絶海の孤島にて
プロローグ
――私はいつからここにいるんだろう。
カビの匂いがたちこめる畳の上。手足の自由を奪われた状態で横たわる哀れな少女は、
まだ状況を理解できていない頭で考えた。何度かア、ア、と声を出してみようとするが、耳の奥から聞こえてくるのはヒィィー、ヒィィー、という呼吸音のみ。声が出ない理由は、少女には理解できない。
――ここは、どこなんだろう。
周囲に人の気配はない。畳は毛羽立ち、廊下とおぼしき板張りの床は埃と砂だらけだ。壁にはクモの巣がはびこっている。もう何年も人が使っていないのだろう。どこかの空き家に、自分は閉じ込められているのだと少女は確信する。
意識が途切れる前の記憶をたどってみる。そうだ。確か、学校の門を出て、しばらく友達とおしゃべりしながら帰っていた。公園でひとしきり鬼ごっこをした後、ランドセルを背負い直し、いつもの曲がり角で別れて、一人で帰宅する途中だったのだ。
なんの気なしに、カーブミラーに映る自分の姿を見たら、自分以外の影がすぐ後ろに迫っていた。あっ、と思ったときには、既に影が私の頭上で何かを振りかざしていた。
――つまり、私はものすごく危ない目に、あっているのでは。
一人で帰ってはいけない。寄り道はしてはいけない。お母さんの言いつけをきちんと守るべきだった。冷たくてかび臭い空気のなか、少女の鼻の奥がツンと痛む。早く家に帰りたい。首だけは自由に動かせるので、ゆっくりと持ち上げた。自分が今どうなっているのかを確認しなければ。そう思った矢先だった。
ギィ、と、自分のものではない足音が確かに聞こえたのだ。とっさに、少女は目を瞑り
気絶しているふりをした。目を瞑ればより鮮明に、忍び寄る足音が耳に刺さる。幻聴などではない、自分以外の誰かが、この古ぼけた空き家に確かに存在する。想像を巡らせた。
――もしかしたら、助けてくれる人なのかも。
一縷の望みにすがろうとしたとき、耳元でドサリ、と何かが落ちる音がした。ものすごく生臭いにおいが鼻先をかすめた。
――一体何を置いたの?
好奇心が、心を支配する恐怖を押しのけた。薄く瞼を開けてみた。
――私の靴、だ。く、つ?
自分の名前が書いてある黄色い通学靴。太ももからつま先にかけて切断された脚が、履いている。脚が靴を履いている?
試しに、眠っているままのふりをして、自分の脚を、もぞりと動かそうとした。
しかし、何も感触が返ってこない。曲げる、脚がない。
――あれ。私の、あし、って、
ドサリ、とさらに何かが放り出された。
自分と同い年くらいの、少女の腕だった。少女はもう、薄目を開けてはいなかった。
――ああああ、あああ。
絶叫している、つもりだった。喉から出るのは、依然変わらず、木枯らしみたいな呼吸音だけだった。起きていることは、もう足音の主にも気づかれているだろう。胴を必死にくねらせて、暴れた。その拍子に、ごろりと仰向けになってしまった。
天井には、巨大な姿見があった。
手足がなく、喉が横一文字に切断された、白い布にくるまれただけの少女の姿が映った。もう何かを持ち上げたり、野原を駆け回ったりすることも叶わない。母親を呼ぶことも、友達とおしゃべりをすることもできないという悲しみが、両の目からしとど流れた。しかし悲しみに浸る間もなく、ひんやりとした感触が自分の胸にあてがわれた。金属の刃が、吸い込まれるように自分の胴に切れ目を入れた瞬間は、痛みも何も感じなかった。
せめて足音の正体の人物を見ようと首をもたげたが、視界が真っ赤に染まった。激痛が走る。両の目から流れている涙を上書きするかのように、大量の血が頬を伝う。痛みを少しでも逃がしたくて、少女は頭を振り乱し、そのたびに生ぬるい粘液が周囲に飛び散った。
何物かの手が、胴の切れ目に手を差し入れたとき、めりめりごきごきと嫌な音がした。
少女の意識は、すでに消えかかっている。
――おかあ、さ、ん――
七月二十日。少女の魂は、四肢を失った肉体から離れてしまった。