1
「エデ姉ちゃん、早く早く! 早くしないと、ウィズ兄ちゃんが行っちゃうぞ!」
「トミーはおおげさねぇ。まだパレードの時間じゃないわよ」
鏡台と向き合っていたエデは、仕上げとばかりに真っ赤なルージュで唇を染める。
昼の街を歩くのに、これでは少し派手すぎるだろうか。一瞬そんな不安がよぎるが、鏡の中に映る美女は自信に満ちた目でエデを見つめていた。大丈夫、とても似合っている。
「お待たせ、ちびさん達。じゃあ行きましょうか」
曲がっていたリコのリボンを直し、トミーの帽子をちゃんとかぶらせる。ジャンの靴に泥がはねていないことを確認し、エデは孤児院の鍵を手に取った。
はしゃぐ子供達を連れて大通りを目指す。沿道はすでに人でにぎわっていた。
それはそうだろう。だって今日は、魔王山脈遠征の成功を記念して行われる軍部の式典で、魔獣狩りの英雄と名高いファーディス帝国第三師団ドラネッロ大隊も参列するパレードの日なのだから。
凱旋する英雄達の勇姿を目に焼きつけようと集まった人々は、エデに気づくと感嘆のため息をつき好色そうな眼差しを向けてくる。
彼らをかき分け、エデ達も最前列を確保した。きっと、シャロンもどこかにいるのだろう。
パレードの始まりを告げる鐘が響き、頬を紅潮させた民の期待が最高潮に達した。
歓声が上がる。軍人達が来たのだ。「ファーディス、ばんざーい!」「ばんざい!」大人達の真似をしているのか、ジャンとトミーが周囲の声に負けじと叫ぶ。
リコはきらきらした目で軍人達に手を振っていて、微笑とともに手を振り返されるたびにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
エデは子供達の様子に気を配りつつ、隊列の中から目当ての青年を探す。三ヶ月ぶりの姿はすぐに見つかった。
誇らしげに胸を張る隊長ドラネッロのすぐ隣で、口を真一文字に引き結んで立つ、きらびやかな勲章をじゃらじゃらとつけた青年。ウィズだ。
その時、ウィズと目が合った。ふ、と彼の口元がほころんだから、きっと気のせいではないだろう。エデがこっそり手を振ると、ウィズも小さく頷いた。
今夜は、城でパーティーがあるらしい。きっとウィズも招待されているだろう。他にも、しばらく仕事で忙しいかもしれない。
だって今の彼は魔獣戦争の立役者。ドラネッロ中佐の勇猛なる副官ウィズ・リトリア大尉だ。
無口な朴念仁だが自分大好きの筋肉馬鹿で、子供の頃はよく取っ組み合いの喧嘩をしていた相手。そんな彼が護国の英雄と称されているのは、なんだか不思議な気分でもあった。
でも、明日なら。明日は無理でも明後日なら。
ウィズは、家に帰って来てくれるに違いない。ウィズの大好きな料理を……とっておきのごちそうを用意しないと。
*
エデとウィズは、同じ孤児院で育った幼馴染だ。孤児院といっても、貧民街で震えていた孤児達を物好きの老爺が連れ帰ってきただけのあばら家だが。
エデとウィズ、それからシャロン。老爺に救われた小さな子供は、彼のおかげでちゃんと成長することができた。
だからその恩を忘れないために、老爺亡き今はエデが孤児院の管理をしていて、彼のように捨て子達の面倒を見ている。ウィズとシャロンも定期的に様子を見に来てくれていた。
昔から勇敢なウィズは士官学校を卒業して軍人になり、賢いシャロンは医者を目指して大学に進んだ。一方のエデは、学校で勉強するよりも働くことのほうが性に合っていた。
自分には、笑顔と美貌だけしかない。けれど、それは時として何より強力な武器になるのだとわかったのは、六年前……エデが十四歳の時だった。
小さな時から愛想がよくてよく働くエデは、客商売に向いていた。
食堂や酒場で給仕をしているうちに、客の仕草や喋り方を覚えていった。酔っ払い達のあしらいかたはもちろん、何をどう言えば彼らに言うことを聞かせられるのかを知った。
エデが店にいれば売り上げが伸びると、気をよくした店主は給金に色をつけてくれた。エデが酌をした酒はいつもより美味いと、客はチップを弾んでくれた。褒められて、成果もあるならやりがいがある。毎日が楽しかった。
人目のあるところに出て、くるくると働き続けるエデに、目をかけた男が現れた。
その男はとある大きな劇場の支配人だった。店の常連となり、店主やエデとも信頼を築いた彼は、ある日エデにこう持ち掛けた————うちの一座のスターにならないか、と。
エデはまだ処女だったが、長らく下層階級向けの低俗な溜まり場で働いている身だ。現実に夢を見るほど純情でもなかった。
“劇場”が娼館の役目を兼ねていることも、劇場付きの一座の団員が出資者向けに夜の奉仕を行うことも、エデは知識として知っていた。
劇団に出資をするのは、貴族や商人などの金持ちばかりだ。だから有名な劇場の関係者はとても裕福で……団員も、その恩恵にあずかり贅沢な暮らしができる。そのことも、エデはわかっていた。
ちょうどそのころ、ウィズが士官学校に入学していた。
士官学校は学費が免除されるが、全寮制だ。ウィズは波止場の荷揚げや土木作業、あるいは用心棒の真似事といった力仕事で日銭を稼いでいたが、これまでのように家に金は入れられなくなる。
シャロンの大学の入学費用もあるし、年のせいか体調を崩しがちになった老爺の治療費も必要だ。頭のいいシャロンには、勉強に専念してもらいたかった。
十三歳のシャロンは、来年大学に行く。大学に六年間通えば、輝く未来がつかめるだろう。
大学には奨学金制度があるらしい。きっと彼女ならそれをもらえる。今さえしのぐことができれば、それでいい。
だから、エデは支配人の提案を二つ返事で受け入れた。
エデは役者としては普通だったけれど、娼婦としてはそこそこ人気だった。
まだ子供のエデは、閨での作法の勉強が主だったから、“支援”の額は安かった。だからこそ、“支援”が殺到したのだ。
みんな、エデを自分好みに育て上げたがった。褥の過ごし方はもちろん教養も学ばせて、自分だけの淑女にしようとした。
だから、エデはそれを叶えてあげたのだ。エデは、相手の望む表情と声を感じ取り、演じ分けることができたから。エデの客達は、自分こそがエデという華を咲かせるのだと信じて疑っていなかった。
エデを気に入った上客が、エデに小さな役を与えて舞台に上げてくれることもあった。
そのことで先輩の女優にいびられることもあったが、世渡り上手のエデはそれをなんなくあしらって逆に味方につけてしまった。
孤児院の暮らしはすぐに上向きになった。
シャロンが欲しがっていた本を何冊も買えたし、老爺にいい薬を買えた。
たまにウィズが帰ってくる時は、お肉をたくさんごちそうした。エデも大勢の支援者にちやほやされ、高価な物を贈られて嬉しかった。
老爺だけが、女優になるということの意味を知っていた。ウィズとシャロンはまだわかっていなかったようだけど、そのうち意味を知るだろう。
でも、それはエデにとって恥ずべきことでもなんでもなかった。老爺は少し悲しそうな顔をしていたけれど、エデが一日で稼いだ金貨のつまった袋をテーブルの上に載せて微笑むと、彼はただ諦めたように目をそらした。
十八歳になって成人した時、エデは一座の売れっ子女優の一人になっていた。
クレセント座のエデ、夜に咲くラナンキュラス。高まったエデの“支援”額が払えなくなった細客はまた別の、入団したばかりの安い少女に目を向けたが、新しい支援者もついたので問題はない。エデが主演の舞台もいくつかできた。
エデは孤児院を貧民街から下町の安アパートへと移した。まだ若いエデにできることは限られていたけれど、手を伸ばして届く距離にいる子供のことは守りたかった。血のつながらない三人の弟妹……ジャン、トミー、リコにも、それぞれの幸せを掴んでほしいのだ。
シャロンは大学で優秀な成績を修めているし、ウィズも祖国の英雄になった。誇らしかった。そんなすごい二人と強い絆で結ばれていることは、エデにとって大きな心の支えだった。
「ウィズは、今日も来ないか……」
「せっかく来てもらったのにごめんね、シャロン」
「謝るのはウィズのほう。わたし達に待ちぼうけを食らわせるなんて、ウィズのくせにいい度胸」
シャロンは時計から目をそらして笑った。エデも苦笑して、鍋の中のシチューをよそう。「ごはんよ!」ちび達はきゃあきゃあと集まり、行儀よく席についた。
「ウィズがいないから、そのぶんたくさん食べられるわよ。さ、召し上がれ」
「やったぁっ! エデ姉ちゃん、俺の皿、もっと肉ちょーだいっ!」
「サラダも食べるのよ、トミー」
凱旋から三日が経ち、ようやくウィズから「今日の夜は寄れると思う」と連絡が来て、はりきって作ったごちそうだ。冷めたり残ったりしたらもったいない。安アパートで一人暮らしをしているシャロンも呼んで、家族みんなで豪華な食卓を囲むはずだったのに。
「ウィズ兄、やっぱり今日もお城でパーティーなのかな。お城って、どんなごちそうが出るんだろ」
「リコは、エデ姉の作るご飯が一番のごちそうだと思うの」
「さすがリコ、いいことを言う。わたしもまったくの同意見。ところでエデ、少しばかりおかずを持ち帰っても?」
「ほんと、シャロンは昔から料理が苦手よねぇ。そう言われると思って、持ち帰る用のおかずをあらかじめ用意してあるわよ」
「恩に着る!」
まあ、これはこれで楽しいからいいか。
ウィズには次来る時、高級な菓子店のケーキでも手土産に持ってこさせることにしよう。
*
「エデ、すぐに帰れなくてごめん」
「せめて来れなくなった時は連絡ぐらいしなさいよ」
結局ウィズが来たのは、最初に連絡が来て一週間が経ってからの夕方のことだった。
しかも今度は連絡も、手土産もなし。こちらからウィズに連絡しようにも取り次いでもらえないので、ケーキを要求することができなかったからでもあるのだが。
「あたし、今日これから劇場に行かなきゃいけないんだけど。夕飯はちび達の分しか用意してないから、」
「俺もすぐ帰る。というか、あまりここに長居できないんだ。今日は何とか抜け出したけど、ここに来られるのも今日が最後になるかもしれない」
いきなり何を言い出すのだろう。
ウィズは気まずそうな顔をしている。困惑するエデを一瞥もせず、彼は言葉を続けた。
「実は、婚約が決まって……。娼婦の家に出入りしていたなんて知られたら、色々とまずいんだ。だからこれからはもう、お互い赤の他人ってことで通そう。元々他人なんだし、問題はないだろ? お前の気持ちに応えられなくてごめんな、エデ」