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他の招待客となごやかに談笑し、エデとも何曲も踊っていたことで、すっかりルカの気は緩んでいた。
「エデ?」
「……」
不意に背後から、エデの名を呼ぶ声があった。エデの顔が険しくなり、ルカの腕に絡めた手に力がこもる。
ルカが振り返ると、精悍な顔つきの青年と、彼に寄り添う地味な少女がいた。
大抵の招待客とは挨拶したと思ったが、彼らの姿は見ていないと思う。今しがた来たばかりなのかもしれない。だってもし最初からいたのなら、もっと話題になっていていいはずだ。なにせ、魔獣狩りの英雄が来ているのだから。
「信じられない。まさか俺に会うためにわざわざ来たのか? 招待状を持ってる奴をたらしこむなんて……」
「はぁ? 何の話? この方はあたしの婚約者なんだけど。ていうか、なれなれしく話しかけないでくださる? 赤の他人でしょう?」
エデはこれみよがしにルカに密着し、胸を押し当てた。胸元のあいたドレスだからこそわかる柔らかさは、こんな時でさえなければ素直に堪能できたのだろうか。
むしろ、今はその感触に意識を向けてはいけない。ルカは笑顔の仮面を深くかぶりなおし、邪念を追い払うべく頭の中でブドウ栽培の流れとワインの豆知識をそらんじた。
心を故郷の農園に飛ばし、脳内でワイナリー見学をする。ああ、我が愛しいふるさとよ。よし、だいぶ落ち着いてきた。
「行きましょ、ルカ」
「ええ。失礼します、リトリア大尉」
エデの声で現実に引き戻される。その時、ルカは確かに見た。話は終わっていないと慌ててエデに追いすがろうとするウィズと、エデを嫉妬に満ちた目で睨みつける令嬢を。
きっと彼女がウィズの婚約者だ。確か、カルゼル男爵の令嬢フレミアといった。
大変失礼ながら、どうにも彼女はエデと比べると褪せて見える。それがルカの恋する童貞フィルターのせいでないのなら、ウィズの目にもそう映っているかもしれない。
そしてそのウィズの失望と落胆は、他ならない彼女自身がもっとも感じているはずだ。もしかしたら、似たようなことは過去に何度もあったのかもしれない。
比べられ、呆れられ、嗤われて、忘れられる。その痛みは、ルカもよく知っていた。
フレミアの手には、赤ワインがなみなみと注がれたグラスがある。それがわずかに傾いた。怒りに染まった表情からは冷静さがうかがえない。
狙うのは自分をないがしろにする婚約者か、それとも婚約者をたぶらかす悪女か。エデはそんなことしていないが、少なくともあの令嬢の目にはそう見えていてもおかしくない。
その答えが出る前に、ルカはとっさにエデの前に出て彼女を庇う。
直後、びしゃりとワインがかかった。不快感とともに、シャツに赤いしみが広がっていく。
「エデさん、大丈夫ですか?」
今日のエデは、薄いドレープが幾重にも重なって広がる花のようなドレスを身に着けている。母と一緒に出掛けた時に仕立てたものらしい。その綺麗なドレスにワインのしみがつけば、エデはもちろん母も悲しむだろう。
振り返る。よかった、エデには一滴たりともかかっていない。
そう安堵したのもつかの間、エデは側にいたウェイターから驚きの素早さで炭酸水のグラスを取った。
「あたしよりルカでしょ!? しみになっちゃうじゃない!」
「……ッ! ご、ごめんあそばせ、手が滑って……!」
「よくある事故ですよ、お二人ともお気になさらず。ただ、服に飲ませるには少々もったいないほどおいしいワインですから、どうか新しいものを、」
「いいからほら、早くこっちに来て!」
フレミアは可哀想なほどに青ざめている。感情を爆発させ、ようやく我に返ったのだろう。なごませようと声をかけるが、エデに強く手を引かれたのでおとなしくそれに従った。
エデに連れていかれたのは休憩室だ。「早く上全部脱ぎなさい、そのほうがやりやすいから。肌着もよ! 染み込んでるかもしれないもの」「は、はい」圧に逆らえない。その間、エデはタオルを用意してソファに腰掛ける。おそるおそる服を渡すと、エデは隣に座るよう指示し、手早く染み抜きをはじめた。
「寒かったら毛布かシーツにでもくるまってなさい」
「いえ、あの、お手数をおかけします。ですが自分でやりますので……」
「この程度余裕よ余裕。酔っぱらってお酒こぼした奴を何人見てきたと思ってるの?」
ふと、エデがシャツから顔を上げた。
ルカの上半身を見て、その目が感嘆するように細められる。頬に赤みが差したり目をそらされたりしないのは、経験値の差だろうか。
「ねえルカ、ちょっと触ってみてもいい?」
「特に面白いものではありませんよ。軍人には負けると思いますが、それでもよければ」
「ちょっと、何すねてるのよ。別に比べちゃいないわ」
エデが吹き出すので、つられてルカも笑みをこぼした。エデはうっとりとルカの筋肉に触れ、また染み抜きの作業に戻る。
「これは手ごわいかも。応急処置はしたから、早いところ専門の店に持っていって手入れしてもらって」
「はい。ありがとうございます」
「……あたしこそありがと。あたしを庇ってくれたんでしょ」
ルカの膝の上に座り直し、エデはルカの首に手を回す。そっと息を耳に吹きかけ、そのまま優しくキスをした。
驚きのあまり思わず短い喜悦の声を漏らしてしまったルカの目の前で、エデは蠱惑的に微笑んでいる。
お礼としては十分すぎるというか、染み抜きをエデの手でしてもらったことがお礼だったので、むしろもらいすぎというか。これ以上何を返せばいいのだろう。ルカは頭を抱えた。
ひとまず使用人を呼んで代わりの服を用意してもらい、ダンスホールに戻る。心配そうなマーモ伯爵には「ただの事故」で押し通した。
招待客同士でもめ事があったなんて、主催である彼の顔に泥を塗るような真似はできない。相手は軍部に強い影響力を持つ男爵の娘とその婚約者なのだからなおさらだ。一方ルカとエデは平民だし、下手に抗議をするよりマーモ伯爵とカルゼル男爵に恩を売っておいたほうがあとあと得だろう。
ウィズとその婚約者の令嬢の姿は、もうどこにも見当たらなかった。




