれない。
ウィズはフレミアに花束を渡し、照れくさそうに褒め言葉を告げている。朴念仁にしては気の利いたことを言えているようで、フレミアの顔は真っ赤だ。
どうやらウィズはちゃんと婚約者をやれているらしい。あくまでも最低ラインとして、だが。もしこれでイメチェンにすら触れないようならエデが殴っていたところだ。
「おね……エデ様に、不躾な物言いをなさったと聞いています。それは、わたくしのせいなのでしょうか」
あたしもルカといちゃいちゃしたーい。エデが小さくため息をつくほど、フレミア達は和やかに昼下がりを過ごしている。
そんな中、不意にフレミアの声が大きくなった。多分、エデに聞かせようとしているのだろう。
それは、ウィズの本音を聞き出すための諸刃の剣だ。まあ、今さら何を言われようと傷つく繊細な心はないが。
「誰から聞いたんだ? ……あれはフレミアが悪いわけじゃない。俺一人が背負えばいい罪だ。だから、気にしないでくれ」
「そ……それでは、納得ができません。わたくしは、貴方の婚約者でしょう? いずれ妻になる身のわたくしにすら打ち明けられない秘密なのですか?」
「……わかった。話そう。俺だって、あんなこと好きで言ったわけじゃない。俺が貧民街で生まれ育ったことは前に話しただろう? 養父に拾われてからは多少マシな暮らしができるようになったが……俺にとって家族は、戦友みたいなものなんだ。その絆は血より濃いと信じてるし、全員幸せになってほしいと本気で願ってる。軍人になったのも、その願いの延長だ」
「で、では、何故?」
「あそこまで手ひどくフれば、エデも幻滅してくれると思ってな。俺はエデの想いには応えられない。だから、せめて俺のことなんてすっぱり忘れてもらいたかったんだ。なんの未練も残らないように」
ふ、と自嘲気味にウィズは笑った。位置的にエデからは見えないが、雰囲気でわかる。
「あいつは強い女だ。本当にあいつを愛してくれる男だってすぐに見つけられるだろう。俺が最低で薄情な男になれば、あいつもきっと次の、」
「いやほんとあんたって自意識過剰ね!? なんで一人で悲劇のヒーロー気取ってんのよ! そういうのはちゃんと受け止めてくれる相手にやりなさい!」
思わずエデは立ち上がって叫んだ。振り返ったウィズの目が零れ落ちてしまいそうなほどに見開かれる。
「な……エデ!? どうしてここに!?」
「フレミアに頼まれたからよ」
いいからそこになおって話を聞けと、エデはドスの利いた声で命じる。ウィズはおとなしく従った。
「いい? そもそもあたし、あんたのことなんて男として見てないから。あたしが好きな人は、この前の夜会のパートナー!」
「えっ」
「あんたには、あの人に贈るプレゼントとか、あの人とのデートコースの相談をしてただけなの。確かに下見であんたとはよく出かけたし、練習で作りすぎたお菓子を分けることもあったけど、あんたと選んで買った物をそのままあんたに贈ったことがあった?」
「恥ずかしくなって、あえて外した物にしたのかと……」
「そうだとしても、毎回渡しそびれると思う!? あれはただのお礼よ、お礼! 義理!」
日頃からツンケンしているとろくなことにならないとつくづく思う。ルカには本音が全然伝わらないし、ウィズには照れ隠しだと受け取られてしまうのだから。
「ようするにあんたは一人で勝手に勘違いして、一人で“婚約者と幼馴染との板挟みになって悪役を演じるオレ”に酔ってただけってこと! 勘違いのまま突き進むにしても、もうちょっとやりようあったと思わない?」
「……待ってくれ。つまり俺は、何かとてつもなく恥ずかしい奴なのでは?」
「あんたを勘違いさせちゃうほど、あたしがたるんでたってのはあるけどね。シャロンにもちゃんと謝っといて。あんたへの信頼と好感度は失墜してるでしょうから。ていうか、なんでシャロン達まで邪険にしたのよ。家族と縁切ることなかったでしょ。ちび達には、英雄サマは忙しいって説明してあるけど」
「お前がシャロン達を通じて外堀を埋めてくるかもしれないと思って……。それに、フレミアを不安にさせてしまうと思ったんだ。“お前の気持ちは嬉しいが付き合えない、これからもずっといい家族でいよう”なんていうのも、逆に残酷だしな」
「あんたって頭の中に藁が詰まってるタイプ?」
ウィズは顔を赤らめて、「あんなに悩んだのに……」とうめいている。そんなことはエデの知ったことではない。
「謝るのはフレミアにもよ。あんたがふらふらしてたら、フレミアだって不安になるわ」
手段と結果はどうあれ、婚約に際してきちんと女性関係のけじめをつけようとしたことだけは褒めてやってもいい。だが、それ以外はだめだめだ。
「ふらふら、だと?」
「そっ、そうです! 確かにわたくしは至らない婚約者ですが、少しでもウィズ様にふさわしいように努力してみせます! ですからどうか、どうかわたくしを捨てないでくださいまし……」
「遠慮なんてしてないで、もっと強気に言いなさいよ。こいつ馬鹿だから、変に下手に出ても伝わらないわ」
「……わたくし、ウィズ様のために美しくなりますから……どうか、他の女性に目移りしないで……」
それが限界だったのだろう、フレミアはそっと目を伏せる。瞳には涙の膜ができていた。
あまりの健気さにエデは困惑しきりだ。ぶん殴って婚約解消を言い渡してもいいのでは。エデは内心で首をかしげた。
「目移り? ……ああ! ええと、大変申し訳ないがフレミア、あれは条件反射というか、目の前で揺れるものがあるとつい追いかけてしまうというか……。別に、貴方に不満があるわけではないぞ? しかしそれはそれとして、抗いがたい本能というものがあってだな」
エデは今日も、まぶしいデコルテを惜しげもなく晒した服を着ている。歯切れの悪いウィズの前で、エデはさりげなく身じろぎをした。
すると、フレミアをまっすぐ見ていたウィズの視線がわずかにそれた。
エデにあってフレミアにないもの――――甘やかに実った大きな果実が、たゆんと揺れたからだ。
「フレミア、やっぱこいつぶん殴っていいわよ」
「今のは卑怯だぞエデ!」
エデの気迫に飲まれたのだろう。わけもわかっていない様子で、フレミアは控えめにウィズをちょんっと叩く。力が入っていないので、ただ押しているだけにも見えた。
「ねえフレミア、あんた本当にこんな婚約続けて大丈夫? 考え直したほうがいいんじゃない?」
ウィズの顔と身体つきだけはエデの目から見ても極上の評価を下してやっていいが、それ以外があまりにも壊滅的だった。
ちなみにルカは外見・性格・経済力すべてにおいて殿堂入りだ。比べるまでもない。
「ウィズ様は覚えていらっしゃらないでしょうけど、わたくしは一度ウィズ様に命を救っていただいたことがあって……その時から、わたくしはずっと……」
頬を染めたフレミアは、すっかり恋する乙女の目をしている。これは何を言っても通じないやつだと、エデは早々に諦めた。
「俺もフレミアのことは大切にしたいと思っている。初めて会った日のことは、俺もちゃんと覚えているぞ。三年前のカカリ大街道。あの時、魔獣の襲撃を受けた馬車に乗っていただろう? あの日のことだけじゃない。これから貴方と共に歩むその思い出すべてを、忘れないよう胸に刻んでいくつもりだ」
「ああ……! こんな幸せがあっていいのでしょうか。まさかウィズ様に、あの日のことを覚えていただけたなんて!」
「俺が縁談を受けたのは、出世のためじゃない。相手が貴方だったからだ。……魔獣の血で穢れた俺に、貴方は微笑みかけて礼を言ってくれた。魔獣に襲われて怖い思いをしたにもかかわらず、貴方は自分より従者達のことを気遣っていた。そんな貴方がもう二度と一人で震えることのないように、守りたいと思ったんだ」
「ウィズ様……!」
「お幸せにぃ」
ひしと抱き合う二人をよそに、エデは雑に手を振った。メイドに言えば帰りの馬車は出してもらえるだろう。
人の痴話喧嘩と惚気話に巻き込まれて疲れたから、帰ってルカにたっぷり癒やしてもらわないと。




