表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/18

番外編『元旦の憂鬱、或いは新たな恋心』(前編)

 お正月、ひいては元旦は、日本人のみならず世界中の人々にとって、大きな意味を持たらす日である。

 我々日本人は年賀状などという簡易的怪奇文書を全国で十億通以上送りあうし、西洋では卵に装飾を施すという謎行動に走っている。嗚呼、一月一日よ。お前には人を狂わせる魔力でもあるのか。十二月二十四日の魔の手から逃れたと思えばすぐこれですよ。

 常日頃、平穏を尊ぶ僕としてはこの手の商業主義的なイベントの数々は好ましくないし、そもそも謙虚さを至上とする我々日本人は、たとい特別な日であろうともなんでもない顔をしていつものように過ごすべきではないだろうか。うん、そうだ。絶対、そうだ。

 つまり、僕が何を言いたいかというと――

「初詣、めんどくさい」

「新年早々、阿呆なことを言ってるんじゃありません」

 僕がコタツの中で猫のように丸くなりながらそう言うと、母さんは呆れたように天井を仰いだ。

「あんたねぇ、若い内から年寄りみたいなこと言うんじゃないの。子どもは風の子っていうじゃない。雪が降った時の犬みたいに、外で駆け回るのが自然ってものでしょうが」

「こんな寒い日に駆け回ったら、風の子じゃなくて風邪の子になっちゃうよ。そもそもさぁ。最近の子どもはインドア志向なの。家庭での遊びが不足していた昭和時代と一緒にしないで欲しいな」

「……相変わらず口だけは減らないわね。我が息子ながら最高にクズいわ」

 議論は終わったと見て、僕は視線をテレビに移したのだが、いきなり画面は真っ暗になってしまう。振り返ると、リモコンを持った母さんが仁王立ちしている。

「新年の行事は大切なのよ。これから新たな一年を迎えるに当たって、初詣に行くことはとっても重要。わかる?」

 くっそ、この強情ババアめ。自分の主張が通らないとわかればすぐにこれだ。何が何でも僕を初詣に行かせたいらしい。

 こうなってはやむを得まい。作戦変更だ。

「確かに、新年の行事は大切かもしれない……母さんの言うとおりだよ。うん」

「○○……遂にわかってもらえたのね。母さんの想いが通じたのね」

「うん。ということで、母さん。お年玉頂戴」

 母さんに向かって手を差し出す。最高にさわやかなスマイルを添えて。

「まさかくれないなんてことはないよね? だって母さんは新年の行事が大切だって言ったもんね。お年玉といえば初詣と同じくらい日本にとって馴染みの深い行事だし、これを忘れちゃ日本人じゃないと言っても過言ではないよね。ほら、母さん。お年玉。お年玉ちょうだいよ。ねぇ? ねぇ? 母さん、ねぇ?」

 リモコンを投げられた。顔面に向かって。

「ちょ、母さん! 児童虐待だよ、それは」

「うるさい! このクズ! いいから、さっさと準備なさい! 初詣に行くわよ!」

 母さんはプリプリ怒りながらそう言うと、コタツのコンセントをひっこ抜いて出て行ってしまった。こうなっては、仕方があるまい。安寧の地を出て、寒く厳しい外の世界に行かなくてはならないのだろう。

 でも、やっぱり動く気が起きなくって、未練がましく温もりが残るコタツの中でごろごろと転がっていた。

 ピンポーン、と来訪を告げるチャイムが鳴った。母さんが玄関で対応をしているのが、ドア越しに聞こえてくる。そして、リビングに向かう足音が聞こえてきて、

「あけましておめでとう、○○ちゃん」

 僕の幼馴染みであるAが入ってきた。だが、いつもの見慣れたAではない。彼女は鮮やかな紅の晴れ着を着ていて、美容院でセットしたであろう髪には、かんざしなんぞが刺さっている。

 僕は身体を起こし、上から下までジロジロと観察する。Aは照れくさそうに笑った。

「どうかな、○○ちゃん。似合うかな」

「知らないよ」

 僕は鼻を鳴らし、Aから視線を外した。正直、聞く相手が悪い。僕にとってAは、それこそ家族のようなものであり、客観的な評価など下せやしない。誰だって、綺麗に着飾った母親を見ても心を奪われたりはしないだろう。それと一緒。

「全然、似合ってないね。三十点だ」

 よく似合っているぜ。なんて言えばスマートなのだろうけど、あまのじゃくな僕にそんなことを期待するのはどだい無理な話なわけで。いつものように憎まれ口を叩いてしまう。

「三十点かぁ」

 Aは残念そうに笑った。

 その心底残念そうな表情を見て、僕にしては珍しく、ほんのちょびっとだけ良心の呵責を感じたので、

「まあ……あれだ、馬子にも衣裳というし……。それに、何より見せる相手が悪い。僕じゃなくてクラスの男子連中に見せれば絶賛の嵐だろうよ」

 僕なりのフォローのつもりだったけれど、Aにはあまり響かなかったみたいだ。彼女はニコニコと笑って、

「あのね、私も一緒に初詣に行くことになったから」

「ああ、そうなんだ。おじさんとおばさんは?」

「もちろん一緒だよ」

「そうかいそうかい。楽しんできんさい」

 大きなあくびを一つしてから、再び寝っ転がる。

「○○ちゃんは行かないの?」

「僕はパス。外、寒いしね。それにさ、大した宗教心も持たないくせに、ただ慣習に流されて初詣に行くような安易な態度はとりたかないのさ。神社と寺の区別もついていない人が多いこの世の中、生半な気持ちで参拝されたって神様も嬉しかないだろう。仮に行くにしたって、二週間くらい経ったガラガラの神社を好むね」

「じゃあ、私もその時に一緒に行こうかな」

 そう言って、Aはコタツの中にもぐりこんだ。野暮ったい晴れ着のせいで、やや窮屈そうだ。彼女の足が、太ももに当たる。

「いやいやいやいや、何を言っているんだ。僕に構わず行けばいいだろう。何のための晴れ着だよ。せっかくのおめかしなんだから、神様にお披露目してこいよ」

「でも、私は○○ちゃんと一緒がいいから」

「…………」

 嘆息。

 なんつーか……どうしていつもAはこうなのだろう。なんでも僕中心に考えているというか。僕のことをひとりじゃ何もできない、残念なヤツだとでも考えているのだろうか(否定はできない)。断言してもいい、Aは絶対に子どもを過保護でスポイルするタイプの親になる。甘々の甘やかしで精神的糖尿病になっちまいそうだ。

 ――そしてAのこういう態度が、僕にとっては一番堪える。

 着付けた晴れ着のレンタル代、美容院でのセット代、果たしておいくら費やしたのかは知らないが、それを惜しいとも思わずに全てを投げ出してしまえる、その態度。

 きっと、おじさんとおばさんは困惑顔で娘を説得するだろう。だが、こうなったAが梃子でも動かないのは当然ご承知だ。唐突な娘のワガママを、ただ受け入れる他ない。新年早々に幸先のいいスタートを切るつもりだったのに、出鼻をくじかれることになってしまう。

 僕としても、さすがにそれは忍びない。

 あー、だの、うー、だの呻きながらコタツの中をゴロゴロ転がり回った挙句、

「わかったわかった! 初詣、行くよ。僕も行けばいいんだろう!」

 そう言って立ち上がると、Aは花のようにパァっと顔を輝かして、嬉しそうに手を合わせた。

「ありがとう、○○ちゃん」

 だから何に対する感謝なんだって。


 そして、絶賛後悔中。

 僕らが向かったのは、自宅から三十分ほど車を走らせたところにある、この地域で一番有名な神社だった。満車の表記が出された駐車場の中で、幸運にも二台分の空きを見つけ、僕とAの家族は車を停めることに成功した。

 境内へと続く長い石造りの階段をのぼり、どでかい朱色の鳥居をくぐると、そこには人人人人人人人人人人人人(以下略)。文字通りの人の海。まさかここまで多いとは思わなんだ。コートを突き破る、肌を刺すような寒さも相まって、僕のテンションは急転直下。恨むぜ、一時間前の僕。

「すごい人だねぇ」

 Aはのんびりとした口調で呟く。

「ああそうだなすごい人だなもういいよお腹いっぱいだよ温かい甘酒だけ飲んで帰ろうそうだもう帰ろう」

 そう言って踵を返すと、そこには母さんが立ちはだかっていた。くっ……退路は塞がれている。なら前方へと思ったが、そこにも大量の人々。右方と左方も同様。逃げ場はない。なむさん。

 仕方あるまい。ちゃっちゃと参拝を済ませてしまおう。

 と思って拝殿を見やると、そこには長い行列が出来上がっていた。先頭から順に目で追っていくと、なんと行列は鳥居の一歩手前まで続いている。何? ここはテーマパークだったの? マスコットキャラクターは神様なのかな?

 着いて早々あの列に並ぶのは気が滅入る。それはみんなも同意見だったようで、まずはおみくじでも引こうということになった。そして僕ら一団は人波をかき分けつつ進んでいったのだが、

「あれ?」

 気付けば、僕の両親とAの両親がいなくなっている。あたりを見回しても、そこには見知らぬ大人たちしかいない。

「途中ではぐれちゃったみたいだね」

 Aだけはずっと、僕の隣を歩いていたので離れることにはならなかったみたいだ。

「この人の多さだからなぁ……」

 しかし、はぐれたからといって焦りはなかった。あらかじめ、離れ離れになった時のことを想定して、集合場所と集合時間を決めてあったからだ。お互いを探し回る必要はない。

 といっても、集合時間まではだいぶ時間があった。この中から親を探し出すのは不可能に近いしなぁ……こうなった以上はしょうがない。

「ふたりでまわるか」

「うん」

 Aは嬉しそうに頷いた。


 おみくじはまず札を引き、そこに書かれた番号の棚からくじを取り出すというシステムだった。僕の引いた札には四番と書かれている。四番ね、どれどれ……うわ、末吉だ。微妙過ぎてコメントしづらい。

『辛く厳しい道のりの中に、小さな希望を見出すべし。流れには逆らうことなく、自らの心の向かう方へと進め。なれば、よい結果が得られるだろう』

 基本は、辛くて厳しい年になるらしい。末吉らしく絶望一辺倒というわけではないが、げんなりする。以下、健康や学問など、個別分野の運勢が載っていた。

「おっ」

 並みの運勢が続く中、なぜか恋愛運だけはやたらと良かった。待ち人来たる。と、赤い字で印刷されている。

 待ち人、ねぇ。

 正直、色恋沙汰とは全く縁がない身のため、どうにも信じられない。

 僕は、まだ恋を知らなかった。

 誰かを好きになったことも、誰かに好かれたこともなかった。そして、別段それを欲したこともなかった。好きだの嫌いだので右往左往するのは馬鹿らしいという冷笑の気持ちもあったし、恋愛というのは大人の嗜好品であり、尻の青い僕にはまだ早いという気持ちもあった。

「Aはどうだった」

 と、おみくじを広げている彼女の手元をのぞき込んでみると、

「うげ……」

 そこには大凶の二文字があった。最近のおみくじはサービス精神旺盛で、大凶の数をあえて減らしているらしいので引くことは滅多にないという。それを引き当てるとは……一年のスタートをこの紙切れに託している人だったら、結構へこむ結果かもしれない。

 ちなみに僕は、ちょっと羨ましいと思ったり。だって、大凶だぜ? つまり最悪ってことだぜ? アウトローな感じがしてカッコイイじゃないか。少年の心がうずく。少なくとも、末吉なんかよりよっぽどいい。

 Aも、あまり気にしている風ではなかった。一通り目を走らせた後、黙っておみくじを折りたたみ、近くの木の枝に結んだ。僕も彼女に倣い、末吉のおみくじも併せて結んでおいた。

 さて、それでは本日のメインディッシュ、参拝へ向かうとしよう。

 僕とAは最後尾を目指して、群集の中を進んでいく。

「…………」

 その間、絶え間のない視線を感じていた。神社に来てからずっとだった。視線は僕に向けられたものではない。隣のAに向けてだ。

 普段から何かと注目を集めるやつではあるが、今日は一段とすごい。おそらく、晴れ着を着ているせいだろう。恵まれすぎた容姿との相乗効果によって、魅力が青天井になっているらしい。

 衣服というのは、魅力を引き出す補助具のようなものだ。特に、特殊な衣服であると、その効果はより増す。巫女服やナース服を着ている人が魅力的に映るのも、それに拠るところが大きい。

 今日のAは、ほのかに化粧もしているせいもあってか、やたらと大人っぽい。僕より三つは年上に見える。小学生どころか、中学生を飛び越えて高校生と言われても違和感がない。

 ほら、あそこの中学生らしき男子なんか、Aに見蕩れてしまったせいで袴姿のヤンキーとぶつかってしまい、ひと悶着起こしている。年齢の離れた中高年であってもその魅力は有効なようで、すれ違った後に「まるでお人形さんみたいな子ね」なんて声が耳に届いてくる。

 Aがこの手の視線を浴びることは日常茶飯事だ。皆一様に彼女を見て、その可憐さに感心する。

 そして――隣に立つ少年に視線を移し、不満そうな顔をするのだ。

 釣り合わない、と。

 人は、何に対しても釣り合いを求める。蝶の隣を飛ぶのは必ず蝶でなくてはならず、決して蛾であってはならない。たとえ姿かたちは似ていても、それはあくまで偽物、別種なのだから。

「どうして、アイツが」

 学校で、死ぬほど聞かされてきた言葉。知るかよ馬鹿、とはねつける強さは持っているが、こればっかりは、どうしたって慣れない。鬱積は、少しずつだが、確実に募っていく。

 Aの隣を歩くとは、こういうことなのだ。

 ひとりになりたい、と思った。


 最後尾についた。

 こうして並んでみると、日本人は本当に行列が好きなんだなぁ、と改めて思う。待つ先に得られるものよりも、待つこと自体に意味を見出しているような気がしてならない。行列のできる有名ラーメン店よりも、閑古鳥が鳴く場末の中華料理店を好む人間である僕には、到底理解できぬ価値観だ。

 なんて愚痴を早速こぼしてみたが、

「後少しだから頑張ろう、○○ちゃん」

 と、諭すような口調でAは言う。ダメな生徒を励ます先生かよ。頭をよしよしとでも撫でられでもしたら、はたき返してやったかもしれない。

 それにすし詰め状態なせいか、初詣に来てからというものの、Aとの距離がやたらと近い。離れようと努力はしているのだが、大した距離が空けられない。不快とまでは言わないが、それでもなんとなく嫌な距離感だった。思春期の少年が親族に感じる、羞恥心の入り混じった嫌悪感とでもいうべきか。いや、まだ思春期には程遠いのだけれど。

「おい、もっと離れろよな。色々と近いんだよ」

 相変わらず寄せられている視線のこともあって、僕はAの身体を手で押しのけた。だが、しばらくするとまた引っ付いている。磁石でもくっついているのかよ、おい。

「ごめんね、○○ちゃん」

 そう申し訳なさそうに言われてしまうと、僕としても強く言い返せない。忍耐力で乗り越えよう。忍耐だ、忍耐。

 僕らは牛歩の歩みで進んでいく。

 リーダーがいるわけでもないのに、人々は規律よく並んでいる。空から見れば僕も大量の豆粒の内のひとつでしかないのだろう。ここにいる人たち全員が、何かしらの願いを持っているのだと考えると、不思議な気分になった。

 果たして、神様はその願い全てをさばき切れるのだろうか。日本には八百万ほどの神様がいるらしいが、ここの神様は明らかに過剰労働だ。ブラック神社だ。神様の世界に、労働基準監督署はあるのだろうか。

「参拝イコール神様への願い事、とは限らないけどさ。初詣に来る人の大半は、神様にお願いをするために来ているわけだろう。みんな、そこまでして叶えて欲しい願いでもあるんかね」

「どうだろう。たぶん、本気で願いを叶えてもらおうと考えている人は、あまりいないんじゃないかな。朝、○○ちゃんが言ったように新年の行事として、つまり慣習として、お願いしているんだと思う」

「お願いかぁ。冷静に考えると、見えもしない神様に対してお願いするだなんて、なんとも奇妙な話だよな。単に僕が神様を信じていないからかもしれないけれど。そもそも、神様へのお願いってのは、人に対してするのと何が違うんだろうな」

 僕の疑問を受けて、Aは指を二つ立てた。

「私見になるけど、神様へのお願いには二つの形があるんだと思う」

「二つ?」

「うん。一つは受験祈願みたいに、プラスアルファを期待するタイプ。基本的には自分の実力で勝負するけど、ほんの少しだけ、神様に背中を押してもらえるようにお願いをするって感じかな。どちらかというと、成就への決意表明という意味合いの方が大きいかもしれないね」

「なるほどねぇ。つまりギャンブルみたいに、全てを運否天賦に任せてしまうわけではないってことか。あくまで自分の力で勝負するのが大前提ってわけね」

「うん。神様にはそのサポートをお願いする形だね」

「ってことは、もう一つは全てを神様に託すタイプってことか。それこそ、さっき言ったギャンブル祈願みたいに」

「賭け事への期待とは、ちょっと違うかもしれないけれど」

 と、Aは苦笑する。

「もう一つは、何がなんでも叶えたい願いを持っている人だよ。それこそ、不治の病の根治を願うような、願いがそのまま自己の全てに直結しているタイプ。か細い希望であっても、願いへの糸口になるのなら、すがりたい。そんな願い」

 拝殿が近づく。神様まで、後もう少しの位置。

「極端な話、願いを叶えてくれるのなら、その対象はなんでもいいんだよ。それこそ――」

 その時、僕は拝殿への段差に躓いてしまい、正確にはAの言葉を聞き取れなかった。でも、僕の耳が確かならば、彼女はこう言っていた。

「――たとえ、悪魔でも」


 ようやく順番が回ってきた。

 僕は作法なんかこれっぽっちも知らないので、五円玉を賽銭箱に放り込み、鈴を鳴らして柏手を打った。面倒だったので、目は瞑らなかった。我ながら不信心極まりない。

 ふところで温めていた願いの言葉を神様に託し終えたので、後続に順番を譲る。Aは熱心に祈っているようで、まだ両手を合わせていた。

 それはおそらく、絵になる光景だったのだろう。

 僕の後ろにいた老人は参拝をする前に、まるで芸術品を観賞するような目で、横にいるAを見ていた。

「何をお願いしたんだ?」

 たっぷり時間をかけて参拝していたAに訊ねてみる。

「私のお願いごとは、いつも決まっているから」

 Aが今みたいな迂遠な言い回しをする時は、あまり踏み込んで欲しくない時だ。それでも強く訊けば教えてくれただろうが(彼女の答えは大抵YESだし)、それはしなかった。大して興味はなかったし、それに、誰にだって内心の自由というものはあるだろう。

「○○ちゃんは何をお願いしたの?」

「母さんが年末に買っていた宝くじを当ててくれってお願いしといたよ。金額は一千万くらいでいいから」

 僕のあまりに俗すぎる、かつ生々しい金額設定に、Aはちょっと引いていた。うるせーやい。


 参拝も終わったので、集合場所である鳥居の下へと向かう。

「うわっ、と」

 途中、混雑のせいで前から歩いてきた中年男性とぶつかってしまい、Aの手の甲に触れた。

 僕はなんとなく、それこそ道端の草をちぎるような気持ちで、Aの手を握ってみた。募らせてきた嫌悪感の裏返しだったのかもしれない。

 反応は想像以上だった。

 Aは目を見開き、信じられないといった顔をして、僕の顔を凝視した。それは、僕の知らない表情だった。裏の裏まで知り尽くしていたと思っていた彼女の、隠れた一面。

 何よりも変化したのは、その瞳だった。黒く澄んだ宝石のような瞳が、血液が滲むように怪しく濁っていく。まるで、限界まで膨らんでいた何かが破裂して、中身が零れて出てしまったかのように。

 即座に手を離し、目を逸らす。

「なんだよ、そこまで嫌がらなくてもいいだろう。その……はぐれちゃうと思って手をつないだだけなんだからねっ! 勘違いしないでよねっ!」

 後半は冗談っぽく言って誤魔化したが、実を言うと――ほんの少しだけ怖かった。

 人が幽霊を恐れるのは何故だろうか。それは、よくわからないからだ。

 もし幽霊の存在が科学的に解明され、傾向と対策が組み立てられるようになったら、誰も幽霊を恐れない。幽霊への恐怖を担保しているのは、その神秘さにあるからだ。神秘のベールが剥がれた瞬間、幽霊はただの現象へと成り下がる。

 僕が今、Aに対して感じた恐怖も、それと同じだった。彼女が一瞬、わからなくなってしまったのだ。

 逸らした目を戻すのが怖い。だけど、Aに恐怖を感じる必要がどこにある? AはAだ。彼女のことは、僕が一番よく知っているじゃないか。大丈夫、恐れる必要は何もない。

 ゆっくりと、視線を戻す。

「どうしたの、○○ちゃん?」

 あれ?

 そこに居たのは、いつもの人畜無害な笑みを浮かべたAであった。先ほどの、異様な瞳のAはどこにもいない。

 え? なになにこれは? つまり……なんだ? 今のは、ただの僕の見間違いだったのか? いきなり手を握られて彼女が驚いちゃっただけなのを、僕が曲解してしまったのか? それとも大人びた格好のせいで、別人だと錯覚してしまったのか?

 は、はは、ははは、恥ずかしい!

 僕は頭を抱えて唸った。

 枯れ尾花を見てビビッてしまった羞恥をどう説明しましょうか。はい。そうですね、死にたくなりますね。くっ……いっそ殺せ!

 僕の悶絶などつゆ知らぬAは、優しい笑顔でそっと手を差し伸べる。

「手、つなごっか。○○ちゃん」

 彼女の白い手をまじまじと見つめていると、再び恥ずかしさが込み上げてきたので、手をつなぐ代わりに頭をぺしっとはたいてやった。

「いたい」

 Aは困り顔で頭をさすった。


 鳥居の真下まで辿り着く。親はまだ来ていなかった。手持ち無沙汰になった時間を、僕は行き交う人々を見てぼんやりと過ごす。

 この時になってようやく、新しい年が始まったのだと実感した。

 今年は、どんな年になるのだろうか。ふと考える。昨年のように、なんの変化もない単調な日々をただ積み重ねていくのだろうか。学校に行き、休日に遊び、夜に眠る。そんな日々を。

 それとも――

 Aを見やる。彼女は本殿の方を見ているようだった。僕より一歩分先にいたので、表情まではうかがえない。

 ――Aはあの時、神様に何を願ったのだろうか。

「あ」

 そういえば、まだやっていないことがあった。

 A、と僕は名前を呼びかける。

「あけましておめでとう」

 振り返ったAは、僕のよく知る、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。その笑顔を見て、これまで募らせてきた鬱積や嫌悪感が全て吹き飛んでしまった。僕とAの関係が変わるはずがない。そう確信できたからだ。

 時計を見ると、集合時間まで、まだ少しあった。このまま待ちぼうけしているのも勿体ない。一先ずはそう、この冷えた身体を温める甘酒でも、買ってきましょうかね。

 僕は和やかな気持ちで、新年の一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 秘められた感情が垣間見える瞬間ほど滾るものもないって感じ。とってもすき。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ