もう繰り返す事のないように
「なぁ錬次、最近三隅さんの様子がおかしくないか?」
三人で食事をしてから一週間が経過した。
あれから一美とは意識的に距離を置いていたが、一美からもこちらに対して遠慮がちになってる気はする。
どうやら千智もその異変を感じ取っているようだ。
「どの辺がおかしく見えた?」
「なんか愛想笑いが多くなったし、少し疲れてるような……」
そんなにあからさまでは接客に支障が出るし、さすがに心配で放っておけなくなるだろ。
居ても立っても居られなくなり、休憩中の一美の様子を確かめに行くことにした。
「あれ? 二色さんどうしたんですか?」
これは………。
この顔をした妻を俺はよく知っている。
「三隅さん、なんで夜更かししてんの?」
「えぇ⁉︎ なんで分かったんですか⁉︎」
「目元のくま、ファンデの厚塗りとハイライトの入れ方を変えて隠してるじゃん。
バレバレだよ」
一美は一瞬で真顔になり、口を噤んでしまった。
彼女目線で考えてみれば、なんか同僚の男にめっちゃ顔見られてた! って思われるよなあれじゃ………
「実は大学の課題に苦戦してるんです。
内容が捗らず、時間ばかりを浪費してしまって……」
なるほど。それで眠気やストレスを誤魔化す為に、らしくもなく愛想笑いを使っていたのか。
「しんどいなら無理して明るく振舞わなくていいよ。
接客以外にも仕事はいくらでもあるんだから、今日は店長に頼んでそっちに回してもらおう。
それでも難しいようなら言ってくれ」
一美は大人しく返事をして、その日は裏方の業務に専念した。
更に二週間が経ち、夏休み前の課題の為にシフトを減らしてた一美が、ようやく元のスケジュールに戻し始めていた。
しかし今度はまた別の変化が起き始め、俺の頭を悩ませる。
「一美ちゃん、さっきはありがとう。
本当に助かったよ」
千紗に礼を言われ照れ臭そうに鼻を掻く一美が、俺に気付くや否や、すぐに切り替えて次の業務に向かった。
「あれ、どうしたの千……岸田さん」
最近は名前で呼ぶのにも慣れてきて、勤務中でもつい千紗ちゃんと呼んでしまいそうになる。
「二色さん、さっき一美ちゃんに対応のフォローに入ってもらって、おかげでお客様をお待たせしなくて済んだんです」
やはりこっちでもか。
ここ数日間で急に一美の働きぶりが良くなり、どんどん周りを手伝いに行くし、苦手だった電子端末もだいぶ扱えるようになったのだ。
独りで急成長したとは考えにくいし、誰かが徹底的に教えたのかと思い調べて回ると、答えは思わぬ場所に辿り着く。
「あぁ、あれね。
二色に教わった事をびっしり書いてあるメモ見てさ、毎日練習してたんだよ彼女。
いやぁホント丁寧に教えてるよなお前は!
俺にもその几帳面なとこ少し分けてくれ!」
そう語った矢野さんによると、一美は出勤前や休憩時間もメモに齧り付くようにして、必死で苦手分野を克服してたと言う。
社員達や千智にも分からない事を聞きに来る回数が増え、最近の彼女の積極性をみんなが評価していた。
しかし俺はその事実を不自然な程に認知していない。
やっぱりだいぶ避けられているみたいだ……
いやなんで落ち込んでいるんだ俺は。
俺自身が将来の浮気相手にならないため、錬次としての人生をこの手で変えていこうと決めたんじゃないか。
一美と千智の将来が幸せのまま続いていくためには、千智ではなくなった俺が深く介入するのは危険だ。
それに今は俺を見てくれる人だっているんだから大丈夫……
「錬次くん、どうしたの? なにかあった?」
「岸田さん………あれ?」
「もうここにはうちらしか居ないから大丈夫だよ」
意識がはっきりすると、すぐに夜空が目に入ってくる。
俺はぼーっとしたまま退勤し、帰路に着くみんなを見送った後でも呆けていたみたいだ。
矢野さんの話を聞いた後から、ほとんど何をしてたか覚えてない。
「そう言えばさっき一美にも挨拶してたよな……」
不意に溢れ落ちたうわ言に、千紗はみるみる表情を曇らせていく。
「ごめん、うちのせいだよね。
錬次くんがそんなに苦しい思いをしてるの」
「なんで千紗ちゃんが謝るの?
君は何も悪い事してないだろ」
突然彼女が謝りだした心理が分からず困惑するが、その理由は続けて説明された。
「一美ちゃんはうちに気を遣っているんだと思う。
錬次くんに甘えれば必ず応えてくれるってことに、一美ちゃんはもう気付いてる……。
だけどうちが嫌な思いをしないために、なるべくあなたに頼らず頑張ってるの」
「それは君のせいじゃないって。
俺は君の気持ちを知ってるし、応えたいとも思ってるのに、いつまでも昔の記憶にしがみ……」
言いかけたその瞬間、千智だった自分と一美との尊い思い出の数々が、走馬灯のように脳内を駆け巡った。
付き合い始めから結婚生活まで、全ての記憶が俺にとっての特別であり、そして一美の中でもそうであったはず。
この世界の千智が過去の俺なら、見ることの出来なかったその先の、一美が母親として幸せに生きる未来を叶えてほしい。
この願いは俺が身を引き、浮気相手にもならない事が前提だ。
友人としてそばに居てもきっと問題が起こるだろう。
全部わかっていた事だが、ただただ胸が締め付けられて苦しくなる。
呼吸すらままならない嗚咽と、頬を伝う溢れんばかりの涙は、何かで埋めない限り止まる気配もない。
「うちじゃやっぱりダメなのかな……」
不意に抱きついてきた腕も声も、俺の心と共鳴するように強く震えていた。どこにも行くなという悲痛な叫びにも似ている。
包み込むのではなく、縋るような抱擁。
だがそれは必要としてくれている気持ちの表れだ。拒みたいとはもう思えない。
「君じゃなきゃ駄目なんだ。
俺を離さないでいてくれ」
ようやく絞り出した言葉はあまりにも身勝手だが、彼女は泣きながら何度も首を縦に振り、必死に応えようとする。
俺も彼女の背中に腕を回し、精一杯の感謝を込めて抱きしめた。
それでも収まる事のない二人の感情は、やがてお互いの距離を目の前に引き寄せ、涙に濡れた唇をゆっくりと重ね合わせる………