第3話 多少の無茶もできる貴族令嬢です
私は刺繍道具をしまい、床にこぼれた血の後を近くにあったタオルで拭いとる。
使用人にやらせるような事だが、特に抵抗感はない。
前世でただの高校生だった私には、誰かに命令して偉ぶるほうが難しいのだから(転生前のアリシャも同じ思考だったから、これからの生活でも無理をせずに済んでありがたい)。
タオルを畳んで、室内にある椅子の上に置いておく。
疲労感を感じながらベッドに腰掛け一息ついた後、思考を続ける。
これからの行動で多少の無茶がきくようになるのは喜ばしい事だった。
私は、刺されても、切られても、叩かれても痛みを感じない。
それは、生まれつき「過度な痛みを感じない」という体質だから。
何かに触った時の手ごたえや、誰かに触れられた時の感覚はあるのだが、それ以上の……「痛み」と形容できる感覚となると、なぜか感じなくなってしまう。
ちなみに「痛みを感じない」のは、転生させてくれた神様とは別の……この世界の女神にもらった加護の効果だ。
「加護」は誰にでもあるものではないので重宝されているし、自慢の種にもなるのだが、さすがに貴族令嬢が「痛み」を感じないのは引かれるという事で、親しい者以外には話していない。
利点はあるが、欠点もあるというわけだ。
子供の頃は何か怪我をしても気が付かずに、両親や兄に思いっきり心配をかけてしまった……なんて事もある。
だが、だからこそのヤンデレ乙女ゲーム「ラブ・クライシス」の登場人物だろう。
そしてだからこそ神様は、この人物に私を転生させたのだ。
なぜなら本来ヒロインが生きていたら、この私(悪役令嬢)は「痛みを感じない」体質を存分にいかして、ヒロインを脅かしたり罠にかけたりしていたのだから。
「ラブ・クライシス」のゲームの中で、攻略対象ともどもヤンデレ気質だった悪役令嬢がヒロインをイジメるようになったきっかけは、婚約破棄だ。
友人だったヒロインに婚約者をとられ、婚約破棄されてしまったので、その恨みでヒロインに恨みをぶつけるようになる。
まあ、悪役である原作アリシャの趣味が藁人形を作ったり打ったりするような暗いものばかりなので、明るい性格のヒロインと比べられて、婚約者に婚約破棄されるのはある程度仕方ない事なのかもしれないが(ちなみに私にはそんな趣味はない)。
そういう暗めの人に対しても何も含みなく付き合っていける人も世の中にいるだろうし、個性と判じて受け入れられる人もいるだろうが、悲しいことには私はただの一般人だ。
指をさしてすすんで迫害するつもりも、レッテル貼りするつもりもないが、色々と合わない人間だとして遠ざけるだろう。
私は加護さえ特殊だが、内面はただの人間だと自負しているのだから。
そんな風につらつらと考え事をしながら、この乙女ゲーム世界での自分の部屋で情報を整理していた。
目を覚ましたベッドの上から動かずに小一時間程そうやって考えていたのだが、その試行を中断する様にキリの良い所で部屋の扉をノックされた。
「入るよ」
そう言ってこちらに気安く声をかけ、開いた扉の向こうに現れたのは私の兄。
イシュタル・ウナトゥーラだった。
兄はベッドの上にいるこちらへと近づいてくる。
「イシュタルお兄様。帰っていらしたのね。何か私に御用かしら」
そこにいるのは黒い髪の長身の男性。
無数の星のきらめきを込めたような黄の瞳を持つ、三つ年上の兄だ。
兄は、こちらを見ると優しげな表情になり口を開いた。
「お前が熱を出したと聞いてね。大丈夫かい? 心配だったんだよ」
そう言えば、記憶を思い出す前は風邪で寝込んでいたのだったと私は思い出す。
部屋の窓を見れば、もう空は明るく昼近くである事が分かる。
だから、ベッドの上で目覚めたのだ。
その事実を示すように、室内のテーブルには薬やら水の入ったコップやらが置かれている。
「私は大丈夫です。お見舞いにきて下さるなんて、わざわざありがとうございます」
私は兄に礼を言い、笑顔を作って、もう大丈夫だという事をアピールする。
兄は整った顔つきをしているが、普段は冷徹な仮面を身に着けて生活している。
多くの才能に祝福され生まれた兄は、騎士団に所属し、団長として活動している身だ。しかし、人の命を預かるその責務故にあまり感情を表に出さなくなってしまっている。
「妹を心配するのは兄として当然の事だろう?」
だが、それでも家族の前では今のように、以前のように接してくれるのが嬉しかった。