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灰かぶりの姉  作者: 吉野
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暴かれた過去


夢だったら良かったのに。


何度もそう思った。



けれど、夢の中で主任は残酷に笑いながら私をいたぶった。

まるで獣が獲物をいたぶるように。



彼から逃げる場所はいつも違った。


ビルの外階段。

通っていた高校の校舎。

人気のない公園。

地下駐車場。


必死に逃げて隠れて、息を潜めてやり過ごそうとするのに、いつも見つかってしまい…。

言葉で、視線で、態度で、行動で何度も何度も傷つけられた。


泣いても喚いても、助けを乞うても許してはもらえなかった。



「~っ!」


声にならない悲鳴をあげて飛び起きた事も、1度や2度ではない。


全身が心臓になったみたいに鼓動が響き、布団の上で蹲る。

全身イヤな汗でびっしょりなのに、手足は冷たく冷えきっている。



尊敬して信頼もしていた主任に、無理やりキスされそうになった挙句、抱きしめられたという事実が、思っていた以上に私を苛んだ。


* * *


年が明けて、新年最初の出勤日。

家を出るのはかなりの勇気と努力を要した。



あの時来ていたスーツは、初めてのボーナスで買ったお気に入りだった。

服に罪はない。

けれど、もう袖を通したいとは思えなかった。


鏡を覗き込むと、そこには青白い顔にクマが目立つ、やつれた顔が写っていた。



「お姉ちゃん、本当にお仕事行くの?

無理しない方が…」


綾香には、あの晩の事は一切話していない。

話せる訳がない。



「うん、ちょっと行ってくるよ。

大丈夫、あまりにも辛かったら早退してくるから」


そんな話をしていると、インターフォンが鳴った。

お正月中、ずっとそばに居てくれた航平が、心配して今日も迎えに来てくれたのだ。


「じゃあ、行ってくるね」


うまく笑えているかわからないけど、一応安心させるよう微笑んで家を出た。




お正月気分の抜けきらない電車内で、航平と並んで吊り革を持つ。


社の最寄駅に近づくにつれ、キーンと耳鳴りがし出した。

心臓が早鐘のように打ち、おまけに目眩までしてくる。




——行きたくない。


正直、主任の顔を見るのはまだ怖い。


誰かが居る所なら大丈夫だろう。

でも、万が一2人きりにでもなったら…。



そんな事を考えつつ、最寄駅の改札を出たところで声をかけられた。



「国枝さん!」


改札前にいた浅野さんは、私を見つめホッとしたように微笑んだ。


「おはようございます」


課の先輩がいるからか、遠慮してスッと離れた航平に変わり浅野さんが隣に並ぶ。



「顔色良くないね、まだ本調子じゃない?」


「…えぇ」


周りを意識してか、具体的な事は言わずに淡々と話す浅野さん。

そんな気遣いに感謝しつつ、つい弱音を吐いてしまう。


「よく…眠れなくて。

怖い夢ばかり見るし、食欲はないし」


「怖かったよね…」


しみじみと言われ、心が縮こまっている事を改めて実感する。


駅から本社の入っているビルまでは、ほんの数分。

その間、心臓は暴走を続けたけれど気力を振り絞って足を動かし続けた。




「ナツ!」


本社のフロアに入ると、ゆづが駆け寄ってきた。

そのまま人目を避けるように、物陰へと引っ張って行かれる。


「あんた何したの?

コンプラ委員会から、ナツに収集がかかるって、さっき部長が…って、ひどい顔!

何があったの?」



その言葉に、浅野さんと一応後ろからついていていた航平、そして私は目を見合わせた。



「…やられた!」


「招集は那月だけ?」


浅野さんが唸り、航平は冷静にゆづに尋ねる。


「へ?あ、いや…、その、技術部の野口さんて方も」


「航平も⁈」



事情がわからないゆづは、ポカンとしている。

私も詳しくはわからない。

けれど、途轍もなく嫌な予感がした。


* * *


始業後すぐ、私と航平は会議室に呼ばれた。

私達の目の前に座っていたのは、常務とコンプラ委員の人事部長、他2名、直属の上司である営業2課長、技術部1課長、そして何故か営業本部長という錚々たる顔ぶれだった。



そして、常務の口から驚くべき言葉が発せられた。


「営業2課主任・山野 透より、そこにいる技術部1課・野口 航平より暴行を受けたという報告と共に医師の診断書が提出された」


思いも寄らない言葉に、思わず耳を疑った。



「その事実に相違ないですか?」


人事部長から発せられた問いに、やや青褪めた顔で、それでも航平は冷静に問い返した。


「その前に、山野氏は殴られた理由について触れていますか?」


「…些細な誤解と行き違いから、口論になったと」




——些細な、誤解と…行き違い⁈



「っ!違います!」


思わず叫んでいた。



「何だね?今、君には質問してい…」


遮ろうとする常務に構わず、立ち上がって訴える。


「些細な誤解でも行き違いでもありません。

あの時、昨年末の終業後、課内で打ち上げをした時、山野さんはトイレの前で私を待ち伏せていました。

そして、ずっと可愛いと思っていただの、俺と付き合えだの言った挙句、無理やり…き、キスしようとし、抱きしめたんです。

その時、彼が助けに入ってくれて山野さんの頬を1発殴った。

これが真相です」



「私も、途中から目撃した部下より同様の報告を受けております」



…営業2課長が加勢してくれるとは、思わなかった。



けれど、私達の発言に殆どの人が顔色を変える中、常務だけが平然としている。

その視線に促され、椅子に腰を下ろす。



「キスされそうになったと…。未遂かね?」


「…はい」


その時の事を思い出し、体が震える。

けれど歯を食いしばり、背筋を伸ばして常務を見つめ頷いてみせた。


深いため息を吐くと常務は、あきれた様子も隠さずこう言い放った。



「大袈裟な。

実質何もされていないのに、相手に全治2週間の怪我を負わせたのか?」



常務の発言に、周囲がざわつく。

中には追従する人もいた。


「だいたい、君にも隙があったんじゃないのか?」


「山野君に限ってセクハラなど…」




——これじゃ、まるで見せしめじゃない。


コンプラ委員会とは名ばかりの吊し上げに、思わず両手を握りしめる。



その時、本部長が立ち上がった。


「お黙りなさい!」


鋭い一喝に、その場が静まり返る。



「まだ、なにもされていない?大袈裟?

職場の上司に、無理やりキスされそうになり抱きつかれたのが、あなた方の奥様やお嬢様であっても、同じように言えますか?」


本部長の迫力と、何よりも正論に皆が黙り込む。



「営業2課長、本日山野は出社しておりますね?

何も言わずに直ちにここへお呼びなさい」


「人事部長、恐れ入りますが衝立を持ってきていただけませんか?

あなたは椅子を一脚、お願いします」



役員である常務を差し置いての指示に、全員が狼狽えるも、本部長の睥睨で皆が従う。


そして衝立の陰に私と航平が座るのを待ち、主任が入室した。



「営業2課・山野 透。

あなたの報告によると、昨年末終業後、技術部1課の野口 航平と些細な誤解と行き違いから口論になり、暴行を受けたとありますが。

暴行とは、具体的にどのような行為だったのですか?」


本部長の淡々とした問いに、主任が答える。


「頬と腹を1発ずつ殴られました」




——この期に及んで、またそんな嘘を!


叫び出そうとした私を、航平が手を握って止めた。



『山野が何を言っても黙っていなさい。

決して悪いようにはしないから』


主任が入室する直前、誰にも聞こえないよう囁いた本部長の言葉を思い出す。



「診断書には、頬の怪我のみとなっていますが?」


「その時は頬の方が痛くて。

ただ、帰宅してから腹も痛み出したのですが、年末年始の期間に入り、受診する事を躊躇ってしまいました」



顔は見えないけれど、いつもの笑みを浮かべているのだろう。

落ち着いた様子で話す主任に、反吐が出そうだ。



それにしても。

先程は主任を庇うような発言をしていた常務が、一言も発しないのは何故だろう?


主任の側も委員達の方も、衝立で完全に目隠しされているので状況がわからない。



「…なるほど。

ところで殴られた理由についてですが、野口氏及び国枝さんから、あなたのセクハラが原因だとの報告がありました。

それについては?」


「…っ!それは、誤解と行き違いだと」



初めて主任の声に動揺が混じった。



「誤解と行き違い、とは?」


「あの女、俺に気があるそぶりをして、終業後に誘ってきたんです。

それを彼氏が見つけ、殴りかかってきた。

彼氏持ちだと知らなかったんです、騙し討ちみたいなもんでした」


「では、キスしようとしたり抱きしめた事は、認めると?」


「…だから!それは向こうが誘ってきたから」


「認めるのですね?」


「…っ、はい」



本部長の声が一段低くなったのに気付かず、自分の正当性を訴える主任。




…こんな、醜い人だと思わなかった。

一時は良い上司だと慕っていた、自分の見る目のなさに心底うんざりだ。



「誤解と行き違い。

あなた、4年前にも同じ事を言いましたね」


「……は?」


「4年前、部下の女性にセクハラした時に」


本部長の発言に、ざわめきが大きくなる。




「…な、何をおっしゃって」


狼狽える主任に、本部長がキッパリと告げた。


「知らないとも覚えていないとも言わせませんよ。

その当時のセクハラの被害者、のちに退職に追い込まれた島田 純子、あの子は私の娘です」


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