1:Civil
――それは突如、瓦解した。
あっさりと、何の前触れもなく崩壊した。
つまりは世界のほとんどすべてが、だ。
時は西暦2180年夏。
今や幼子でも知っている、未曾有の大事件、<瓦解>。
そして時は流れ――
西暦2183年の梅雨明け。
***
真っ白いドームの中央。
某企業本社、中核戦略オフィス。
取引先との通話を和やかに終えて、正装姿の女性が一礼する。
対面していた男の情報群が左右に揺らぎ、別れの挨拶をして、彼女の前から消える。
一つ息をついた女性が振り向くなり――ぎょっとなる。
見知らぬ少年の笑顔が。
パーカー姿の上半身だけが、ふよふよと宙に浮かんでいる。
「おねーさん、カギ返して! あっあとついでにウチ来ない?」
「は? あの、ここ第三種セキュリティ区画……」
社員の中でも、特別認証がないと通過できないはずの、秘匿事項の多く飛び交うエリア。
女性は視線を上に。
にこにこと笑い続ける少年の右上、IDパネルに認証表示はない。どころか社員章もない。
しかし、本来出るはずの、セキュリティ警告は出ていない。
「あっこれは新手のナンパなんだけどねっってみゃああああああ」
上機嫌にしゃべっていた少年の声が、急に遠ざかる。何かに引きずり込まれるように、空間に消えていき――あっという間に手首だけになる。じたばたともがく手首。
「アホかバカか! ああそうかそうだったなあ!」
と、更に別の少年の声がする。
「うにゃあああ」
頓狂な悲鳴を上げて、手首が消失する。
空間の向こう側で、やいやいと言い合う声。
「ったく何やってんだ!」
「だってぇ」
「って、何で音声まだ繋いでんだ!」
ぶつん、と何かが途切れるような音。それきり、ドームを満たす静寂。
女性はまばたきをして周囲を見回す。ひたすらに流れてゆく社外秘情報を見渡して、頬を掻き、ぽつりと呟く。
「……はたらきすぎ、かな」
と、そこへ、
「にゃーちゃん!」
ドレープの多いスカートを揺らして、赤髪の小柄な少女が、すとん、と下り立った。
「いま、ここらへんに穴、開かなかった?!」
「ええ、開きました。ちょうどそこに。男の子が顔を出して」
女性が指さしたあたりをうろうろしながら、少女が聞く。
「IDは?」
「見えませんでした」
「んんー。わたし特製の、設計したばかりのこの強固なセキュリティを突破するとは、やりおるのう。何者だー。なんか言ってた?」
「『うちに来ないか』――って。引き抜きのようでしたけど、社名を言う前に消えましたよ」
「だめだ完全にふさがってる。りょーかい。ログあさってくるー」
ふぁーあ、とあくびを一つした少女は、ぺたぺたとサンダルを鳴らして歩き去る。
「というか虻名先輩、そんなことしてていいんですか? 明日は」
「いいのいいの! だあってあの人たち、わたしの話きかないしー!」
少女が頬を膨らませて不満そうに飛び跳ねるのに、女性は首をひねる。
「ああ、未完成で危険だって話ですか。全工程、シミュレーターでは問題なかったんでしょう?」
「そりゃあねー」
女性は疑問符を浮かべ、少女が続けた専門的な説明を理解するのを早々に放棄して。
「ああ、あの大喧嘩、もしかして」
「そうそ! ムリならお前はやんなくていいってさー。今のわたしは、このオフィスのセキュリティ専任課長なのだー」
じゃあね、と言いおいて、元気良く去っていく背中。
女性はそれを見送ってから。
右手の二本指を目の前にかざして、左右に揺らす。
立ち上がったばかりの緑色のウィンドウ。
戸籍検索システムに、先ほど見えた少年のIDを入力する。
――ID:Kashii Shidan。
***
だだっぴろい芝生を撫でるように、さわかやな風が吹き抜ける。
澄みきった青空。おだやかな日差し。小鳥のさえずり。
ここは、とある教育機関が設けた、自由参加型の集会所の一つ。
その場所に、講義を受け終えたばかりの老若男女が、ぱらぱらと姿を表す。
一秒前まで無人だった空間に、ぱっと現れるいくつもの人影。
空間に再構築されたばかりの肉体で、大きく伸びをしてから、彼らはめいめいに、好きな輪に加わる。
とりわけ居心地の良さそうな木陰の下。
10代後半くらいの外見の男女が座り込んでいる。
「お前それなに、知らんゲームだ! おっ『大文字三文字』?!」
大声をあげた少年が、プレイ中の少年の頭部を乱暴に押しのけて、製作者の署名欄を指でなぞる。ID:ABC。
興奮気味に告げられたその言葉に、周囲が沸き立って擬似空間をのぞきこむ中――プレイ中の少年だけは華麗にスルーして、頭部を元の位置に戻すだけ。
「……え? なんでノーリアクション?」
めまぐるしく動く色鮮やかな擬似空間に右手を突っ込んで操作しながら、黒髪の少年はひらひらと左手を振る。
「だあってそんなん、ゲームの面白さに関係ないない」
「はあー? お前夢ねぇな!」
『大文字三文字』。
全世界の人間、そのほか人間と意思疎通できる、あらゆる個体・生命体が取得可能な固有IDが、英字大文字三文字の組み合わせである者たちの総称。
浬の初期導入時に、いち早くIDを取得したという、なによりの証だ。
つまり。
当時、全くの無名システムだった浬の開発メンバー、創始者という可能性もあるわけで。
すなわち。
あの<瓦解>時に、世界が崩壊寸前までいったあの未曾有の大事件から、世界を救った救世主という可能性もあるわけで。
「お前、ああいう噂とか好きじゃなかったっけ? ほら、こないだ、食えるAI探すーとか、亜空間探して秘密基地にするーとか走り回ってたよな」
「うーん、だってあれ、お」
言いかけた少年の言葉が、ぱしん、という音で途切れる。
「イシダ?」
黒髪の少年がゲーム操作を一時停止して、何やらモゴモゴ言いながら自身の右耳を押さえている。
その右耳の周囲からあふれる、謎の、つんざくような怒号。
「ああもーう、わかったからぁー」
うっとうしそうに口元の何かを振り払う仕草をして、受話用の空間の空気振動を下げる少年。
となりに座る友人の少女が、読み途中の小説から顔を上げて、ふしぎそうに首を傾げる。
「なに、通話?」
「うーん、そんなかんじ」
「まぁ、そういう奴らが存在してるっていう話自体、ただの噂だしなぁ」
システム構築用AIや複数の開発企業・組織が、<瓦解>時に散らばった旧システムの断片を数ヶ月かけてつなぎあわせて復元した、非常に複雑な参加型構築システムなのでは、という説が一般的。
と。
別の集団から、わっと声が挙がる。
聞こえてきた話題に、少年の前に座り込んでいた一人が、ニュース映像を表示させて引き寄せる。
みなが一斉にのぞきこむ。
「へーそうかぁ、ついにか」
「なにこれ?」
「新規の代替システム候補だよ。先週から稼働してて、今日から移住開始」
くぁー、と黒髪の少年だけがつまらなそうに、あくびをかみ殺し、
「ニュースとか、きょうみなーい」
ゲームを終わらせて、やわらかな芝生の上に寝ころんだところで。
「――それは残念。こちら、弊社肝入りのプロジェクトなのですが」
女性の声が、頭上から聞こえた。
「あっ、昨日のおねーさぁん!」
ぱあっと顔を輝かせて芝生から飛び起きる少年。
「こんにちは。ご学友の方々とお話し中のところ、失礼します」
好奇心まみれの衆人環視の中。
汚れ一つ、しわ一つない上下のセットアップ――正装姿の女性が、少年に向けて綺麗にほほえんで、優雅な仕草で一礼する。流れるような銀髪が肩からこぼれて、木漏れ日にきらめく。
「お、お前、こんなお姉さんとどこで会ったんだよ? ずりぃぞ!」
赤面した学友の一人が、少年の両肩をひっつかんでガクガクと揺さぶる。
「にゃあー」などととわめきながら、されるがまま前後に揺れる少年。
「二谷と申します。学習お疲れさまです」
ほほえんだまままの女性は、そう名乗ってから、空間から小箱を取り出して開いた。
「皆さん経口摂取されますか? 差し入れです。体内合成型、自己循環型の方々はこちらを」
「わーい! いただきますっ」
口々に礼を言った少年少女たちが、奪い合うようにして、色とりどりの嗜好品を手に取る。
さっそくパッケージを引きちぎって経口食をもぐもぐしながら、黒髪の少年が周囲を見回す。
「あれ? みおは? これ好きだったよね」
「自殺ー」
「あいつ、さいきん暇そうだったもんなあ」
のんびり答える者たちの中、一人だけ、正装姿の女性だけが小さく顔をうつむかせて。
「お悔やみ、申し上げます」
「う? ああうん」
唇をかみしめるように呟かれた言葉に、皆がふしぎそうな顔をする。
食べ終えた少年が満足そうな顔をして、空になったパッケージを空間にぽいっと廃棄する。
「それで? おねーさん、おれになにかご用事?」
「用事があるのは、貴方のほうではないですか? ――香椎 史団さん」
「そうだった。おれのカギ、返して!」
差し出された手のひらを見つめ、二谷が苦笑をその顔に浮かべる。
「全く覚えがないのですが……貴方の持ち物のカギを、私が持っている、と?」
「うん、拾ったでしょ、こんくらいの小さいガラス玉。あれねぇ、そうは見えないかも知れないけど、カギなんだよ」
二谷は、アゴにそっと指先を当て。
「申し訳ありません。そのようなものを拾った記憶がありません」
「ええー。だって、おねーさんが拾ったの、見たよ?」
「おいおい、お姉さんに言いがかりつけるのやめなよイシダ」
「だってぇ、あれなくすと、ラボのみんなに怒られるー」
「ラボ?」
二谷の問いに、史団よりも先に友人たちが答える。
「あー、こいつの入り浸ってる、なんだっけ、旧時代のガラクタ集めてなんかやってる」
「魔窟だよあれは」
あきれたように笑う学友たちに、史団が不満そうに頬を膨らませたところで。
二谷の周囲から、いくつもの呼び出し音が鳴る。
『戻れ二谷、インフラに不明エラー、事故だ!』
「え」
目の前に映し出されている、真新しい、閑静な町並み。
そのいくつかの建物が、急にゆがんで、大きく傾いた。
建造されたばかりの壁面や地面に、縦横無尽に走る、いくつもの亀裂。
すべての窓から、窓枠が一斉に吹っ飛ぶ。
そこから、真っ赤な火炎と黒煙が、とめどなくあふれる。
落下したガレキに、わめきながら道を駆けていた人間がつぶされる。
ひどく、あっけなく。
その、血を吹き出して分断された右腕と、落下したばかりのガレキとが、今度はふわりと宙に浮かび上がる。
「ね、ねぇこれ、逃げないとやばいんじゃ」と少女の震え声。
「いやでもどこに」
さっきまで思い思いに騒いでいた、ほぼ全員が顔を強ばらせて、その映像に注視していた。
「これ、新しいインフラ管理システム、ってさっき報じてたよな。なら、こっち――浬側には影響ないって」
「なんだか<瓦解>のときみたい……」
「おい、やめなよ」
「あのときは、こんな映像すら、見えなかったよな」
すべてのインフラが――映像を表示する機能すら、死んでいたから。
「だいじょーぶ、死にやしないっ」
一人だけ、やけに明るいままの声。
「お前、タフだな……」
プイっと顔を背けて、再びゲームにいそしむ史団の姿に、皆が呆れた目を向ける。
「まぁなぁ」
「そうかも知れないけどさー」
医学と科学が進歩したこの時代。
肉体はどれだけ損傷してもだいたい修復できるし、最悪かけらも残らなくたって、その気になれば肉体を捨てて、別の肉体かあるいは、物質であることを放棄して、ほぼ永遠に生き続けられる。
本人さえ望めば。
「てか、なんでこんなんなってんだろ?」
「そりゃーそーだよー」と史団がのんびり答える。「こんな、あらん限り資源とりまくりすぎてグラグラになった地盤の上にさ、重力制御と地殻制御もおぼつかないまま、生身の人間の通行解除するなんて、そりゃ、とーぜん、そーなるよねー」
「……お前、そういう、どーでもいいことはよーく調べてるよなぁ」
「人間はそういう、どーでもいいこと脳みそに入れては楽しむ生き物なのだよ」
鼻歌まじりに答える史団。
答えてから、そのかたわらで、青ざめたまま呆然と映像を眺めているばかりの二谷に気づく。
「……どうして、浬に依存するしか……」
小さく呟いたその青い顔を、そっと、伺うように見て。
「よーーし!」
急に雄叫びを上げたかと思うと、突然、腕まくりをして、
「じゃあさ、ならさっ」
史団は、にんまりと笑う。
「キミの願いと、おれのカギ、交換しよ!」