血は水よりも…なんて嘘〜綾香〜
それから10日程は、平和な日々が続いた。
あの騒動から、私もお姉ちゃんもお互い警戒していたのだけど。
拍子抜けするくらい何も起こらなかったので、つい気が緩んだのかもしれない。
あのヒトも被害届を出され、警察に厳重注意を受けた筈だから、多少は懲りたのだろう。
もしかしたら…諦めたのかもしれない。
それがいかに甘い考えだったか、すぐにわかる事となった。
「綾香!」
学校から帰宅する際、門の所で呼び止められた私の耳に届いたのは、鬼のように恐ろしいあのヒト…母の猫なで声だった。
「な…んで、ここに」
「こないだはゴメンね、つい感情的になってしまって。
あんたに謝りたかったの」
周りを気にしてか、しおらしい事を言いながらも、母からは不気味な気配が漂ってくる。
思わず後ずさったのは、本能的に危険を察知したからかもしれない。
「綾香?」
数歩分とはいえ距離があいたおかげで、ほんの少しだけ落ち着いたのか、母の顔を見つめる余裕ができた。
そういえば、前回はあまりマジマジと見る事は出来なかったけれど…母は、こんな顔をしていただろうか?
まだギリギリ30代の筈なのに肌はくすみ、化粧のノリもかなり悪い。
どことなく顔色全体が黄色がかって見え、老けた印象だ。
義母の麻子さんの方が、実年齢は上だったけど、よっぽど若く見えた。
「綾ちゃん、どしたの?この人誰?」
一緒にいた友達が、不思議そうな顔をして私と母の顔を見比べている。
「帰って…」
思いきり叩かれたあの時の恐怖が鮮やかに蘇り、震える声でどうにか告げたのに
「ちょっと話があるの、こっち来て」
いきなり腕を掴まれそうになり、思わず悲鳴をあげた。
伸ばされた手を振り払った瞬間
「綾香!こっち来なさい」
鬼の形相で叫ぶと、母は強引に腕を掴み引っ張っていこうとした。
300mくらい先に黒いワンボックスが止まっていて、中から男の人が降りてきてドアを開ける。
——連れ込まれたら終わりだ。
そんな気がした。
「いやっ、離して!誰か助けて!」
「ちょっ!静かにしなさい」
大声をあげ全身で争う私の口を、母が慌てた様子で塞ごうとする。
その指に思い切り噛みつき、怯んだ隙にカバンを振り回し腕を振り払う。
「綾香!」
「こら待て!」
母の怒鳴り声の他に、男の焦ったような声が重なり、やはりそうだったのかと学校の敷地内へ逃げ込む。
カツカツカツと近づいてくるヒールの音に怯えながら、大声で助けを求める。
「助けて!先生呼んで、お願い」
近くにいた人が、グラウンドにいる先生を呼んでくれたのが見えたので、震える足を叱咤して先生の元へ駆け寄る。
「おい、どうした?」
耳元でセミが大音量で鳴いているみたいにワンワン響いて、地面がぐらりと揺れる。
「たすけ…」
不意に目の前が真っ暗になり、身体がドロ沼の中へ沈み込んだ。
* * *
目を開けると、見覚えのない天井に見覚えのない風景。
焦って身体を起こそうとしたのに、ピクリとも動かない。
唯一動く目だけで、必死に様子を伺う。
「…や、だ、誰か」
ハッハッと呼吸が浅く早くなり、思うように息が吸えない。
「誰か、いませんか」
必死に叫んだつもりなのに、驚く程小さい声しか出せなかった。
それでもカーテン越しに人の気配が感じられ、そして…
「気がついた?って、あら顔色悪いわね」
見覚えがある女性が、保健室の先生だと思い出し…ようやくガチガチ強張っていたのがホッと一息つけた。
「国枝さん、大丈夫?なんか飲む?」
「…ありがとうございます」
安心したせいか、ひどく掠れた声でお礼を言った私を、先生が抱きかかえるように起こしてくれた。
「お水よ、ゆっくり飲んでね」
「…は、い」
言われるままに、一口ずつゆっくり水を飲む私を、先生は心配そうに見つめている。
「随分とうなされていたわよ。
よっぽど怖かったのね、汗もだいぶかいてるみたい。
着替え、ある?…ない?
もし着替えたいなら、予備の体操服貸してあげるけど」
確かに。
ちょっとベタつく気もするけれど、着替えたい程でもないので遠慮しておく。
「いえ、大丈夫です」
「そう?
お家の人にも連絡しようと思ったんだけど、国枝さんのお家…ご不幸があったばかりなのよね。
他に緊急連絡先も分からなくて。
どうしよう?警察に連絡する?
誰かお迎えに来てもらう人はいる?」
そういえば、緊急連絡先は自宅と両親の携帯を登録していたのだった。
誰とも連絡がつかないのは当たり前よね。
「お姉…姉に連絡してみます」
「うん、その後で良いからよかったらどんな状況なのか、教えてもらえないかな。
担任の先生とも相談しなきゃならないし」
その言葉に頷き、まずお姉ちゃんの携帯に電話してみる。
授業中だったらどうしよう…と思ったけれど
『綾香?どうしたの、何かあった?』
すぐ出てくれたので、ホッとしながら先ほどの件を説明する。
『…何ですって?あの女、性懲りもなく!
わかった、すぐ行くから学校から出ちゃダメよ』
怒りの滲むお姉ちゃんの声は、すぐに心配そうなものに変わり一方的に通話が切れた。
切られてしまった電話を片手に、先生の方に顔を向けると…予想以上に厳しい顔をした先生と目が合い、思わずビクッと震えた。
「あ、ごめん。
ビックリさせるつもりはなかったんだけど…何だかすごい話が聞こえちゃって。
とりあえず、担任とちょっと話をしよう。
これは情報共有が大事だわ」
すぐさま保健室に現れた担任と保健室の先生に、母の事を説明する。
本当の本当は、こんな身内の恥みたいな話、したくはなかった。
けれど一歩間違ったら、あのまま連れ去られていたかもしれない。
そうなれば…家に帰してもらう事はおろか、学校に通う事すらできなくなったかもしれない。
娘に手をあげる事に、躊躇いを持たなかった人だ。
まして男の人もいるんじゃ、正直何をされるかわかったもんじゃない。
あのヒトが何を考えているか、分からない。けど親だからとか、血の繋がりが、とか、そんな常識が通じない気がするのは、多分間違いではない筈。
今更ながら、ゾッと全身が粟立った。
カタカタと震え出した私を、先生は心配そうに見守っていてくれる。
だから、つっかえながらも包み隠さず話したのだけど…話せば話すほど、先生達の顔が怖くなっていく。
* * *
辛いお話が続いて、本当に書いていてもしんどいのですが…(汗)
でも、実母襲来の話もあと1~2話で終わります。
この後は、やや糖分高めでいけると思いますので、もう少しだけお付き合いくださいませ。




