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少女よどうか泣き止んでくれ

作者: 由雅憐

その少女は、泣いていた。


人目を気にしないで、大通りの歩道を歩いていた。

通りがかる人は少女をちらっと見て、しかしすぐに目をそらして歩き去っていく。

少女は、下を向いてはならぬと心に決め、毅然と前を向いていた。

しかしその顔は悔しさや悲しみに歪み、頬や鼻は醜いほどに赤く染まっていた。




零れ落ちる涙を乱雑に拭い、その手をズボンに擦り付ける。

ハンカチなど持っているはずもない。

手を洗っても、自然乾燥か服で軽く拭って終わりというのが常だった。

小さい頃はそんなずぼらさをよく親に怒られていた。

その性格が駄目だったのだろうか、と少女はまたさっきまでのことを思い出して、気持ちが暗く沈んでいく。


ずびっと鼻をすする。

それでもまだ鼻水は収まりそうもなかったので、ティッシュはあるだろうか、とリュックのポケットを探ってみた。


「ない…」


いつもはそこに入っていたのだが、と考えて、昨日人にあげてしまったことを思い出した。

ティッシュをくれませんか、と言う年配の女性に1枚だけ渡すつもりで差し出したら、そのまま全部取られてしまったのだ。

しかし嬉しそうにありがとう、と言う彼女に、返してくれなどと言えるはずもない。

たいした物でもないからまあいいか、と何も言わずにいたのだった。

加えて言うと、話すのが面倒くさかった。そういうところが少女にはあった。


ずびっ。

また鼻をすする。

そろそろ鼻水が垂れてきてしまいそうだった。

さすがの少女も、鼻水を手で拭うことはしたくないようだ。


「コンビニで買おっかな…」


そう呟いた。


都合の良いことに、少し歩いたところにコンビニがある。

そこはよく少女が立ち寄る店であった。

いつもは自分へのご褒美に、ということでアイスを一つ買って帰る。


今日はどうしようか、いや、つらいときこそ甘い物を食べるべきだろう。

そういつもの通り言い訳をして、アイスとティッシュを買うためにそのコンビニに入った。


「いらっしゃいませぇー」


少しだるそうな声に迎えられる。

夜のコンビニなんてそんなものだ。

無関心であってくれた方がいい、という人も多いだろう。

少女も泣き顔を気にされずに済むので、ありがたそうだ。

夜の暗闇の中ではたいして頓着していなかったが、やはり明るいところでは恥ずかしいという気持ちがあったのだ。

化粧も多少していたので、崩れているかもしれない。

今更ながらそんな心配をして、不安そうに軽く目元を触った。


少し俯きがちに、早足で店内を歩く。

ポケットティッシュと、少女の大好きな抹茶アイス。

二つの商品を手にとって、レジに向かった。


「ありがとうございましたぁー」


こちらの顔をちらりとも見ようとせず、まさにマニュアル通りの言葉しか喋らない店員の声を後ろに店を出る。

顔を見られなかったのは良いのだが、店員としてそれで良いのか、とも思う。

まあ、どうせ客もそれほど来ていないのだから構わないか。


「あぁ、いいなー…」


こんな店だったら私は。

こんな店だったら私だって。


きっと少女はそんなことを思っているのだ。

大人になりきれない、大人にならなければならない少女は。


ぽろり、と堪えきれずに零れた涙と共に食べるアイスは、おそらく少し塩辛い。





「ここはあなたの家じゃないんだよ!」

「はい、すみません」


「お金貰ってるんだからさぁ、ぼーっとしてる暇なんてないんだよ!」

「はい、すみません」


「行動が遅い!」

「はい、すみません…」


「もっと大きな声出せないの!?」

「…はい、すみません」


「あなたさあ―――」

「……はい、すみません…」


少女は物覚えが悪かった。

そして気が利かない人間だった。

しかし言い訳を口にするのが嫌いで、そもそも話すことが苦手だった。


少女はわかっていた。

自分が悪いということを。

だから思い通りに、他の人みたいに、まともに仕事ができない自分が悔しかった。

そして、なかなか仲間として受け入れてもらえないことが悲しかった。


愚痴を言うのはあまり好きではない少女だったけれど、何人かの人にこのことを話していた。

ある人は耐えるべきだ、と言い、ある人はすぐに辞めるべきだ、と言った。


少女はその仕事を辞めたかった。


だが、辞められない。

そもそも辞めるという決断ができるほど勇気のある人間ならば、その仕事はもっとうまくやれていたことだろう。


考えてしまうのだ。

こんなに不出来な私に根気よく指導してくれた上司に、どうして辞めるなどと恩知らずのことが言えよう?

このまま辞めたら、ただ他の人の足を引っ張っただけなのではないか?

なにより、同期の彼女、ゆうか。

一緒に頑張ろう、と彼女と約束したのに、その約束を破るのか?


上手くできなくてストレスが溜まる。

ストレスが溜まってよけい失敗が増える。

そんな悪循環な日々だった。


「ああ、私はいつまでこんなことをしなきゃいけないんだろう…」

少女は仕事へ向かう電車の中で、まだ着かないで、いっそのこと電車よ止まってしまえ、と祈っていた。




うじうじと悩んでいたある日、それは起こった。

それは些細な失敗だった。

ただ、伝票のテーブル番号を書き間違えただけ。

幸いその時はお客さんも少なく余裕があったため、その間違いにはすぐ気づいた。


確かにそれは、料理を運ぶ人からしたら迷惑な間違いだった。

しかし、それほど致命的な間違いではなかった。

実際少女は、次からは絶対に間違えないようにしよう、とは思ったが、たいした失敗ではないと考えていた。


しかし、


「ゆーちゃんに謝って!」


少女よりも背の低い、おばあちゃんと言っても良いような歳の先輩店員。

その女性は睨むように少女を見上げ、そう怒鳴った。


そしてその背に庇われるように立っているのは、曖昧な笑みを浮かべて何も言おうとしないゆうかだった。

料理を運んだのは、彼女だったのだ。

周りには、暇なせいでこちらをじろじろと見物している他の店員達。


その状況は、あたかも少女一人が悪役であるかのような、そしてその悪役からゆうかを守ろうとしているような、そんな物語の一場面に見えた。


「ほら、早くごめんなさいって言いなさい!」


「あ…、…すみません」


たくさんの人に囲まれて見つめられる中で、少女は何かを言いかけてしかし口を閉じ、頭を深々と下げた。

そして震えそうな声を、意図して明るい声に変えて、謝った。

歪みそうな顔は無理矢理笑顔に変え、しかし眉を下げて申し訳無さそうな表情をつくる。


「ごめんなさい、でしょ、まったく…」


なおぶつぶつ小言を言いながら、その女性は仕事に戻っていった。

見物していた店員達も、ぱらぱらと各自の仕事へ戻っていく。


「これからは気を付けてくれよー」

「そうそう、本当にまずいんだからなー」


上司や先輩達の言葉に、少女はもう一度、

「…すみません、次からは間違えないようにしますので」

と頭を下げた。


そのままぽつんとそこに立ち尽くした少女は、目をぎゅっと瞑り、大きく息を吸った。

そして目を開いて、はぁ、と息を吐くと、自分の仕事を探して歩き出した。


少女にも言いたいことはあったのだ。

私は既にゆうかに謝っている、と。


あの時、ゆうかが料理を持って厨房を出る直前、自分の間違いに気づいた少女は、慌てて彼女を呼び止めた。


「ゆうか! ごめん、3番テーブルじゃなくて、4番テーブルだった!」

「うん、わかった。4番テーブルなんだね?」

「そう! ほんと申し訳ない」

「おけ、大丈夫だよ」


ゆうかも大丈夫だ、と返していた。

少女はちゃんと謝っていたのだ。

だが、自分が悪いのだから、と言い訳染みたことを言うのを恥じたのだった。




そして帰り道。

逃げるようにして職場を早足で出た少女は、すぐに小さい嗚咽を漏らし始めた。

大きく見開いた目から涙がぼろぼろと零れ落ちるようになるまで、そう時間はかからなかった。


少女はいつもそうだった。

何でもかんでも自分のせいだと思い込み、激しく自分のことを責めてしまう。

小さな失敗でも、うじうじと思い詰めて、だがそれをすべて自分一人で抱え込むのだ。

少女が誰かに愚痴を言ったことはなく、むしろそんな行動は恥ずべきことだと考えていた。


そうして一人、部屋でぶつぶつぶつぶつと悪口を呟くのだ。

少女自身の悪口を。

私の馬鹿、このマヌケ。

ああ、死にたい、と。


毎日毎日そんな暗いことを言っているものだから、()()もううんざりしてしまって。

だから今日、苦しそうに泣いているその少女に声をかけてみようと思い立った。


少女はちょうどアイスを食べ終えて、満足げな溜め息を吐いたところだった。


「ねえ、君」


ピクッと面白いくらいに少女の体が跳ねた。

慌てて目元を乱暴に擦り、おそるおそる、といった感じでこちらを向く。


「あれ? 山本さん?」


しかし僕を見てすぐに、きょとんとした表情になった。


「やあ、さっきぶりだね。お疲れー」

「あ、お、お疲れ様です」

「いやぁ、今日は大変だったね。あのおばちゃんに絡まれちゃって。…ってか、おばちゃん達怖くね?」

「はは…。いや、そんなことないですよ。皆さん優しいです」

「ええー? 僕だけなのかなぁ」


君が一番怒られているだろうに。

そんな良い子ぶってても何もならないのに、損な生き方してるなぁと思う。


おばちゃん達はもうあそこで何十年も働いている。

そんな人達にとったら、僕達の仕事なんてまったくなっちゃいないのだろう。

だが出来ないものは出来ないのだから、そんなに怒らないでほしい。


「えっと、山本さんも電車ですか?」

「え、うん…」


まさか知らないとは思っていなかった。

いやいや、バイクとかで来ている可能性もある、ということだろう。

まさかまさか、あれを知らないなんてことは…。


「あ、私、杉並区の方に住んでるんですけど、山本さんはどこら辺ですか?」

「えぇ…。僕、君と同じアパートに住んでるんだけど」

「へ…?」


本当に知らなかったようだ。


「しかもお隣だよ」

「…」


もはや何も言わなくなってしまった。

アホみたいに口をぽかんと開けた間抜け面である。


「知りませんでした…。え、音とかうるさくないですか?」


うるさいです、何て言えるわけない。


「全然気にしないよ」


君の声以外は。

僕はにっこりと笑った。


少女はほっとした表情を見せると、口をつぐんでしまった。

しかし、きょときょととこちらを窺う様子から、何か話題を探しているのだろう。

気まずい空気が流れる。


「君ってさぁ―――」

「あ、あの―――」


何となく話しかけたら、少女と被ってしまった。

タイミングの悪い。


「うん、何?」

「あ、いえ、先どうぞ!」


申し訳ないね、頑張って絞り出したのだろうに。


「うん、君ってこの仕事辞めようって思わないの?」

「え、そ、それって辞めろとかを暗に言ってるんですか…?」


少女の顔がさっと青ざめた。

今日までの失敗を思い出しているのかもしれない。


「いやいや、違うよ。ただ、怒られてばかりで嫌じゃないのかな、と思ってね」


少女は毎日必ずと言って良いほど何らかの失敗をしている。

そしておばちゃん達に怒られている。

1年経ってまだそれなのだから、もうこの仕事は向いていなかったと諦めても良いのではないか。


と言っても、辞めない理由はだいたい知っているのだけど。

何せ、いつもアパートでぐちぐち喋っているのが聞こえていたものだから。


「えっと…。何て言ったら良いのかわかんないんですけど、このまま辞めたら何か負けたような気がするんですよね。あの、田代さんとかに。それに、何かいろいろ申し訳なくて…」

「へえ、君、意外と負けず嫌いなんだね」


僕には理解できない。

僕だったらきっと、すぐに違うところを探しているだろう。


「あ、それと…」


少女は言おうか言うまいか迷ったように口をぱくぱくとさせている。

そして意を決したようで、じっと僕の目を見つめておもむろに話し出した。


「…私にはこれしかないから。そう思わないと駄目だって、思うから。だから、あと少し頑張ろうって、明日は絶対上手くいくって、そう思うことにしてるんです」


何か偉そうなこと言ってますね、と少女は恥ずかしそうに笑った。

その顔を見て、僕は大きな思い違いをしていたことを痛感した。

彼女は庇護されるべき可哀想な少女ではなく、もう立派な大人の女性である、ということを。


最後の悪足掻きとして、今日のことを質問してみた。


「だって君、泣いてたじゃないか。いつも料理だってまともにやらせてもらえてないし、そこまで頑張る価値あるのかな、って僕は思うけど?」


彼女はバッと目元を手で隠した。


「き、気づいてたんですか…?」


指の隙間からちらっと目を覗かせて、おずおずとそう言った。

いや、むしろその顔で何故気づかれてないと思ったのかを教えてほしい。


「大丈夫、僕は気にしないよ」

「私は気にするんです…」


文句は取りあえず無視して、質問の答えを促す。

彼女はそれでもなお小さく文句を呟いていたが、開き直ったようで、僕を堂々と見据えた。


「確かに、ゆうかは愛称呼びなのに私は名字にさん付けなのはショックでした」

「え、そこ?」


あまりにも予想外なところを話すので、思わず突っ込んでしまった。

しかし彼女は僕のことをまったく気にせずに話を続ける。


「ゆうかのことは仲間っていうか、身内のように扱っているのに、私はまるで部外者みたいで…。うぅ…。ぐすっ」


思い返している内に悲しみがぶり返してきたのか、また泣き始めてしまった。

まずい、この状況はまるで僕が彼女を泣かせたみたいではないか。

通りがかる人の目が僕に突き刺さって痛い。

慰めないとと思うが、今までこんな状況に陥ったことがなかったので、何と言ったら良いかわからない。

正直、泣くなよと思った。

しかしこのまま放置も出来ないので、取りあえず思い付くままに話しかけることにした。


「えっと、ほら、田代さんにも、悪気はなかったと思うんだよ。性格が合わない人っているじゃん。そんな感じで」

「やっぱり私が全部悪いんですよ…」


心なしかさらに涙の量が増えている気がする。

面倒くさいな、と思いながらも、なんとか言葉を探す。


「うーん、僕は、君がいつも真面目に頑張って働いてるのを知ってるよ。他の人もわかってると思う。このまま続けるならミスだって減るだろうし、そうなれば皆認めてくれるようになるさ、きっと」

「ズズッ、ぞうでずがね…」

「うんうん、そうだよ」


ようやく気持ちも落ち着いてきたようだ。

彼女は大きく深呼吸すると、僕の顔を見て照れたように笑った。


「なんかごめんなさい、山本さんにはご迷惑を…」


気にしなくて良いよ、とひらひらと手を振って答える。


そして少し歩いていると、ようやく長かった駅までの道のりが終わった。

特に話すこともないので、お互いに付かず離れずの位置で黙って立っている。


そうこうしている内に、自宅の最寄り駅に着いた。

やっぱり話すことはないのでどちらも黙って歩いている。


「え、えっと、やっぱり山本さんはあのアパートなんですよ、ね? あの、隣って言うと、202号室で?」

「ほんと、ほんと。嘘なんかつかないって」


自宅目前にして、ようやく彼女が話しかけてきた。

今さら過ぎる問いに、苦笑混じりに答えた。


そしてお互いの家の扉の前、というところまで来て、最後に何か言おうと思って口を開く。


「…あの、さ。僕は別に君の味方なんかじゃないし、君のことを庇おうとも思わないけど、応援くらいはしてるから。ま、頑張んなよ」


彼女の肩を軽く叩く。

ここで頭をぽんぽんとするのができる男なのかもしれないが、そこまでする気は起きなかった。


「あ、ありがとうございますっ!」


彼女ははち切れそうな笑顔で、そう言った。

ん、と軽く頷いて、もう一度軽く肩を叩く。

じゃあまた明日、と挨拶すると、それぞれの部屋へ入って行った。


その夜、彼女の暗い呟きは聞こえなかった。

それが、今日僕が話しかけたおかげか、それとも僕が隣にいることの遠慮からかはわからない。

もしかしたら泣き疲れてさっさと眠ってしまっただけかもしれない。

とにかく今夜はぐっすり眠れそうだ、となんだかいい気分になった。




どうせ彼女は、また自分への文句を呟くのだろう。

また誰かに怒られて、涙を堪えて、でも堪えきれなくて、変な目で見られながら家へ向かうのだろう。


もし彼女のそんな姿を見つけたら。

また、声でもかけてみようかな、と、そう思った。

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