2:Civilization
<瓦解>。
そのとき何が起こったのか、正確なことを知る者はいない。
ただひとつ明らかな事実。それは――
これまで世界を維持していた、大小さまざまなシステム、そのほぼ全ての同時停止。
それに付随して引き起こされた、あらゆる二次災害。天候不順、惑星の崩壊、社会現象。
システムにより安定的に制御されていた地盤はあっさりと崩れ、重力は無秩序に入り乱れ、あらゆるインフラは機能しなくなり、機械は好き勝手に暴走し、衛星軌道を外れた惑星がいくつも衝突し消滅した。
推算では、資源の8割、世界人口の8割が失われた。
あらゆる文化や文明は、一度、滅びかけた。
原因は、未だに明らかになっていない。
一説には、あの一瞬、何らかの理由で、世界を取り巻くすべての物理法則が書き換わったのだという者もいる。
ただ、それには否定的な意見が多い。なぜなら。
地球の端、とある島国のとある研究機関で稼働していた、とある小規模完全独立システムだけが残存したからだ。当時、人知れずひっそりと、だが<瓦解>前と変わらず、安定的に稼働していたからだ。
生き残った生物たちと修復可能だった非生物たちは、そのちっぽけなシステムを一気に拡張して、世界を維持するシステムの代替とした。
やがて、なんとか、世界に平穏が戻った。
ちなみに。
世界を司る、そのシステムの名前は――
浬、という。
***
「ただいまー」
空間に肉体を再構築した少年――史団が、のんびりと声を張り上げる。
白い部屋のあちこちから返ってくる、おかえりー、といういくつかの声。
その部屋の端。
大きめのカウチに沈み込んで、ぜぇはぁ、と息切れしている少年が一人。
ちょっと心配そうな顔をした史団が、そろっと近寄って、その少年――古実周辺の酸素濃度を上げる。
それに気づいた少年が勢いよく身を起こして、
「お! ま! え! な!」
激昂に反応したAIが鎮静物質を分泌してこようとするのを、小型計算機を持ったままの左手で振り払う。史団のパーカーの胸ぐらを乱暴につかみあげて、ごちんと額をくっつける。
「お前らこないだまで暗躍系隠れヒーロー最高っつって散々ノリノリでしらばっくれられてたじゃねーか!! なんでいきなりネタバレ始めてんだ!」
「うんとね。飽きたーぁ」
「飽きたとか、そーいう話じゃ、ねぇんだよ……」
「季語なし!」
「るせぇ! 人がちょっと目ぇ離したスキになにやってんだ!」
怒鳴る少年の周囲にふよふよとただよう、つくりかけのプログラムと流れていく計算式。
「おとなしくガッコ通いたいなら隠せっつっただろうが!」
「だいじょぶだよーう、なんとでも――」
「なるけど、それをやるのはお前か? オレだろ?」
ううむ、と心底困ったような顔で押し黙る史団に、更にまなじりをつり上げる古実。
「……理由、忘れたとは言わないよな?」
「おれらがチートする特権がなくなっちゃうから!」
「それじゃないやつ」
「悪いやつがここ押さえたら世界征服できちゃうから!」
「まぁ、相変わらず、なくなったもんのルールで考えるヤツばっかだし、ここ押さえたからってそうカンタンに扱えるとも思えねぇけど」
ぼやいた古実が、額を離して、ぐるりとラボを見回して。
「ああ、それと、いつもいちいち断らずに回収してるだろ、なんで今回は面倒くさい真似」
「あのおねーさん、ウチに欲しくて!」
「これ以上増やす気かお前!!」
「ちっちがうもんあの子はちがうもん!」
「人間は拾ってくるなっつっただろーが!!!」
部屋のかたわら、山のように積み上げられた、旧時代のハードウェア。
その後ろにある白いパーテーションの向こうから、おっとりとした声が聞こえてくる。
「人外ならーいいのかー」
続いて、にゃーんとか、わんわんとか、無数の動物の元気な鳴き声。
「教授は黙ってて! ください!!」と古実。
「はいはい」
「きょーじゅは、増やして良いよってゆったもん」と史団。
「いやー、てっきりまた犬猫かとばかり……」と教授。
「ちゃあんと、このみくんの守備範囲も条件に入れてるよ?」
史団が言うのに、自他ともにみとめる面食いの少年は、
「入れんでいいっ」
空間ごしに見た女性の笑顔を思わず思い出して、ちょっと赤い顔でそっぽを向く。
「だから、普通に勧誘すればいいだろが!」
ぜぇはぁ、と息を吐いたあと、古実は史団の胸ぐらをつかんでいた手を離した。
そして、「理由。説明」とだけ、ぽつりと言った。
史団は、うーん、と呟いて、右の手のひらを上に向けた。
そこにふっと現れる、小さなガラス玉。手の上でころころと転がす。
「このみくんが、もしこのラボの一員じゃなかったとして、これ拾ったら、どうする?」
「ゴミにしか見えないから捨てる。あの人も覚えてなかったし、そんなもんだろ」
「だよね。おれも。でもさ、清掃AIに任せずに、わざわざ自分で拾ったものを、昨日の今日で忘れるかな? 優秀な営業マンのおねーさんが」
「ふーん、昨日か。じゃああれだ、お前が必死に取り返そうとしてきたから、価値のあるもののカギだと思って、しらばっくれた」
手のひらの上、生命線をたどるように左右に揺れるガラス玉。
それを見つめたまま、ぐぐっと寄り目になる史団。
「それだと、何のカギか気になりそうだけど……あのひと、一度も『何のカギか』って聞いてきてないんだよねー」
「……まさか、使ってないのにバレてるってのか? そんなわけ――」
顔をしかめた古実が、空間から慌ただしく色んな情報や記録を引っ張り出し始める。
ようやく解放された史団が、ふぅと一息ついたところで。
気づく。
目の前に、土下座している正装姿が、一つ。
床を舐めるように。床にへばりつくように。
「お、おかえりなさい、史団くん」
鼻声でごく丁寧にそう言って、ぶるぶる震えながら上体を起こす。
擦過傷で赤くなった額と、涙目、鼻水。
ああー、とのんびり呟いた史団が、その男性の前にしゃがみこむ。
「こんにちはー、お役人さん」
「お話は終わったかな? もし良かったら、ちょーっと手伝ってくれると、人類的に、世界的に、非常に助かるんだけど……」
「あれっ、まだ片づけてないの?」きょとんとする史団に、
「今日の当番、お前ら」
なにやら資料をひっくり返しながら古実が指さした先に、壁に掛けられた、手作り感満載の当番表。
ちょっといびつな矢印の先には、殴り書きの『あぶく・しだん』の文字。
「あ、そだった」と史団。
「そんで、あいつらは自業自得」
古実が指をずらして示す先に、なおも収集のつかない、大規模エラーの文字列と大事故現場の報道映像。
「いやー、ちょっとは手伝おうとしたんだけどね、」
と、史団に耳元で声。振り向くが誰もいない。部屋の奥から放たれた単指向性音声。史団にだけこっそりと届けられたはずのその声が聞こえているらしい古実が、資料からがばっと顔を上げて、パーテーションの奥へと怒鳴る。
「そーやってあんたらが甘やかすからっ」
「ああー、はいはい、じゃあ私は学会に呼ばれてるからー」
パーテーションの向こうから現れた白衣姿の丸い背中が、いそいそと去っていく。
閉まる扉に、古実は、ったく、と悪態をついてから。
ことん、と史団の手元に置かれる、湯気の立つ緑茶。
史団が、置かれたばかりの湯飲みと、少年の顔とを交互に見る。
「……おれ思うに、おれらのこと一番甘やかしてるのって、このみくんだと」
「いーからやれっ」
***
ぴん、と史団の指先が、ガラス玉をはじく。
高く、天井近くにまで跳ね上がった透明な球体が、青く発光する。
それと同時。
史団の左上、中空に浮かぶ文字列が。
世界中のあらゆる個人を識別する、唯一無二のはずのIDが切り替わる。
ID:CDE
自由落下を始めたガラス玉が、ぱしん、と史団の右手に収まる。
直後、空間から紡がれる、平坦な合成音声。
『浬、管理者コードキー認証、第一ロック解除』
『浬、管理者ID認証、第二ロック解除』
『浬、特別権限認証、第三ロック解除』
重なるように、輪唱のように聞こえてくる、いくつもの同じような音声。
史団の黒い双眸が、かたわらの報道映像に向けられる。
それだけで。
なおも倒壊を続ける市街の光景が、一瞬わずかに揺らいだあと、壁一面に大きく広がる。
その前に仁王立ちになった少年の、頭部の上半分を、青い光が包みこむ。
勧められたイスにようやく腰かけた役人が、その姿を見て「おや」と声を上げた。
「見慣れないインターフェースですね」
まぁな、と古実が湯飲みを傾けつつ応じる。
「なぜです?」と役人。
「あー、処理多いから、じゃっかん本気モードってトコ。こんなん過去データにほぼストックないし」と古実。
小声で言い合う二人の前で、史団の右手が、急にVサインを形づくる。
「いえーい、奪還成功ー」
青い光に包まれたまま、少年が楽しげにわめいた直後。
映像の中。
宙に浮遊していた舗装道路の大小の破片が、一斉に、ある方向に落下する。
その、水平に戻ったヒビだらけの地面の上に、宙にただよっていた様々な物体が着地する。
役人が、満足そうにその様子を眺める。
「やー、やっぱりキミたちに頼むのが一番ですねー。災害救助部隊やら各軍事組織やらシステム復旧に強い開発系企業やら、各方面に動いてもらってるものの、重力と天候の制御ばかりはどうにもならなくて」
「だろうね。ああいう地味で基礎の制御技術は、旧システムだとほぼブラックボックスだったから」
カチャカチャと手元の計算機を動かしつつ、古実が答える。
「浬だけは、違うと?」
「あんたにも何度か見せただろ、中身」
「はぁ。でも本当に、全部、イチから組んでるんですね」
感心したように息を吐く役人の横、古実が「そーいや」と呟いて史団を呼ぶ。
「おい、危なっかしコンビ。もう片割れは?」
「さぁ? なんか別のトコの研究が忙しいってゆってたけどー? ……あれ、ここだけちゃんと動いてる。ここの設計者さんが全部つくったらよかったのに」
『浬、空間制御権、取得』
空間から、平坦な合成音声が紡がれた。
ぱしんと両手を合わせた史団の周囲、青い光がふっと消える。
「はい、オシマイ。お役人さん、こんなもんでいい?」
「ええ、ええ、十分です! あとは我々で」
立ち上がった役人が素早くどこかに連絡したかと思うと、一礼して、慌ただしく去ろうとして、
「あのう、ちなみに、今のは何をどうしたんでしょうか?」
古実から渡された経口食をモグモグしていた史団が、くりっと目玉を回して。
「簡単にいうとー、あのへんのおかしくなってた物理法則とかを直すために、あのへんの時間をー、三日くらい前に戻した?」
「そ、そんなことできるんですか?!」
「そのへん、くわしく説明したほうがいい?」
首を傾げながらの史団の問いに、
「……諦めます」
ちょっと考えたあと、悔しそうに答えて、役人は力なくうなだれる。
改めて礼を言って、謝礼を払って、役人が去ったあと。
古実がちょっと眉根を寄せて、史団を肘でつつく。
「お前、あのデタラメ説明やめてやれよ」
「ええー、『いくら役人さんだからって、そんななんもかんも無償で教えてやるな』ってゆったのは、たった数ヶ月前のこのみくんだよ?」
「トンデモ設定をつけろとは言ってねぇ」
古実の腕が俊敏に伸びて、史団の右頬を、むいむい、とつねる。
「みゃうー」
「そういや、さっきの女の人、二谷さん、だっけ。最近の経歴見たか? 妙なんだけど」
「ん?」
ぽいっと差し出される情報群。
二谷 ひとえ。
二谷家の長女。旧主要システム関連技術の研究者・開発者の家系。
親族、学友、友人、知人、そのほとんどが開発者という環境で育つ中、当人だけは一貫して営業畑を歩む。
<瓦解>以前は、旧主要システムの一つである<AsTro>関連企業に勤務。
<瓦解>からの復興後、複数企業合同で浬調査プロジェクトを旗揚げ。同プロジェクトは浬の基礎構造を調査する目的から、周辺技術開発に主旨を変え、現在も続いている。
翌年からは大手企業を転々とする。奇妙なことに、彼女が入社した直後、各企業は無償公開としていた自社資産を全て撤回し、企業利益のため秘匿化することを宣言。
今年に入ってからは、無名の零細企業を転々としている。たった一人で、有力とされていた数多の大企業を退け、大口の契約や交渉権を次々に勝ち取る。
「おお、すっげー」と史団。
「えーと、今年の経済効果、一人でどんだけだ? こりゃ化け物だなぁ」
計算を終えた古実が呟くのに、ぱっと顔を輝かせる史団。
「やっぱ、このおねーさん欲しくない?」
「この行動の意味が分かってからな。単なる腕試しとか、金目当てにしては、なんつーかこう、文明を衰退させるような方向に動いてね?」
古実の眉間のしわに、史団の腕が伸びて、むいむい、と指先で引き延ばす。
ううーん、とうなってから、史団が答える。
「どこの産業スパイだろうねぇ。ま、本人に聞こ!」




