対峙〜綾香〜
夕食時にインターフォンが鳴り、お姉ちゃんが出た。
その後、なんか揉めてる気配に野口さんも出て行き、そして聞こえてきた大声。
「綾香!いるんでしょ、お母さんよ」
その声に、頭が真っ白になった。
——え?
ちょっと待って、お母さんって何?
どういう事?
耳がキーンとして、聞こえている筈の“声”がただの“音”になる。
「綾香!」
その声に、どうしてかはわからないけど体が勝手に反応していた。
フラフラと廊下に出た私を見つけた途端、母はお姉ちゃんを押しのけ勝手に上がり込み…そして私を抱きしめた。
何が起こったのか、よくわからなかった。
何故、母がここに居るのかも…。
何故私に会いに来て、抱きしめているのかも。
「綾香!会いたかったわ、あんたもそうよね?」
仰々しく再会を喜ぶ声も、満面の笑みもどこか嘘っぽくて。
香水のキツイ匂いと、何より母の毒気にあてられて、私は呆然と立ち尽くした。
「…こんな真っ青な顔で体を強張らせて、あなたを抱きしめ返しもしない綾香ちゃんが、本当にあなたに会いたかったと、そう思うんですか?」
野口さんの冷静な指摘が耳に届き、今更ながら身体が震えてきた。
そんな私を離し、顔を覗き込むと母は不満そうに鼻を鳴らした。
それでも
「親子なんだから、会いたかったに決まっているじゃない」
と嘯く母に、余計に混乱する。
——私、会いたかったなんて一言も言ってない!
ていうか、この人は何がしたいの?
今更現れて何のつもり?
「それよりあんた達誰よ。
いや、誰でもいいけどちょっとは遠慮しなさい。
娘と2人きりで話がしたいの」
「2人きりで会いたいかどうか、決めるのは綾香だと思います。
少なくとも突然押しかけて、勝手に人の家に上がり込んできたあなたじゃない」
お姉ちゃんの硬い声、そして野口さんの怒りを孕んだ視線に勇気をもらい、私は母の胸をそっと押した。
「話ならここで、お姉ちゃんとみんなで一緒に聞きます」
「何よ、私はあんたと話がしたいの」
「…じゃあ帰って」
震える指で玄関を指す。
お姉ちゃんが心配そうにこちらを伺っているのが見え、さらに勇気をもらった私は
「私は別に話はありません。
会いたい訳でもなかったです。
大体、子供の頃に私を捨てて出て行った人が、今更何の用ですか」
と、母を見上げ…目が合った瞬間。
苛立ったように細められたその瞳の中に、滴るような毒を見た気がして身体が竦んだ。
そんな様子に気づいたのか、母は誤魔化すような笑みを浮かべ、またしても勝手にリビングのソファに腰を下ろした。
* * *
勝手にやってきて勝手に上がり込んだ母は、やはり勝手な人だった。
最初こそ、私を置いて家を出た事を後悔しているだの、私の事を忘れた日は1日もなかっただの言って、謝ってきたけれど。
そのうちパパが亡くなった以上、私の親権は自分のものだと主張し始め、雲行きが一気に怪しくなった。
一家の主でもお客様でもない…それどころか呼ばれもしないのに押しかけてきて、ソファで踏ん反り返って。
この人は…ほんとに私の母なんだろうか。
またしても酷い耳鳴りがしだして、母の声がノイズ混じりのダミ声となる。
「綾香を生んだのは私よ!
綾香の事は私が1番よくわかっているわ」
「本当にそうでしょうか?」
いつものように隣に腰掛けたお姉ちゃんが、何も言わなくなった私の代わりに、母に反論してくれてる。
「何よ!何が言いたいっていうの?」
「私が綾香と暮らしたのは8年。
綾香を置いてあなたが出て行ったのが、6歳の時と聞いています。
ならば単純に暮らした年月だけでも、私の方が綾香と長く一緒にいます」
「そんなの…そんなの他人のあんたに何がわかるっていうのよ」
「少なくとも留守がちだったあなたよりは、私の方が綾香の好きな食べ物も服の好みも、友達の名前も知っていると思いますよ?
それに、私と綾香は他人じゃありません。
血が繋がっていなくても、姉妹です。
綾香は私の大切な妹です」
言いながら、お姉ちゃんは私の手をギュッと握ってくれた。
それだけで冷たくなっていた指先がほんのり暖かくなり、酷かった耳鳴りが少しだけ治った気がする。
「それに親権親権って言ってますけど、親権って片方が亡くなったからといって、自動的にもう片方に移るものではないんですよ」
「…え?」
野口さんの低い声に、全員の視線が集中する。
「お話を聞くに、幼い綾香ちゃんを捨てて離婚したあなたが、今更親権を主張するのは無理があると思いますよ。
仮に必要な手続きをしても、判断するのは裁判所です。
あなたではありません。
それに、知ってますか?
子供の親権者を親が決められるのは、14歳まで。
15歳からは自分で決められるんです」
「…だから?」
「つまり綾香ちゃんには、あなたを選ばない権利がある」
——母を、選ばない、権利。
野口さんの言葉は、すとんと胸に落ちた。
「っ!何よ、綾香!
そんな事ないわよね?ママと暮らしたいわよね?」
大声で喚く母の目は吊り上っていて、とても怖かったけれど…。
お姉ちゃんを見ると、ちゃんと目を合わせて頷いてくれた。
野口さんも心配そうに見守ってくれている。
それでも、母にこれを言うのはありったけの勇気をふり絞らなくてはいけなかった。
「私…イヤです」
「…え?」
「イヤです、あなたとはもうとっくに他人です。
私の家族はお姉ちゃんだけ」