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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

一重・月下美人

作者: 鷹枝ピトン

 夜。

 少女の住む城は丘のうえに立っており、その城下に広がる街は、まったく輝いていなかった。技術の進歩とともに、低電力で十分な光量を発する照明器具は開発されたが、同時に世の中を席捲した節制のライフスタイルは、イルミネーションの概念を闇に葬ったのだった。

 天蓋つきの豪奢なベッドに腰をかけ、唯一の明かり、月の光で横顔を照らす少女。寝間着とナイトキャップを装着した彼女はすでに、夢の世界を覗いている。うつら、うつら、ゆらり、ゆらら……。小さな頭がゆりかごのように揺れる。

 普段は21時には枕に沈む少女であるが、毎月の四週目の月曜日だけは、夜更かしをする。起きていても、眠っていてもさして変わることのない彼女の世界を、塗り替える幸せが訪れるからである。

 しかし、今夜はなかなか寝室のドアノブが回らない。私はこんなに待っているのに、どうして来ないことができるのか。少女は憤慨した。機嫌の悪さが目を覚まさせる。包帯に隠れた鋭い眼で、キッとドアを睨みつけた。

 そのとき、ドタドタと慌ただしい足音が階段を駆け上がっていく。静かな夜には似つかわしくない無粋者。だが、それこそが少女にとって唯一の『色』であった。

 やがて、かちゃりと鍵が回される。きいいと開くドア。外気が少女の頬を撫でる。

 やってきた。少女はとっさに口元を隠した。もし、少しでもにやけていたら、からかわれるに決まっている。

「やあ、ごめんよ。遅れて。もう寝ちゃってた?」

 成長期の少年の声。少女は口を開こうとするが、歪んでうまくしゃべれない。からだの内から噴き出してくる温かい気持ちが、頬を染め、正直を隠そうとすればするほど、本心が露わになる。取り繕っても、ばればれだった。この部屋には鏡がない。たとえ恥ずかしい表情をとったとしても、少女自身がそれを見て、羞恥に悶えることなどない。諦めて、一番手前にあった言葉をそとに押し出す。

「待っていたに、決まってるでしょ……ばか」

 少女の両眼を覆っていた包帯が、窓から注ぎ込んだ風に、ほどけた……。



 丘のうえの古城は、百五十年前に没落貴族が手放し、六十年前に少女の祖父が、彼の生涯でなした財をもって買い取った。月に都市ができつつある時代に、わざわざ古風な旧式家屋に引っ越した変わり者。祖父はいくらかの陰口を囁かれたが、彼の名声のもとでは、さえずりにもならなかった。

 少女の祖父は物理学者であった。光を超える速さをもつ物質の発見という、先人たちが夢にみた偉業を、彼は若干三十歳で打ち立てたのである。明日の食事にも困っていたぼろ雑巾じみた白衣の男は、学会での発表から一夜であらゆる書物に名を遺した。

 科学において功績を残したものは、それ以降講演やインタビューなどで仕事に困らなくなる。口座には金が溢れかえった。彼はまぎれもない成功者となった。

 しかし、あるときから、祖父は急に主張を一変させた。光を超える物質など、発見していないと言い出したのだ、彼自身の書いた完璧な論文と彼に次ぐ優秀な学者たちの検証データにより、虚言であることは明らかである。


 精神疾患を診断された祖父は、古城の自室に籠り、生涯を終えた。


 光の秒速は三十万キロ毎秒。少女の祖父が発見した「クラヤミ粒子」は、光の進行方向を先行する粒子であり、三十一万キロ毎秒で進む。これを利用したタイムマシンの開発がここ五十年科学界の沸騰分野となっている。


 『末は宇宙か、時間旅行か』。優秀な学者の卵に期待を込めて贈られる言葉である。


 少女の部屋を訪れた少年は、宇宙飛行士の訓練生であった。物理学者の親に反抗し、宇宙開発分野の研究者となった父の関係で、城から出られない少女は彼と出会った。

 宇宙飛行士になる道は険しい。月面基地へ行くには、毎期の試験で優れた結果を残さなければならない。ゆえに少年は、夢をかなえるために忙しく、なかなかこの城へ来ることができない。

 ゆえに、恋の成就への道も同じくらいに険しかった。

 少女は、少年をベッドの淵へ座らせる。遠慮がちに、少年は腰をかける。

「今日はなにしてたの?」

「いつも通りよ。目隠しピアノと妄想」

 少女の目には異常があった。見えないわけではないのだが、彼女は普段から包帯を巻いて世界と完全に決別している。いまは医療も発展し、目の中にレンズを入れることで、失明の回復もできるようになっているが、少女の父の考えでは体内に医療用とはいえ、機械じみたものを入れるなどもってのほかであり、少女もそれに従っている。

 少年は、この方針については納得がいっていない。皮肉じみた少女の回答に、なにかを言おうとしたが、嫌われることを恐れて、口をつぐんだ。

 そんな様子も、吐息がわずかに変化した程度にしか感じ取れていない少女は、不思議そうに首を傾げ、少年の頬を撫でた。

「どうかしたの?疲れてる?」

 白い指が唇にひっかかる。冷たい。少年は振りほどくことなく、そのまま口を動かした。

「ううん。大丈夫。それより、僕のほうは大事な報告があるんだ」

 少女は手を膝に戻す。嫌な予感がし、そっけなく尋ねる。

「そう」

 期待した反応が得られなかった少年は、出鼻をくじかれつつも、ここまで抑えていた興奮を止められなかった。

「実はね、……二週間後のロケットに、僕も乗れることになったんだ!行けるんだよ、月に!」

 いつかこのときが来るとわかっていた。

 少女は面白くなかった。

「ここまで頑張ってきたかいがあったよ……!どんな小さな鳥も、いつかは大空に羽ばたけるんだ!」

 少年は、夢がかなった喜びをあらゆる詩的な表現で伝えてくれるが、少女には響かない。

「うん……そう、うん……うん」

 気のない相槌を打つ少女。頬杖をついて半分も耳に入れていない。

 それでも少年は、話し続けた。目に涙を浮かべならも。


 宇宙へ行くということは、地球を離れるということ。

 地球を離れるということは、この城には来られないということ。

 つまり、少女と会うことはできないということ。


 月面へ降り立った宇宙飛行士は、そのまま開発事業に加わり、住民票もムーン番地に移すこととなる。帰ってくるのは何年後か。任務によるが、平均すれば十年前後。少女には、将来有望なこの少年が、十年で帰って来られるとは思えなかった。事実、少年の受けた任務では、月面の上司に従事し、十二年間実務経験を積むこととなっていた。


 どこで話を止めればいいかわからなくなった少年は、月面でどんな仕事をするか事細かに説明していた。もし一度口を閉じてしまえば、目からシズクがこぼれてしまう。

 そのとき、少女がか細い指を、トン、と、少年の唇に当てた。

「……ねえ、あなたの夢がかなったことはとてもうれしいわ。自分のことのように。夢にまで見た夢だものね、空っぽになるまで語っていいのよ。でもね、私が聞きたいのはひとつだけ」

「…………なに?」

 悲壮そうに聞き返す少年に、少女は溜息をついた。

 まったく、こっちはこんなに幸せだというのに仕方がない。硬直した少年の耳元に、吐息が注ぎ込まれる。

「帰ってきたら、一緒に育ててくれる?」

 少年の頭の後ろに色白い腕が回り込み、


 黒カーテンが、月の明かりをさえぎった。



 少年が去った後、少女はよじれたシーツに座り込み、カーテンを開けた。

 そして、ゆっくりと包帯をとり、髪をかき上げ、空を眺める。

「…………」

 まあるいお月様に、普通の人間には見えるらしい。

 しかし、深窓の令嬢の瞳には、まったく別のものが映っていた。


『岩肌』。『建設途中の月面基地』。『旗』。『宇宙服を着た作業員』。『着陸したばかりの宇宙船』。『ごみ集積所』。『最重要基地の食堂』。『固形食の乗った皿とスプーン』。『月の石』。『誰かのペンダント』。


 少女の世界は真実を映す。

 彼女には、見えすぎるのだ。

「月は綺麗ですか?」

 ぽつりとこぼした独り言に応えるものはいない。

 穏やかな夜風が、カーテンを揺らした。



 少女の目に異常があることを最初に発見したのは、祖父であった。

 ある日、祖父は暇をしていた少女にせがまれ、遊びを提供することとなった。

 はるか昔の子ども時代、どんな感性を持っていたかをおぼえていない祖父は、古城の裏庭に放ったウサギ(アンドロイド)を猟銃(こちらは最新式のレーザー銃ではなくゴム弾を打ち出す懐古趣味の品)で撃って遊ぼうと提案した。子どもにはハードな遊びである。

 さあいくぞ、と檻からウサギを放したところ、小さな獣はだっと駆け出した。祖父は慌てて猟銃を構えるが、脚力設定をハードモードにしていたせいで、あっというまにウサギは視界から消えた。どこのしげみに入ったのかもわからなくなる高速移動であった。

 困った老人は構えた猟銃を下げ、指をくわえて立つ少女に目をやった。

『すまんな、見失った。自然に還るには時間がかかるだろうが、たまには土に鉄分をかえしてやるのも悪くない』

 言い訳をする老人を、しかし少女は不思議そうに見返した。

『……?おじいちゃん、ウサギさんなら、あそこの茂みに座ってるよ』

 ウインナーのような指でさされた茂みを祖父は見た。試しに猟銃を構えなおし、ゴム弾を売ってみると、カンっと固いものに当たる音がした。

『目がいいんだな、お前は……』

 祖父は目を丸くした。


 その後も、鳥のアンドロイドや、ドローンを相手に狩りごっこをしたが、少女はその動きを見逃すことはなかった。いくら遠くに飛ばしても、少女にはしっかりと見えているらしいのだ。

 かつて、文明から離れた奥地に住む民族は、狩りに適した性能として、はるか遠方を見通す驚異的な視力をもっていた。だが、少女の目はそれらと比較にならないほど高性能であった。

 屋根まで飛んでいったシャボン玉は割れるまでしっかり見えていたし、ヘリウムガスのつまった風船がはじける瞬間も見えていた。果ては、大気圏付近で炎に包まれたと大ニュースになったロケットすら、少女には鮮明に見えていたのだ。

 望遠鏡をはめ込んだ少女。機械化の進む時代に、まさか天然でそんな人間がうまれるとは。

 しかし、その代償に、逆に近くのものはまるっきり目に入らないという性質があった。

 なにもないところでつまずくことが多く、ドアにぶつかるのも日常茶飯事なおっちょこちょいな娘だと父親は思っていたのだが、祖父の話を聞いて納得がいった。

 祖父は、生活に不自由だからと手術を薦めたが、反機械化手術主義者の少女の父は、断固拒否した。技術が進むにつれ、逆に手の加わっていない天然のものを貴重とする価値観は、最近では特段珍しいものではなく、祖父の説得は失敗に終わった。


 祖父は亡くなる前、少女の誕生日に、天体望遠鏡をプレゼントした。父は憤慨した。皮肉に違いなかったのだ。

 しかし、祖父は少女に耳打ちした。

『お前がいつか運命を変えたくなったとき、これは役に立つはずだ。でも忘れてはいけないぞ。代わりにお前は、一生苦しむことになる』

 不穏なことを言う祖父を、少女は気味悪そうに見返した。このころにはすでに少女は包帯を巻いて視界をなくしており、祖父の顔は見られなかったが、なぜか想像のなかで、老人は悲しくも穏やかな表情をしていた。



 少年が乗るロケットの発射時間を聞いた少女は、窓際に頬杖して、来たる時間を心待ちに待っていた。あと十五分。ベッドのふちで楽しそうにはねる。

 ふと、少女は思い出したように、祖父のくれた望遠鏡を家政婦に持ってこさせた。自前の目があれば望遠鏡などいらないが、雰囲気はでる。想い人が空に向かうのを、レンズから覗く少女というのは絵になるのではないかと考えたのである。

 貰って以来、一度ものぞいたことのないレンズ部分に顔を近づける少女。すると、不思議なことになにも見えない。まだ近くにいた家政婦に聞くと、なんと筒の端は、片方はマイク、もう片方はなにかの射出機になっていることがわかった。何年目かの真実。これは望遠鏡ではないらしい。しかし、いったいなんの機械なのだろう。マイクということは通信機の類だろうか。少女は首を傾げた。

 ひとまず疑問は置いておいて、少女は再び空と向かい合った。今夜は満月、らしい。少女にとっては月面が明るいだけ。しかし、はたから見ればロマンチックが極まった舞台である。

 いまか、いまかと胸を躍らせていると、ついに、そのときは来た。


「あっ!」

 ロケットが、あがった。少女の目には、大きく拡大された機体がしっかりと映る。窓部分を探し注視すると、そこには窓に張り付き、そとを眺める少年がいた。

 思わず、少女は笑う。可愛い行動をするものだ。

 空へ昇っていく人類の英知を観測している天体マニアは各地にいたが、そのなかでもっとも胸をときめかせながら見つめていたのは、好奇心旺盛などこぞの少年ではなく、この少女に違いなかった。

 少女は少年と目があった。無論、少年自身は気づいていない。少女が少年の純粋な瞳を捉えたのだ。逃がさないよ。ずっと見ているからね。少女は執着じみた自分の感情に笑いをこらえた。


 ところで、相対性理論において、高速で動くロケット内のパイロットに流れる時間と、地球からの観測者にとっての時間は異なるとされる。光速は一定だが、時間は不変ではないのである。

 具体的には、少年が普通の速度で手を振ったとしても、地球上の少女には、それがゆっくりと手を振っている姿に見えるのである。

 少年は、窓際を離れては船内を歩き回っては、また窓際に戻ってきていた。ロケットはもう雲の向こう。その無邪気な姿を見られるのは、少女だけ。ゆっくりと動く可愛いものを観察するとは、まるでかごの中のペットを見ているようだと、少女は思った。


 少女の目には、ゆっくりと動く少年が見えた。

 少女の目には、ゆっくりと開く少年の背後のドアが見えた。

 少女の目には、ゆっくりと入ってくる青年の姿が見えた。


 青年の手には、ナイフがあった。


 刃が、少年の背中に向く。


「……!!!?」


 瞬間、少女はあらゆる可能性を考える。

 なにか船内でトラブルがあって、青年がそれを直すために工具としてナイフを持ってきた?

 果物を剥くため、ナイフを持っている?

 それとも……凶器!?ナイフは、凶器!?理由はわからないが、青年は、少年を刺そうとしている!?


 だとしたら、少年が危ない!!!


 少女はとっさに祖父からのプレゼントであった筒のマイクに目を向けた。

 もし、これが通信機器だというのなら、少年に危険を知らせられるかもしれない。

 どんな機械なのかわからない。成功するかわからない。

 それでも、少女は、衝動のままひとこと、叫んだ。



「しゃがんで!!!」


 その筒は、少女の予想通り、通信機器であり、狙い通りの効果を生んだ。


 音声情報がマイクに入力され、筒内でクラヤミ粒子にこめられ、射出される。方向はロケット、少年の脳内。

 光を超える速度で届いた情報は、少年に命令を下す。

『しゃがんで!!!』

 自然と、少年はその声に従い、しゃがんでいた。力強い命令に、からだが有無を言わせてもらえなかったのである。

 一呼吸後、なぜ自分はしゃがんでいるのだろうと首を傾げ、なにげなく頭上を見上げる少年。すると、さきほどまで自分の心臓があった場所にナイフがあった。

 驚いきつつも、冷静に少年は、攻撃者への対処を行う。

 青年の伸びきった腕を後ろに回して、抑えて、身動きを封じる。そして、ほかの船員に連絡して、応援に来てもらう。

 大勢に捕らえられた青年は、ドアの向こうに消えていった。 



 少女はあとから聞いたのだが、この青年は、少年とたびたび成績で争うことがあり、首席を奪われたことに腹を立て、襲ったのだという。青年は月の刑務所に収容された。


 …………。



 ハッピーエンド?


 いやいやバカをおっしゃる。少女のおじいさんは、彼女に何と言ってこの筒を渡した?


『代わりにお前は一生苦しむこととなる』





 クラヤミ粒子は、光速を超えた速さで進む。すなわち、観測者に見えている景色(眼球に届いた光)よりも過去に、情報を伝えることができるのである。


 そう。本当のところ。

 少女が慌てて叫んだとき。

 すでに少年はナイフに刺されて。

 真っ赤な血球が船内に溢れていた。


 少年は死んでいた。少女はたしかにそれを見た。

 だが、一方で、クラヤミ粒子からの情報を受け取った少年は生き抜いた。少女は、「それも見ていた」。



 このとき、少女の瞳には二つの結果が同時に映ったのだ。例えば、二枚の薄い紙を重ねたとき、下にしたほうの紙に描かれた線が、上の紙に浮かび上がるように。

 彼女の目の前には、二重に重なった、ふたつの世界が現れたのだった。


 一方では、少年は仲間たちに心配されながら、立って話をしていた。


 もう一方では、少年は地に伏し、青年が血に染まるナイフを吹きながら笑っていた。


 どくん、どくんと心臓の拍動が耳に鳴り響く。少女は胸を押さえて、へたりこみ、その不思議な光景に唖然としていた。


 なにが起こっているのだろう。少年は、助かったのか?あるいは、死んでしまったのか?ダブった光景の、どちらが真実なのだ?

 混乱した少女はロケットから目を離し、目をつぶった。そして、深呼吸をする。

 ……混乱しているだけ。目が疲れてしまっただけ。次に目を開ければ、元通りの世界になっている。


 そのとき、ドアをノックする音がした。気分が悪かったので、一度は入らないで、と突き放す少女であったが、慌てたような家政婦の声に、やむなく迎え入れた。


 少女は目を開くのを恐れた。もし、家政婦の顔が二重になっていたら、まだ夢から覚めていないということ。話をするように促し、耳だけ傾けることにした。


「ただいま連絡がありまして、ロケットに乗ったあの子が同乗者に襲われたそうです!『心臓を突かれ、意識を失っているそうで……』幸いけがはなく済んだようですが……」


 音は、二重に聞こえた。


 夢は、現実だった。


 額に汗を浮かべた少女は、家政婦に下がるように言った。少女の気持ちを汲み取ったつもりの家政婦は深くお辞儀をして出ていった。一人になり、少女はベッドで布団に潜り込む。


 間違いない。私はクラヤミ粒子で、過去を変えてしまったんだ。そして、ふたつの世界を作ってしまったんだ。

 なんて大変なことをしてしまったんだろう!


 そのとき、少女は、あることに気が付いてしまった。恐怖でからだが急激に冷え込んでいくのを感じる。


 二重に重なるこの世界で、果たして自分はどちらの存在なのだろうか、と。









 少女と少年は結婚した。子どもは三人生まれた。城を駆け巡る子どもたちを見守りながら歳をとっていった。しかし同時に少女は未婚のまま城にこもってもいた。家政婦に身の回りの世話を任せ、誰とも会わない生活を送った。

 あるとき、長女が窓ガラスを割って、そのまま地面に落ちて死んだ。筒を使用し、過去を変えた。喪服で涙を流す母を、長女は不思議そうに見上げた。

 家政婦が、犬を引き取ってきた。しかし、長男は犬アレルギーである。そう言って断ったら、家政婦は首を傾げた。この城に、男の子なんていませんよ。後ろでふたりの長男が走り回っていた。いつのまにか子猫も城を歩き回っていた。いつ、どちらで引き取ったのだろう。

 庭で、子猫がカラスに襲われ、片方の目玉を失った。筒を使った。しかし、目玉はふたつあった。いや、やはりひとつのままだった。次女が泣いていた。犬にかまれたそうだ。こちらにも犬はいたのだろうか。猫にドッグフードを与えてはいけない。

 船で旅行をした。クジラが潮を吹いていた。カメラに夢中で、はっとしていつのまにか家族がいない。もとから一人旅だったようだ。お土産は何人分必要か、六つも買えば十分か。

 月面の開発が進んで、ついに遊園地なんてものまでできたらしい。夫が主導したプロジェクトだ。人災で事故が起こった気もしたが起こっていない。そもそも遊園地などない。あるのは月面デパートだ。

 チューブのアイスクリームが溶けていたり、凍っていたり、そもそもソフトクリームだったり、寒冷現象で食べる気にならなかったり。

 父親が延命手術を受けたと思ったら、遺産を相続していた。家政婦が逃げた。あれ、いる。いつのまにか同じ顔が三人くらい。

 夫が死んだ。いや。いや。嫌。いや。死んだ。死んだ。どこにもいない。長女は成長して街へ下りた。次女は下りたり下りなかったり。長男はいつからいないのか覚えていない。

 子猫が増えている。同じ柄の猫が何匹も。去勢しておくべきだった。城は半分猫に乗っ取られている。たまに犬と喧嘩しているが、止めはしない。エサはちゃんとあげたかしら。場所は覚えさせたし定期的に届くから問題はないか。

 タイムマシンの開発は中止になっていた。これはどこでも。誰が止めたのか。こんなに便利なのに。

 世界はこんなにたくさんあるのに。





 老婆となった元、少女は考える。自分が観測者となったことで、別の世界が生まれたのかと。

 いや、そんな力、人間には壮大すぎる。小さな私にできたのは、見ることだけ。つまり、もとからあらゆる可能性の世界は存在していた。そのうちのいくつかを私は同時に見ているだけなのだ。

 周りの人間は言っていることがばらばらで一貫性がない。でも、私は違う。いつだって私は一人。ぶれることはない。

 月は光に照らされ様々な面を見せる。だが、その本質は変わらない。

 あなたにどう見えているかは知らないけど、少なくとも私という人間は、一重で澄ましているのよ。


 老婆は、目の周りに何重にも巻かれた包帯を解いて、安楽椅子の上で息絶えた。


 月明かりに照らされたその死に顔は、老いてなお、誰もが認める月下美人であった……。

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