悪夢
今回はとても辛く下種な話です。
嫌な予感がした方は、どうか回れ右してくださいませ。
*
——なぜ、こうなったのか。
よくわからないまま、目の前の主任から目を逸らさず、じっと見つめる。
* * *
社会人にとって、今年1年が終わる年末最後の就業日。
我が社でも、定時で仕事を終えるのが通常との事だった。
そこからは課の忘年会に雪崩れ込み、2課のスペースで課長はじめ皆で楽しくワイワイと飲んでいた筈だった。
お手洗いに出た私は、後ろから主任がついて来ていた事に気付かなかった。
「国枝さん」
お手洗いを出たところで声をかけられ、少し離れた所に立つ主任に気がついた。
「…はい?」
「イブに会っていたの、誰?」
いつもと同じ主任の笑顔。
なのに、何故か全身の毛が逆立つような、そんな気がした。
——クリスマスに会っていた?
って…何故それを。
「そのペンダント、クリスマス過ぎてからつけてくるようになったけど、その時にもらったんだろ?」
今度こそ全身に鳥肌がたった。
「どうして…?」
ツカツカと近づいてくる主任から逃れようと、無意識に下がる。
けれど、すぐ後ろは壁だった。
ドン!と壁に手をつき、私の退路も進路も絶った主任は
「どうしてだと思う?」
と笑った。
「あ…の、主任?」
この期に及んでもまだ抱いていたのは、危機感ではなく困惑と混乱。
「あんな男のどこがいいんだ?」
その一言で、主任が後をつけるなどして私と航平のデートを盗み見ていたのだと悟った。
思わず、キッと主任を睨みつける。
「そのようなプライベート、お答えする義務はありません。
そこを退いてください」
返事の代わりに、主任はもう片方の手も壁につき、距離を詰めた。
「離れてください」
あまりの近さと…この状態でも途絶える事のない主任の笑みに、背筋が冷える。
それでも怯えたり目を逸らしたら、付け入られる隙を与える気がして、視線は逸らさなかった。
「ずっと可愛いなと思っていた。
あんなヤツやめて俺と付き合えよ」
「何仰って…奥様がいるんじゃ」
主任の左手薬指には、今でも鈍い色を放つ指輪がはまっている。
けれど、私の指摘に主任はクッと声を上げて笑った。
「そんなのとっくに別れてる。
指輪してる方が油断されやすいからつけてただけ」
「…油断?」
「だから、こうなってるだろう?」
言いながら、頬を撫でる指にゾッと震えが走った。
「いやっ!離して!」
悲鳴のような声に、主任は酷薄な笑みを浮かべた。
「それは聞けないな」
恐怖で体が竦む。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かない。
後ろは壁で目の前には主任。
両腕で囲われ、どこにも逃げ場はない。
まるで楽しんでいるかのように、ゆっくりと主任が顔を近づけてきた。
キスをされる。
そう悟り、咄嗟に顔を背けた瞬間…。
そのまま抱きしめられた。
その時だった。
「那月を離せ!」
「主任?…っ!」
航平と…浅野さんの声が聞こえたのは。
気がつくと主任が吹っ飛び、航平の背に庇われていた。
「あんた一体どういうつもりなんだ?
嫌がる女性にこんな事して」
怒りを孕んだ航平の硬い声に、主任は可笑しそうに笑った。
「嫌がる?まさか。
彼女が俺を誘惑してきたんだ」
あまりの言い草に頭が真っ白になる。
「何言ってんだ、こんな真っ青な顔して震えてる那月が?あんたを誘惑?
離してって叫んでたじゃないか」
あくまでシラを切る主任と、それを睨みつける航平。
そして私の3人を見比べて、浅野さんがオロオロとしているのが視界の隅に映る。
「口では何とでも言えるさ。
どうせ誰でも良かったんだろ」
「何とでも言える?
誰でも良かった?
こんなに怯えてガタガタ震えてるのに?
んな訳あるか!」
怒りで航平の背が強張り、拳が固く握り締められる。
同時に、あまりの理不尽さに恐怖より怒りが勝った私も叫んでいた。
「誰でもよくなんかありません!
航平じゃなきゃ、キスされるのも抱きしめられるのも、絶対に嫌!」
涙交じりの抗議に、初めて主任の笑みが崩れた。
白けた顔をしたまま、フン!と鼻を鳴らして立ち去る。
その姿が完全に見えなくなった所で、緊張の糸がぷつりと切れた。
「おい!大丈夫か?」
気がついた航平が素早く支えようとしてくれたけど、踏ん張ろうにも体がいう事を聞かない。
「那月」
「…大丈夫じゃない、気持ち悪いよ。
あんな人だなんて知らなかった。
早くあの人が触れた服を着替えたい。
シャワーで洗い流したい。
気持ち悪い…怖い、もうヤダ」
涙が溢れて止まらなかった。
ただただ怖かった。
そんな風に見られていたなんて、気持ち悪かった。
廊下にぺたりと座り込み、泣きながら喚く。
そんな私と、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ浅野さんが、痛ましげな表情を浮かべた。
「国枝さん、荷物はロッカーかな?
鍵貸して、取って来てあげるから。
とりあえず今日は帰りな。
主任の事は見たままを上に報告するから」
「…ありがとうございます」
代わりに頭を下げた航平をじっと見つめ、浅野さんはふっと目元を和らげた。
「彼氏はついててあげて」
優しい口調でそう言い残し、浅野さんも離れていった。
「那月、立てるか?
床は冷えるだろ?」
航平が手を貸してくれるものの、いまだに膝に力が入らず…。
浅野さんが戻ってくるまで、わんわんと子供のように泣きじゃくる私を、航平はひたすら抱きしめてくれていた。




