3:Evil
……その日のことを、二谷はよく覚えている。
青く発光したガラス玉が、ふわりと宙に浮かぶ。吸い込まれるように空間に消える。
直後、空間から紡がれる、平坦な合成音声。
『浬、管理者コードキー認証、第一ロック解除』
『浬、管理者ID認証エラー』
『浬、管理者コードキーを回収』
「ほらな! やっぱり実在したんだ!」
興奮気味に叫ぶ友人の、久方ぶりに見る笑顔。
鳴り続ける睡眠不足のアラートに掻き消されながら、彼は震える声で呟いた。
「これで――世界を暴ける」
その、期待のこもった言葉に。
二谷は、どうしても賛同できなかったのを、よく覚えている。
***
闇夜にとどろく、けたたましいサイレンの音。
ヒビだらけの地面の上、大きな影が揺れている。
発光中の空間に照らし出された建材の破片が、時間をかけて廃棄用の空間に飲み込まれていく。
その、埃っぽい現場に、肉体を再構築したばかりの史団が、すたんと下り立った。
慌ただしい復興作業の始まったばかりの、新システムの敷設予定だった、災害現場。
「おねーさん、約束!」
各方面への調整と指示出しを終えて、現場の状況を眺めていた二谷が、その声に振り返る。
寝癖のついたままの黒髪。黄緑色のパーカーに、動きやすそうなジーンズ。女性の立つ場所から少し離れたガレキの上で、のほほんと笑う少年が楽しげに両手を振っている。
「……先ほど、システム外部から解析不能の介入があったと。本当に、これ全て、貴方が?」
「うん!」
「カギを、使って?」
「あっ、やっぱり何のカギか分かってるね。そうだよ、あれは――」
少年の言葉がとぎれる。
しー、と。
赤い唇が蠱惑的な笑みをつくり、ほっそりとした人さし指がその前に立てられる。
悠然とした足どりで少年のすぐそばまで近づいてきて、ささやくように問いかけた。
「ウチに来て、とおっしゃってましたね。貴方のラボの仲間に、していただけるのですか?」
「あっ興味ある? やったぁ、じゃあ来て!」
ちょっと驚いた顔をしたあと、少年は右手で女性の手を引いて、もう片方の手で、移動用の空間に住所を打ちこむ。
「話はこっちでしよ!」
まばたきする暇もなく、二谷の目の前に広がったのは、白い壁面に囲まれた、ひどく散らかった部屋。
少し離れたところで機械をいじっていた革ジャンの少年が、二人に気づいて、小さく会釈して近寄ってくる。
雑然とした室内を見回しながら、二谷はゆっくりとその表情から笑顔を消して、目を細める。
「それでね、いくつか聞きたいことがあるんだけど――」
のんびりと言いながら、宙を自由にただよっている、ふっかふかのカウチを史団が手招き。
ふよふよと引き寄せられてきた三脚のうちのひとつに、少年が腰かける直前、
ひゅっ、と風が吹き抜けた。
史団のあごに、二谷が何かを突きつける。
二谷の頭上で、小さく課金音が鳴る。
「貴方と、貴方の仲間が持っているカギを、全て出しなさい」
史団の目が、ついと見下ろす。
自身のアゴの下に突きつけられている、プラスチック製の円筒を見た。
「……これ、犯罪だよ?」
棒立ちのままの少年は、ちっとも焦った様子を見せず、相変わらず危機感のない声で、ぽつりと問うた。
「ええ」
よどみない声で、鋭い目をした二谷が答える。
自殺用につくられた蘇生不可能の薬物、それを他者にも使用できるように改造した違法投薬器を少年のあごに突きつけて、二谷が答える。
生きる時間は有限ではなく、また不要な記憶や精神的苦痛は完全に除去できる昨今、犯罪なんてものはほぼなくなった。
禁忌とされるのは、――他者の利権のおよぶものに、不可逆的な操作をくわえることだけ。
他殺は合法。たいてい蘇生できるから。
だけど、蘇生できない他殺は、違法。
そういうことだ。
ゆっくりと両手を顔の横に上げた古実が、黙ったまま、呆れたような、責めるようなジト目で史団を見る。
「あのね、なにしてもいいけどさ、ハナからおれらの勝ちなんだよねー、この世界で戦う以上」
史団から、のんびりと告げられた不可解な言葉。
二谷は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに時間稼ぎのためのたわごとだと判断する。
「なにをおっしゃっているのか分かりかねます。いいから早く、」
「じゃあ一つ教えて。おねーさん、このカギでなにするの?」
「……何も」
「え?」
「全て、処分します」
「ええーそれ困るー」
「やっぱ終末思想家だったか……」
古実がため息をついたところで。
女性の手の上から、史団の手が、覆うように、そっと添えられる。
「え」
そしてその円筒を、蘇生不可能な自殺薬を、少年は自分のアゴに押し当てた。
にっこりと、ほほえんで。
「な……」
驚く二谷の前で、少年の指がためらいなくスイッチを押す――
そして。
空になった円筒が、からん、と、二人の足元に転がった。
「残念。不良品だったみたいだね」
満面の笑みを浮かべた少年が、なんともないような顔で、軽く両手を振ってみせる。
「な、うそ、そんな……何万分の一の偶然……」
「おれはすごい魔法遣いだからね。隙あり!」
事態についていけない二谷の視界が、ぐるん、と回った。
「せぇやぁ!」
身体が宙に浮く感覚。
平坦な合成音声が、二谷の耳に届いた。
『浬、管理者コードキー認証、第一ロック解除』
『浬、管理者ID認証、第二ロック解除』
『浬、特別権限認証、第三ロック解除』
なぜかさっきより数倍焦った古実の顔がさかさまに映る。その背後、かたわらに乱雑に積み上げられていた古くさい機械類が、ぶわっと浮いて、宙に散らばる。
ひざを大きく曲げた史団の両足が、天井を蹴るのが見えて。
けたたましい音を立てて、機械類が落下する。
背中と後頭部に衝撃。床に転がされた、と二谷が気づいた直後――
ごちん、とすぐ近くから別の、ひどく痛そうな音がした。
二谷の隣に、頭を押さえてうめきながら、史団が転がる。
「不必要にやらかすなバカ!!」と古実の怒号。
「いたいです!」
床をごろっごろ転がりながら、頭を抱えて史団がわめく。
「いま自分が何したのか言ってみろ……?」
「ううう、重力制御をちょっぴり改竄しました、ゴメンナサイ」
少年二人がやいやいと言い争う中、がちゃり、と、扉が外から開く。
「ただいまー、って、え、今日は何の騒ぎ? うわっ、ダメだってここで暴れちゃあ、<瓦解>でも再現する気?」
いつになく散らかり放題の部屋の惨状を見渡して、ぎょっとなる教授。
革ジャンの少年が、疲れきった顔で彼にうなずく。
二谷が、教授を見た。
「……御山、教授」
今や、だれでもその顔を知っている。システム系の学会で、いくつもの画期的な論文を発表している、世界的な権威だ。
その抜きん出て卓越した技術力から、浬を活用していくつもの無理難題を解決している実績から、浬の創設メンバーの一人ではないか――という噂の絶えない人物の一人でもある。
メディアで見かけるりりしい顔つきは見る影もなく、情けない困り顔を浮かべて、二谷に駆けより助け起こす。
「お嬢さん、そこのおバカたちが何かやらかしたのでしたら、誠心誠意謝罪させます。でもまず、えーとね、一応、ここ浬のメインラボなので、色々対策してはいるけど、何かあると非常にマズいんだ。だからケンカならよそで」
「ムダだよ教授、この人、それ知っててワザとやってんだから――」
古実が言いかけたのを遮って、
「……本当に?」
両手をだらりと下げたままの二谷が、ぽつりと小さく問うた。
「ここ、ほんとに、ほんとの浬のラボですか?」
彼女の目線は、きょとんとする三人の、頭上。
少年二人の、先ほどまでは何の変哲もなかったIDが。
一人の個人に、二つと与えられることのないはずのIDが、切り替わっていた。
いま、IDパネルに表示されているのは、揃いも揃って『大文字三文字』。
教授は言わずもがな。
革ジャンの少年の頭上にある三文字に、吸い寄せられるように目がいく。
「CAT……」
そんな有名なIDを、そんな都市伝説を、もちろん彼女だって知っている。
浬の創設メンバーの一人にして、唯一の渉外役。神出鬼没で気まぐれで無愛想、時に打算的で、時に狡猾な『猫』。
「浬の正体を暴こうとするラボではなく……本当の、創始者で管理者?」
先ほどとは打って変わって、ひどく弱々しい声。
「このメンツと雰囲気じゃ信じられないよねーまぁ無理もない」
と苦笑した教授が、大きくうなずいてみせる。
史団は首を傾げてから、数回まばたきをして。
「あ、そゆことかぁー」
「……説明」
短く聞く古実に、あのね、と史団が答えた。
「おねーさんは世界を滅ぼそうとしてたんじゃなくてね……ほら、もし、「浬の正体を暴こうとするラボ」がカギ持って好き勝手につかってたら、おれらも、おねーさんと同じことしたよねーって話」
笑顔の少年がウインクするなり、空間から再生される、先ほどの史団の声。
『悪いやつがここ押さえたら世界征服できちゃうから!』
「……あー」
大きくうなずいた古実が、額を押さえる。
「大丈夫だよ。ここはすっごい秘密結社なのでー!」
パーカー姿の少年の、そんな脳天気な言葉で。
全身の力を抜いた二谷は、両目から涙をこぼした。
***
研究者の家系だった。
一族揃って飽き性なんだ、と祖父母は、新しい書籍をめくりながら、笑いながら言った。
親族たちはみな、各々の研究目的を果たすと、次々に命を絶った。
この世界の研究に飽いて。心残りはないと、笑って。
医学と科学が進歩したこの時代、その気になれば肉体を捨ててほぼ永遠に生き続けられる昨今、各自のその判断は、別に誰にも糾弾されることではない。一部の宗教を除いて。
ただ、彼女は。
遺された彼女は、それを寂しいと思った。それだけだ。
研究者たちは、自らの研究に、生きる目的を求めていた。
だから、みな次第に、最も果てないと思われる命題に挑むようになった。
(あるいは逆かもしれないが。果てない命題に挑んだものだけが、世界に残ったのかもしれないが。)
つまり――世界について。
世界のほぼ全てを掌握する管理システム浬の、その旧システムとは全く異なる謎ばかりの構造と設計と動作原理と、その他諸々について、暴こうとした。
何年経ってもまったく暴けなくて、やがて何人かが諦めた。
諦めて、生きる目的を失って、また生を絶った。
だから彼女は、必死になって暴こうとした。
自らは研究者向きではなかったけれど、だからこそ交渉役・渉外役として、彼らのサポートに奔走した。
そして偶然にも、彼女の友人の一人が、その片鱗を、カギをひとつ見つけた。
清掃AIがなぜか廃棄しようとしない、不思議なガラス玉を一つ、路上で拾ったのだ。
そうして知った。
浬は通説どおりの代物ではなく、どこかに管理者のいる、有人的なシステムなのだと。
彼女は、おそれた。
人が作ったものならば、人が理解できる可能性がある。
管理している人がいるならば、いつか、内部情報が公開されてしまうかもしれない。
もし、世界の正体が知れたら。どこかの研究者によって、世界の姿が完全に暴かれる日がきたら。
それを求めていた多くの研究者は、命題の解決に満足してしまう。
満足して、納得して、たくさんの人が死んでしまう。
彼女は考えた。
解決できない命題よりも、全ての命題が解決されきった未来のほうが。
そちらの未来の方が、よほど恐ろしいと思った。
だから。
肝入りのプロジェクトの開始直前、最終ミーティングを終えての帰社途中。
偶然、またあのガラス玉を拾った。
みんながゴミと思って素通りする中で、すぐに見つけた。すぐに分かった。
だから。
彼女は、世界のカギを隠した。
どんな研究者からも、どんな企業からも、何をしてでも、隠し通すと決めた。
世界を、最大の謎を、彼女のできうる限り、謎のままにすると決めた。