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第二話

 突然だが、道路の上で干からびているミミズを想像してもらいたい。夏、特に太陽がさんさんと照りつける猛暑に見られるあの光景をだ。

 誰もが一度は見たことがあるであろう、あのみじめ極まりないカラカラの死骸。それを見て、誰もがこう思ったはずだ。

 あいつら、阿呆じゃなかろうか。

 暗く湿った土の中で大人しくしていればいいものを、どうして地表へと這い出て、あまつさえ焼けたコンクリートに身を投げるのか。はっきり言って、訳がわからない。気が狂っているとしか思えない奇行である。

 さて、ここで疑問なのだが、何故ミミズはそのような投身自殺めいた真似をするのか。

 確かに、ミミズは知能面においては他の生物に比べ著しく劣っているだろう。だが、ミミズといえど本能はあるではないか。

 仮に誤って真夏の道路へと接近しても、

「おい待てよ、ここらへんちょっと熱くねえか。もしかして、これ以上進んだらヤベェんじゃねえか。俺、焼け死んじまうんじゃねえか」

 と、生まれ持った本能が慌てて警鐘を鳴らし、一命を取り留めるはずなのだ。

 我々人類はあまりに知性が発達しているため忘れがちなのだが、地球上に生きとし生けるものは皆、本能の指示によって動いている。

 そうでなければ、生物たちはもっと阿呆な行動をとっているだろうし、生態系なぞとうの昔に崩壊を迎えている。我々は皆、例に違わず本能の奴隷なのだ。

 それでは、もう少し視野を広げてみよう。

 以上の説を敷衍すると、生物はそう簡単に本能を喪失しないことがわかる。当然だ。生物にとって本能はまさに生命線と成り得るのだから。

 なのに、何故ミミズたちは愚行へと走ってしまうのか。何故ハンバーガーの包み紙のごとく自らの命をポイ捨てしてしまうのか。

 フッフッフッフ。

 人類が長らく抱えてきたこの難問を、この僕が解き明かしてしまったというわけだ。

 いやぁ、ねぇ。まったく、自分の才能が恐ろしいよ。隠された真理を容易く暴いてしまうこの才能がね。もしかしなくても、僕は科学者や探偵に向いているのかもしれない。

 さて。

 いきなりだが、この世紀の大発見とも言っても差し支えのない秘密を、今、僕は惜しみなく世に喧伝しようと思う。

 え? なんだって? 複雑怪奇極まるミミズの謎を、そんな簡単に公表してしまってもいいのかって?

 はっは。なあに、もったいないとは思わないさ。ぜんぜん思わないよ。知識の共有は、人類に与えられた共通の使命なのだから。僕も一人の知識人として、社会奉仕の精神くらいは持ち合わせている。

 えー、ゴホン。

 それでは、公表しよう。真夏のコンクリートの上で、ミミズが干からびてしまう理由を。あ、ドラムロールの準備はしといてくれよ。今、一番大事なところなんだから。

 ダラダラダラダラダラダラ、と軽快なドラムロールが響き渡る。スポットライトは四方に揺れ、やがて一点、すなわち僕のところで停止した。

 観客は息をのんでいる。ゴクリ、と生唾を飲み込む音さえ聞こえてきそうな静謐な空間の中、僕は勿体ぶるように、ゆっくり開口する。

 ――その真相とは、

「暑いからだよ!」

 勢いよくソファから立ち上がると、天に向かって咆哮した。しかし、すぐさま熱気と湿気のダブルパンチにのされてしまい、ヘナヘナとフローリングの床に倒れ込む。床はひんやりしていて気持ちよい。

 何故ミミズは焼け死ぬのか。答えなど考えるまでもなかった。

 ミミズがおかしくなったのは暑いからだ。そして、暑気の影響を受けるのは人間も同じだった。人間だってあまりに暑いと思考が鈍り、全部がどうでもよくなり、やがて本能は陽炎のように立ち消えていく……。

「そんで死んでしまうのよね……」

 冷たい床にほっぺたをくっつけ、ひとりごちる。

 夏休みに入ってから、かれこれ一週間が過ぎていた。

 その間、僕といえば級友たちと共に野球に興じたり、川釣りに出かけたり、自転車で隣町まで行ったりと順調にサマーバケーションをエンジョイしていた。

 そして、今日はたまたま何の遊びの予定も入っていおらず暇だったので、アイスキャンディーを舐めながら夏に放映される懐かしアニメを視聴していたのだが……。

 ――悲劇ってのは、いつも突然訪れる。

「うんともすんともいわないわね……」

 脚立に登って、しばらくクーラーをいじっていた母さんが遂に諦念を吐き出した。

 少し前までは異音を発しながらも健気に起動していたクーラーは、既に呼吸を止めている。そのためリビングにじわじわと熱気の魔の手が伸び始め、僕の額にもポツポツと汗の粒が浮かび始めていた。

 必然、声にも焦りが生まれるというものだ。

「ど、どうにかならないのか、母さん」

「厳しいわね。今まではゴルフクラブで叩いたりすればすぐに治ったのに、今回はピクリとも動かない。寿命だったのかしらん」

 脚立を片付けた後、母さんはクーラーを見上げてしみじみと呟く。

「思い返せば、随分と長く使ってきたからねぇ……」

 母さんは過ぎ去りしクーラーとの日々に郷愁を感じているようだが、僕はそんな悠長な真似できやしない。こちとら死活問題なのだ。

「ほ、本当に、本当にどうにもならないのかよ母さん。家族の一員といっても差し支えのない、大切なクーラーくんじゃないか」

「うん。駄目ね。コイツ、完全死亡」

 しかし、母さんはむべもなく淡々とクーラーの絶命を宣言した。

「そ、そんな、嘘だ……嘘だよ……」

 僕はフラフラと、それこそいつか見たカツオブシのようにフラフラと、クーラーの下へと歩み寄った。

 膝から崩れ落ち、床に手をつく。胸には、冷え冷えとした風が去来していた。部屋は暑いのに冷え冷えとはこれいかに。

 確かに、このクーラーは長年戦ってくれた。時折不調な気配を見せつつも、それでも殊勝に働き続けてくれた。喩えるのなら、ちょこちょこ失点しながらも最低限試合はつくってくれるベテランの先発投手である。

 そのクーラー選手の、突然の電撃引退だった。燃費の悪さを黙殺しつつ我慢を重ねて起用してきた十年目のベテラン選手は、こうも呆気なく終わってしまった。

「くっ……」

 目頭が熱くなった。油断すれば、そのまま落涙しかねないほどの深い悲しみか襲い来る。

 改めて見るクーラーは、確かにオンボロだった。プラスチックの外装は黄ばんでいるし、ところどころひび割れているし、今まで持ったのが奇跡だったのだろう。母さんも、ゴルフクラブで殴打したとか宣ってたし。

 その姿を見て、僕は思い直す。

 これ以上、このクーラーに働けというのは、些か酷ではないのか。彼は見ての通り、耐年数以上によく働いてくれた。そんな功労者に、僕は更に鞭を打とうというのか。

 ――いや、そんな非道は出来ない。

 水っぽくなった目元を拭い、僕は立ち上がる。

 いい加減、彼を休ませてやろうと決意した。

 人は、いつまでも過去に囚われていてはいけない。それでは、一生前に進めなくなる。流れる水は腐らないが、溜めた水は腐るだろう?

 ああ、そうさ。

 確かに、僕だって辛いさ。後ろ髪を引かれるさ。このままずっと、クーラーとの楽しかった記憶を抱いて、永遠に眠り続けていたいさ。

 だけど、それじゃあクーラーは喜ばないだろう。もし彼が生きていたら、きっと僕にこう言うはずさ。俺にかまわず、さっさと新しい一歩を踏み出せってね。

 オーケー。だから、僕は未来へと進み出す。

 もう蘇ることのない老兵に無言で敬礼し、心中で簡素な悼みの言葉を送りつつ。

 これで、もう十分だろう。これ以上、過去を引きずるのは野暮ってもんだぜ。

「今までありがとよ……」

 最後に呟き、僕は完全にクーラーと決別した。

 そして痛ましい表情のまま振り返り、母さんに尋ねる。

「で、新しいクーラーどうしよっか」

「買わないわよ」

「はあああああああああああああああ!?」

 絶叫する。絶叫してしまう。僕は母さんに詰め寄り、非難の声を上げた。

「ななんなな、何を考えているんだ母さん! この類まれなる猛暑を記録している今夏を、クーラー無しでどうやって乗り越えようというんだ」

「はぁ、これだから現代っ子は……。あのねぇ、母さんが子供の頃はクーラーなんかなかったのよ。それでもみんな不平を言わなかったし、暑いなりに頑張って過ごしてた」

「はぁ? いつの時代の話だよそれ。昭和の事情なんて知ったこっちゃないよ! こちとら平成生まれなんだよ。へ・い・せ・い。ドゥーユーアンダースアンド? それにねぇ、母さん。今と昔とじゃ地球の環境が全く違うってのをちゃんと理解してる? ねえ、地球温暖化って知ってる? 毎年、熱中症でどれくらいの子どもが亡くなっているのか知ってる? ねえねえ知ってる? 母さん知ってる?」

「ああ、もう、だまらっしゃい!」

 母さんは僕を突き飛ばすと、親の敵にでも相対したかのように睨みつけてくる。ふえぇ……実の息子に向ける視線じゃないよぅ……。

「グダグダと屁理屈こねくり回すんじゃありません! 今、最もナウいトレンドは節電でしょうが! ○○も今を生きる現代人なら、もっと地球に優しい高尚な考えを持ちなさい!」

「あ、僕そのスローガンって嫌いだな。その地球に優しくってやつ。テレビでもよく云うけどさ、あれほど人間本位な言葉はないよね。そもそも地球の環境はマクロな視点で見れば絶えず変化しているのであり、」

「ほら、また屁理屈こねる!」

 我慢できなくなったのか、遂に母さんはぽかりと僕の頭にゲンコツを食らわせてきた。中指を立てて威力を増しているあたり実に鬼畜。ほんと息子に容赦ないなこの人!

「とにかく、今年の夏はクーラー無しだから! これは決定事項です! 再考の予知はありません! ○○も世俗の辛さを身をもって知るいい機会になるでしょうしね」

「ぐぬぬ……」

 僕は頭を擦りつつ、母さんを睨みつける。が、もう覆す気はないのだろう。母さんはどこ吹く風で口笛なんぞ吹いている。

 しかも、その後すぐにトンデモナイ台詞を吐きやがった。

「じゃあ、母さんは三丁目の橋本さんと近くの洋食レストランでお昼ご飯食べてくるから、○○はお留守番宜しく」

「なんたる殺生!」

 と、まあこんなやりとりがあったのである。

 そして現在、僕はボイルされたカニのように顔を真っ赤にして、母さんの言付けを守り、健気にも留守番をしているというわけだ。

「あつい……」

 窓を全開にしても、風がちっとも吹かないので室内の温度は全く下がらなかった。生命の危機を感じつつある。真夏の太陽の度を越したイタズラにも限界だった。もうマジで消滅しろよ太陽。

「あ……」

 と、遂に頼みの綱だったアイスキャンディー舐め終えてしまった。

 駄目だ。唯一の清涼材を失った今、このままでは正気を失うだろう。そして、干涸らびかけたミミズのように阿呆な行動へと走り、数多くの黒歴史をつくりあげるのだ。

 いかんいかん。それだけはなんとしても避けなくてはならぬ。

 とはいっても、誰が見ても絶体絶命の状況だった。どうやって窮地を抜け出そうというのか。きっと、大半の人はここで諦めてしまうだろう。ミミズの如き運命を受け入れてしまうに違いない。

 だがしかし、

「僕には奥の手がある……!」

 にやり、と意味深な笑みを浮かべて立ち上がる。

 そう、僕には救世主がいた。地獄にたれこむ蜘蛛の糸のような、最高の救世主が!

 僕は汗水を垂らし、リビングを出て玄関へ向かった。

 救世主のもとに行くのに、さほど時間はかからない。なぜなら、そいつは我が家のお隣に住んでいるからだ。

 僕はサンダルをつっかけると、救世主、もといAの元へと向かったのだった。


「涼しい!」

 Aの部屋のドアを開けると、室内に溜まった冷気が優しく僕を包み込んだ。身体に蓄積していた熱が一気に抜け、歓喜の声を上げる。

「あー、地上の楽園とはまさに此処のことだな」

 クーラーの下を陣取り、両手を広げて冷気を浴びる。いやー、たまりませんなー。失楽園を通り越して地獄と化している我が家とは大違いだ。

 けど、少し贅沢を言わせてもらうと室内の温度は僕の火照った身体には少しぬるかった。でも、そこは我慢しよう。この温度にも時期慣れてくるだろうし、我が家の惨状を思えば文句は言えまい。僕、えらい。

 と、文明の利器の偉大さに感動していると、背後からのんびりとした声。

「それにしても、○○ちゃんも大変だね。家のクーラーが壊れちゃうなんて」

 振り向くと、麦茶の入ったグラスを持ったAが相変わらずのニコニコ顔で立っていた。今日は薄いピンク色のワンピースを着ていて、長い髪をアップにまとめていた。

「そうそう、そうなんだよ。しかも母さんはクーラーを新調しないなんて馬鹿げたこと言うしさ。僕、もう少しでミミズみたいになるとこだったんだからな!」

「ミミズ?」

 ミミズという脈絡のない単語にAは首を傾げていたが、すぐに気を取り直し、冷えたグラスを僕に差し出す。

「ありがたい」

 それを受け取って、中を満たしている液体を一気に煽った。冷たい麦茶が食道から胃に流れていく感覚に、くーっと声が漏れる。夏はやはり麦茶に限る。

「それにしてもAはいいよなー。自分の部屋にクーラーがあるなんて」

 と、一息ついてクーラーを見上げた。込み上げるのは、幼馴染みに対する純粋な羨望であった。

「だけどさぁ、ちょっと恵まれすぎじゃないか。Aみたいな現代っ子が多いから、僕たち子どもは大人にゆとり世代だと揶揄されるんだよ。そこんとこ、ちゃんとわかってる?」

 僕の訳のわからない批判に対し、Aはゴメンナサイと真面目に謝罪していた。

 しかし溜飲の下がらない僕は空になったグラスを突き出しつつ、

「あーあ。もういっそ夏休みの間はこの部屋で暮らそうかな。僕の家と違ってクーラーもあるわけだし」

「そうするといいよ」

 唐突な無茶苦茶にも、Aは穏やかな笑みを浮かべて即座に了承した。

 まあ、今のは彼女なりの冗談なのであろうが、あまり魅力的な冗談は言わないで貰いたかった。ほら、僕も本気にしちゃうからさ。冷房の効いた楽園は、留ませるのに十分すぎる魅力があった。

「ま、前向きに検討しておこう」

 それでもなんとか自制心を働かせ、己の出した提案を引っ込める。完全にお釈迦に出来ないあたりが、非常に僕らしかった。

 そっかー、とAはなんともいえない様子で相槌を打っていた。が、彼女は直ぐにいつものニコニコ顔に戻って、

「ところで、○○ちゃん。夏休みの宿題はちゃんとやってる?」

「なつやすみの、しゅくだい……?」

「そんな初めて聞く言葉みたいな反応をされても……」

 夏休みの宿題、ねぇ……。もちろん、そんなのやっていない。

 だけどさ、それも仕方のないことだろうさ。そろそろ終わりを告げるとはいえ、暦は未だ七月なのだ。七月に宿題をやるなんて酔狂な真似、誰が出来よう。いや、誰も出来まい。反語。

「私はやってるけどなぁ……」

 Aはぽつりと漏らす。

 夏休みの宿題進行スキームというものには、性格がよくあらわれる。Aは一日にやる分量を決めてさっさと終わらせてしまうタイプであり、僕は追い込まれるまでは徹底的に行動に移さないタイプであった。

 前者のほうがマイノリティなのは言うまでもあるまい。そして僕は『赤信号、皆で渡れば怖くない』の精神にのっとり、夏休みに入ってから宿題を視界にすら入れていなかった。うーむ、我ながら模範的小学生である。

 長い付き合いのAには、そんなの想定済みだったのだろう。彼女は当然のように僕に提案した。

「ならさ、夏休みの宿題、一緒にやらない? 早めに終わらせたほうが、夏休みもこれまで以上に楽しく過ごせると思うな」

「えー」

 だが、僕は明らかな不満を見せる。

 休息日の労働をキリスト教が禁じているのと同じく、七月に宿題をやるなんて愚行は、もはや神への冒涜に近いと思う。そんな不届きな行い、清廉潔白な僕に出来ようか。いや、出来まい。再び反語。

 と、そのような屁理屈をこねてみたのだが、

「うーん……」

 Aは困ったように笑ってるだけだった。諌める言葉の一つや二つあってもいいだろうに。

 彼女はいつだって僕に甘いのだ。たしなめる程度のことはするが、説教したり非難したりすることは決してない。

 今だって、それこそさっきの母さんのように「つべこべ言わずに早く宿題をやりなさい」と一喝すればいいのに、Aはあくまで勧めるだけ。

 彼女は、僕を不快にさせることを徹底的にしなかった。それは僕にとって、とても都合のよいことであり、それと同じくらい不満なことでもあった。

 彼女が折れるのは時間の問題だろう。後一言、不平を投げかけてやれば、先の発言は直ぐに撤回するに違いない。

 でも、それでいいのかしらん。

 僕は考える。

 ここで突っぱねるのは簡単だった。しかし、それだと僕は去年と同じように宿題をやらない気がした。楽なほうに流れるのは容易だ。けれど、たまには自分に鞭打つ必要もあるのではなかろうか。

「わかったよ。それじゃあ宿題とってくる」

 そして僕は結局、宿題を決行することにした。

 珍しく僕が殊勝な態度を見せたからだろう、Aは嬉しそうに両手を重ねマアと驚いていた。

「○○ちゃんは偉いね」

 と、僕の頭を撫でるために手を伸ばしてきたので、あわてて身を引いた。同年代の、しかも女子に子ども扱いされるなんて、プライド高い僕としては誠に遺憾なことである。

「頭とか撫でようとすんなって。それじゃあ宿題とってくるから」

 そう言って、僕は憮然とAの部屋を出たのだった。


 灼熱と化した自宅から宿題一式を持ち出し、再びAの部屋へと舞い戻る。

「宿題、全部持ってきちゃったの?」

「うん。どうせ家じゃやらないしな」

 僕の腕には、大量のドリルとプリント類、つまり夏休みの宿題の全てがあった。

 それらを机の上に置いて、ふぅと一息つく。中々の重量であったので、結構な量の汗をかいていた。すると、Aが用意していたタオルで僕の額を拭った。こういう心遣いは、素直にありがたいと思えた。

 僕はクッションの上に腰を下ろすと、にやりと悪どい笑みを浮かべた。

 さてさて。

 話は変わるが、僕は小悪党である。担任の教師も頭を抱えるほどの悪ガキで、よくイタズラをしては叱られていた。

 なので、誰かに「キミは真っ当に夏休みの宿題をやる生徒なのか?」と問われれば、僕はニッコリと笑って首を横に振るだろう。

 だから、こんなお願いをするのも無理からぬことで。

「それではA。終わってる分の宿題、全部写させてくれない?」

 ケッケッケ。生憎、正々堂々と宿題に臨む性分は持ち合わせちゃいない。最初から頭にあるのはAの宿題を写すことのみ!

「頼むよ。この通ーり」

 と、僕は拝むようにしてお願いしたのだが、

「それは、あまりよくないと思うな」

 いつもならノンストップで了承するAが、珍しく煮え切らない態度をとった。根が真面目な奴なので、宿題を写すという反則行為には大きな抵抗があるのだろう。

「○○ちゃん」

 諭すような口調で、Aは続ける。

「宿題をうつすだけじゃ、○○ちゃんのためにならないよ。確かにこの量の宿題をこなすのはとても大変なことだけど、その分、自力で成し遂げた時の達成感は何にも換え難いものだし、だから私は○○ちゃんのためにもきちんと宿題をやったほうが――」

「ああ、そういうのはいいから」

 が、僕はさっさと袖にする。そのての美辞麗句は、僕みたいな悪ガキにとっちゃ逆効果にしかならない。

「うー……」

 それでもAは辛抱強く諭そうとする。

「じゃあ、ほら、わからないところは私がちゃんと教えてあげるから」

「だから、いいって。マジでいいって。宿題見せろって」

「えーと。それなら、一緒に宿題を進めていこう? 二人三脚みたいな感じで。二人で一緒に解いてけば、さして疲れないよ」

「ああはいはいそっすねー。けど僕はいいや。遠慮しとくよ。ほら早く宿題プリーズ」

「うー……」

 Aは己の良心と激しい戦いを繰り広げているようで、頭を抱えてうーんうーんと唸っている。

 が、勝負は決まってるようなもんだ、と僕は楽観視。

 一見すると悩んでいるように見えるが、僕から言わせりゃ結果なんて火を見るより明らかだった。なぜなら彼女は、絶対に僕に対してNOを言わないからだ。

「……わかったよ。宿題、見せてあげる。でも、今回だけだからね」

 案の定、Aの出した答えはYESだった。

「ありがたき幸せ」

 と、僕はわざとらしいほど恭しく宿題を受け取ったのだった。

 それからは、二人で黙々と宿題をこなした。といっても、僕のほうは単に写しているだけだったけど。

 しばらくぶりに握る鉛筆の感触に違和感を抱きながら、ひたすら宿題を書き写していく。

 一見すると楽なこの作業。しかし、ことのほか骨が折れた。

 なぜなら、僕にはAの宿題を一字一句写してはならないというハンデがあるからだ。

 Aの高い学力を考慮すれば、今やってる数学のドリルはほとんど正解だろう。それを、残念学力の僕が全て書き写したらどうなるか。間違いなく、先生には反則行為を疑われる。そのため、僕は適度に答えを間違える必要に迫られた。

 なんつーか、それが疲れる。自分だったらこの問題は間違えるだろうなー、とか設問ごとにいちいち考えるのがとても億劫だった。

 たとえば、今やってる算数のドリルだったら、答えだけでなく途中式も誤らなければならない。そして、その途中式を考えるのは自分自身なのであり、必然と脳のリソースを割く必要がある。

 ですからね、その……

「ぜんぜん意味ねーじゃん!」

 僕は鉛筆を投げ出した。

 いくら答えがあるといっても、結局は自分で考えているのだから意味がない。これならいっそ自分でやったほうが楽かもしれぬ。

「休憩、休憩! 休憩しようぜ!」

 ついに脳はオーバーヒート。僕は駄々っ子みたいに喚きながら、床に寝っ転がった。

「うん、そうしようか」

 Aも同調して、規則的に動かしていた鉛筆を手放す。時計を見ると、実際、休憩するには程よい時間だった。

 それからは、まったりとした時が流れた。

 僕はクーラーの駆動音を聞きながらぼんやりと天井を眺めていて、向かいに座るAはどうやら僕の顔を見ているようだった。互いに見飽きた顔だろうに。今さら注視して何があるというのか。

 シャワシャワと、窓の向こうで蝉が騒ぎ立てている。それを聞いて、そういえば今年はまだ虫取りをしていなかったなと思い出す。明日辺り、友人連中を誘って近くの小山にでも行こうかしらん。

「Aは夏休みどっか行った?」

「うん。三日前にクラスの子たちと海に行って、山でキャンプをしたかなあ」

「おいおい、僕より充実した夏休み送ってるなぁ……」

 今日はたまたま家に居たAだが、彼女は僕と違って交友関係もたいへん広いので、夏休みも何かと忙しいのだろう。しかも話を聞く限り遊びのバラエティも富んでいるようで実に羨ましい。

(まあ、Aは僕と違って人望があるし、それに美人だしな)

 僕は身体を起こして、Aの顔を見つめた。必然と見つめ合う形になり、Aは不思議そうに小首をかしげている。が、僕は構わず彼女の顔をじろじろと見回した。

 清楚さを堂々と示す長い黒髪。照りつける太陽をものともしない、白雪のような肌。そして温厚そうな柔らかい笑み。

 たしかに、彼女は綺麗なのだろう。その事は、他でもない僕がよく知っていた。数多くの男子がAの色香にのまれ、そして打ち砕かれていくのを、彼女の横で飽きるほど見てきたのだから。

 ――お前って、Aさんとどういう関係なんだよ。

 耳にタコどころかイカでも出来るんじゃないかというくらいに訊ねられてきた質問。

 ただの幼馴染みだよ、という定型化した返答をするのが常だった。その度に彼等は胡乱な目で睨みつけてきたが、こちらとしてはこうとしか答えようがない。Aと僕の関係を一番適切に示す表現は幼馴染みしかないのだ。

(コイツのどこがいいのだろう……)

 僕はAを見ながら、ほとほと思った。

 たしかに、Aはイイヤツである。そこに関しちゃあ僕だって全面的に同意する。しかし異性としてはどうかと問われたら、首を傾げてしまう。

 先述したように、Aは美人だ。けど、僕にはその魅力がどうにも理解できなかった。たしかに顔は整っている。けど、だからどうしたって感じ。美人は三日で飽きる、というのとはまた違った感じがした。

 とどのつまり、アレだ。僕はAを自分の家族として捉えているのだ。僕にとってのAは面倒みのいい姉というか、いや、むしろ母親に近しいのかも。

 姉でも妹でもなく、母。他人と考えるのが、最も難しい立ち位置にいる存在。それが、僕にとってのAなのだろう。

 ――ねぇ、Aは僕のことをどう思っているの?

 喉元まで迫り上がった質問を、慌てて飲み込んだ。

 危ない危ない。危うく、ヘンテコな問いをしてしまうところだった。彼女が僕のことをどう思っているかなんて聞くまでもないじゃないか。Aだってきっと、僕と同じに決まっている。

 なので結局、持て余した質問は、

「宿題、多くないか?」

 という、上澄みめいた世間話に変換することにした。

 Aはキョトンと宿題の山を見つめて、

「そうかな。去年よりは少ないと思うけど」

「いやいやいやいや多いって」

 おいおい、これを少ないとか正気の沙汰じゃねーよ。真偽眼が狂っているとしか思えない。

「漢字ドリルに算数ドリル、課題図書の読書感想文にエコを題材にした水彩画に加え、地域振興がテーマの作文まで書くってんだぜ! うちの学校の教師陣はおかしいよ! スパルタ教育という名の児童虐待だよ!」

「そんな、大袈裟だよ……」

「いいや。百歩、いや万歩譲って宿題がこれだけならまだいいよ。けど、そうじゃないだろう? これに加えて自由研究なるものまであるんだぜ。ああ、ヤダヤダ。本当に嫌になるね。そんなハードタスク、僕にゃあこなせる気が――」

 と、今のやりとりの中、ひいては自分の発言に何やら引っかかる単語があった。僕はその単語を抽出し、ぼそりと口に出す。

「自由研究……」

 そうだ。僕には自由研究があったじゃないか。学校の宿題とは関係がない、個人的な夏休みの宿題が、あったじゃないか。

 僕はさっと立ち上がると、

「ねえ、A。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」

「いいよ」

 相変わらずの即答。相変わらずのYES。なるほど、やはり彼女はNOを言わないわけか。

 ようし。それなら、早速始めようじゃないか。宿題の休憩がてらには、ちょうどいいだろう。

 ――それでは、これより実験を開始する。

 問『AにNOと言わせるのは可能であるか』

 僕は少しのあいだ思案の粘土を練り込み、

「そんじゃあ、A。三回まわってワンって言ってみてくれ」

 まずは小手調べ。ボクシングでいうなら牽制のジャブといったところ。付き合いのいい友人ならふざけて承諾してくれるかもしれないという微妙なラインのお願い。

 もっと別種のお願いをされると思っていたのだろう。唐突な、しかも意味のわからない僕のお願いに、Aは疑問符を浮かべている。

「三回まわって、ワン?」

「そうそう。やってくれるかな?」

「うん、いいよ」

 けれど、Aの出した答えはYES。

 彼女はすくりと立ち上がると、その場で三回まわって、

「ワン」

 と言った。

 僕は目を丸くして、お願いを遂行するAを見た。

 ……おお。本当にやりやがった。こんな無意味で訳の分からない阿呆な行いを。なんの躊躇いもなく。なんのおふざけもなく、わりかし真剣な様子で。

 しかしながら、さすがのAも恥ずかしかったようで、赤面しつつ照れ笑いした。

「これで、いいかな?」

「ああ……うん。まあ、オッケーかな」

 しかしなぁ……先の行為の必要性を聞かずに即座にYESと言って、しかも早々にやってのけるとは。フヌン。これはどうして強敵かもしれんぞい。

「A、こっちに来てくれ」

「うん」

 お行儀よく頷き返し、トテトテと僕の近くまで歩いてくると、そのまま腰を下ろす。

 ところで、自由研究の根底を覆してしまう発言になるが、実のところAにNOと言わす方法は既にあったりする。それは、人間の限界を突くお願いだった。

 A、空を飛んでみてくれ。

 一言そう言ってしまえば終わる。言うまでもなく、人間は空を飛べないからだ。さしもの彼女だって、これにはNOと言わざるを得ない。本人がどう思おうか関係なしに、だ。

 しかし、それではつまらないだろう。試合に勝ったが勝負に負けたというやつだ。

 僕はだね、あくまで正々堂々に、面と向かってAにNOと言わせたいのだ。なので、今の内に宣言しておくが、この実証はスポーツマンシップの精神に則て行うことにする。

 では。

 先の失敗を乗り越え、僕は次の手を打つことにする。

「僕がいいって言うまで、絶対に笑うなよ」

「うん、わかった」

「はっはーん。なぁ、A。うん、って今たしかに言ったな? お前、了承したな?」

「たしかに言ったけど、それがどうかしたのかな?」

「いやいや、別にいいんだよ。どうせAはオーケーすると思ってたしね」

 ひっひっっひ。Aは当然のようにYESといったが、果たしてその承諾はいつまで効力を持つかな?

 僕はそろそろと両手を動かし、彼女の脇腹に位置づけると。

 コショコショコショコショコショコショコショコショ。

 全力でくすぐった。

 再び話は変わるが、僕はくすぐりには一家言ある身だった。いわばくすぐりのプロだ。

『ラフ・エンフォースメント』それが小学校での僕の通り名だ。縦横無尽に脇腹を駆け抜ける指捌き、その笑いの衝動から逃れられた者は過去に一人だっていない。まさに必勝ならぬ必笑の技。

 これには微笑みポーカーフェイスのAも耐えられまい。すかさず了承した願いを撤回するはずだ。

 フッ、と僕は勝利を確信し、不敵に笑って彼女を見たのだが、

 ニコニコニコニコ。

 Aの鉄仮面はこれっぽっちも剥がれていなかった。

「なん……だと……」

 戦慄した。これを喰らってもなお、表情筋をピクリとも動かさないなんて……。え、ちょ、お前マジどうなってんの? 感覚中枢死んでるの?

「……なぁ、A。くすぐったくないか?」

「スゴクくすぐったいよ」

「なら、なんで笑わないんだ?」

「? 私、笑っていると思うけど」

 うん、たしかに笑っちゃいるよ。でもさぁ……それは僕の求める笑いとはかなり違うんだよね。全然違う。僕が欲しいのは微笑ではなく爆笑なのに……。

「く、くすぐりはもう終わりだ……」

「うん。それで○○ちゃん。他に、何かして欲しいことはあるかな?」

 Aはのんびりと訊いてきたが、こっちはそれどころでなかった。ハッキリいって、絶望に打ちひしがれていた。

 伝家の宝刀であるくすぐりが効かなかったのだ。これ以上何をしろというのか。どうすれば彼女にNOを言わせられるというのか。

 あーあ。もう駄目だ。徐々に自信がなくなってきた。実験を開始してからまだ十分も経ってないってのに……。

 けれども、僕は自分でも気づかぬほど意固地になっていた。なにがなんでもAにNOを言わせたくなっていた。

 ……仕方あるまい。

 正直、あまり気は進まないが禁じ手を使うことにしよう。

「じゃあ、お願いしてもいいかな?」

「うん、いいよ」

「僕、今すごくイライラしているんだ。だから、Aのこと殴らせてくれよ。ストレス解消にさ」

 今までにない、剣呑なお願いだった。ピシリと心に軋みが走る。そこそこの小悪党を自認している僕であっても、さすがに言ってて気分が悪くなった。

 勿論、こんな願いは嘘である。ただAにNOを言わせるためだけの脅しだった。生憎と、女子を殴るのに喜びを見い出したりするような危なっかしい性癖を持ち合わせちゃいない。僕だって、そこまで堕ちちゃいない。

 ――だけど。

 絶対に、AはNOと言うだろう。僕は確信していた。

 誰だって殴られるのは嫌に決まっている。しかも、暴力の理由が僕の満足心のためという非常に理不尽なものだ。

 NOどころか、激怒する可能性だってあるな……。

 僕は内心ヒヤヒヤしつつも、自由研究の成功を確信していた。当たり前だが、こんな馬鹿げた願いにYESという輩はいまい。

 ――なのに、だ。

 なのに、対面に座るAは、いつもの柔らかい笑みを浮かべたまま、

「いいよ」

 と、了承したのだった。

「は?」

 時間が止まった。聞き間違いだと思った。けど、やっぱりAはニコニコ笑っていて、やっぱりYESと言ったのだ。

 ゾクリと、僕の背筋に怖気が走った。口をあんぐりと開け、呆けたように彼女を見つめる。

「な、なあ。僕、今殴るって言ったんだぞ」

「うん、言ったね」

「Aは、な、殴られるのとか嫌だろ?」

「嫌かな。でも、○○ちゃんがそうしたいのなら、平気だよ」

「……」

 絶句。ただただ絶句。

 なんというか、Aがすごく恐ろしくなった。なぜなら、彼女はずっと笑顔だったからだ。少しくらい顔をしかめたっていいだろうに、彼女は人形のように笑っている。笑い続けている。

 いやいや落ち着けって……僕は何を怖がっているんだ。

 相手は、あのAだぞ? 今まで、それこそ生まれてからの付き合いである幼馴染みだぞ? 

 ――僕が、Aに恐怖を抱くわけがない。

「ま、まあ嘘だけどね」

 声が上擦っているのを無視して、続ける。

「Aだって、いまのを本気に受け取ったわけじゃないだろ? それを見通してYESって言ったんだろ? なあ、そうだろ? はっは……」

 茶化すようにして訊いてみたが、彼女はニコニコと笑うだけで、何も言わなかった。まるで、自分はどちらに転んでも構わないとでも言うかのように――。

「…………」

 場の空気が、重くなっていた。というか、僕が勝手に重くしていた。自由研究が思わぬ方向に進み出し、うまく舵をとれずにいる。

 どうすればAはNOと言うのだろうか。阿呆な願いにもYES、暴力的な願いにもYES、これでは成す術がない……。

 もう、自由研究なんてやめてしまおうか。こんなことしたって一文の得にもならないし、さっさと夏休みの宿題を再開させたほうがよいのかも。

 そんな、投げやりになりつつある思考の中で、不意に閃いた。神からの啓示であるかのような、まさに天啓。逆転の一手。

 ――そうだよ、これならさしものAだって……。

「なあ、A」

「なに?」

「最後のお願い、いいか」

「最後? 別に最後じゃなくても、いくらでもお願いはきくよ?」

「いいや、これで最後だ」

 首を横に振る。今から言う願いはまさに乾坤一擲だ。逃げ道を塞ぐためにも、これ以上の願いは必要ない。全部、終わりにしてやるのだ。

 僕は今日で一番真剣な表情をつくった。機敏なAはすぐに悟ったのだろう、いつものような笑みをうかべているものの、どこか引き締まった感じがした。

 そんな張り詰めた空気の中、僕は――

「下着を見せてくれないか」

 ――と、言い放った。

「え」

 Aは目を丸くして、

「え、えええええぇぇぇぇええぇ」

 と、瞬時に顔を赤くした。そのまま尻餅をついて、ずりずりと後ずさる。

 クリティカルヒット。僕は内心、ガッツポーズをしていた。思えば今日どころか、生涯で初めて見るかもしれない微笑以外の彼女の表情であった。

 僕の下した最終作戦は、願いのベクトルを一気に変えることだった。徒労と暴力が駄目だときたら最後は恥辱。Aだってもう舌足らずな童女ではないのだ。うら若き女子にとって、これは耐え難いはず。

 こちらの予想通り、Aは口元を震わせ、ひたすら驚いていた。前例に無い願いだったからだろう。それだけに、効果は抜群だった。

 しかし、この作戦には思わぬ副作用があったりする。こちらにもダメージが跳ね返ってくることだ。

 僕は、Aとこの手のいやらしい話をしたことが一度もなかった。なので僕自身、結構抵抗があったりする。だが今は自由研究のため私心は捨てるべきだ。

「うー……」

 Aは顔を赤らめて、小さく呻いている。それでもお願いを聞こうという意志はあるのだろう。震える手でワンピースの裾を掴んでいた。

 部屋の空気が変異していた。

 色で喩えるなら、先ほどまでは暖色系、そして今は過激色。小学生にはあまり吸い慣れない、息の詰まりそうな空気であった。

 もう、ここらで止めておこう。素直にそう思った。Aの反応を鑑みるに、どうせ彼女はYESと言うまい。自由研究は、無事終了したのだ。それに、なにより僕自身がキツかった。

 だからAにお願いの取り消しを申し上げようとしたのだが、

「……○○ちゃんは、その……私のなんかを、見たいの?」

 蚊の鳴くような声で、Aが尋ねてきた。

「え?」

 まさか彼女がNOと言わずに話を進めるとは思っていなかった。先のお願いが決定打だと思っていたので面食らってしまった。頭の中は絡まったゲームのアダプターみたいにグチャグチャしていて、正常な判断が下せない。

 いや、別に見たかねーよ。

 一言。たった一言そういえばよかったのに。僕は頭がおかしくなっていたのだ。

 だから、僕は脳の処理が追いつかぬ内に、とりあえず頷いてしまった。

「……」

 そして、Aは幾らか逡巡した後、顔を真っ赤にして、勿論彼女自身にそんな気はないのだろうが、焦らすようにじわじわと、ワンピースをたくし上げていく。

「これで、いい……?」

 何度も述べた通り、僕は小悪党なのである。なので、スカートめくりなぞは朝飯前と豪語できる。

 だが、Aに対してはスカートめくりを一度だってしたことがなかった。それは、幼馴染みからくる特有の親愛というか、たとえ冗談でも、僕はAをそういう対象として見れないからだった。なので、彼女の下着を見るのはこれが初めてになる。

 白をベースにしたシンプルなデザイン。しかし細かいところに意匠を凝らしているようで、よく見ると精巧な模様が縫われているのが見て取れた。同年代の女子よりは、少し大人びた下着。

 瞬間。

 僕の内奥から途方もないほどの嫌悪感が湧き上がる。親族に対して異性を感じたことによる嫌悪感なのだろうか。それとも……いや、とにかく、なんというか、ものすっごく――

「もういいから」

 ――気持ち悪い。

 自分でも驚くくらいに、酷薄な声が出た。Aから目を逸らし、舌打ちをひとつ交える。

 この瞬間、僕とAはどうしようもないほど違ってしまった気がした。今までの、気の置けない幼馴染みという枠組みから外れてしまった気がしたのだ。

 我ながら身勝手ではあるが、こんなお願いしなきゃよかったと、今さら後悔の念に襲われた。

「あの、○○ちゃん……?」

 指先を弄りながら、モジモジとした様子でAが訊いてくる。そのいじらしい態度すら、今は煩わしい。

「○○ちゃんは、なんで私の下着なんて見たいと思ったの?」

「んだよ。どうして、そんなこと訊くんだよ」

「えっと、その……だって、○○ちゃん、今までそういうこと、言わなかったから」

「いいから。別に見たくなかったから。さっきのだって、ただの冗談だから。なんだかAは真に受けちゃったみたいだけど」

 これ以上、彼女と会話をしたくなかった。今は一刻でも早く、この場から去りたかった。

「僕、もう行くから」

 そう言って立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。しかしAは「待って」と慌てた様子で僕を引き止めた。

「しゅ、宿題は?」

「次回に持ち越す」

「家、クーラー壊れてて暑いんじゃないの? 日が落ちて涼しくなるまで、私の部屋にいたほうがいいよ」

「別に家に帰るわけじゃない。これから街のほうをブラブラするつもりだから」

「そ、それなら、私も一緒に……」

「一人で行きたいんだよ。察しろよ」

「…………」

 重い空気。深海にでも放り込められたような……。うわ、なんだ此処。気圧がおかしいって。すごい息苦しい。あー。早くこっから出たい。

「……っ……」

 Aがボソボソと何か言っていたが、うまく聞き取れない。だから訊いた。

「なんだよ」

「ごめんなさい」

 突然、Aは謝った。身体を九十度に曲げて、礼儀正しく。

「どうして謝る」

「だって、私、○○ちゃんを怒らせちゃったみたいだから」

 身を起こしたAは、見ていて可哀相になるほど落ち込んでいた。瞳に涙を溜めて、震える唇を引き結んでいる。

 いつもの僕なら、きっと冗談でもいって彼女を笑かしていただろう。その沈んだ雰囲気を文字通り雲散霧消させていただろう。そして、いつもの幼馴染みの関係に戻っていたはずだ。

 ――だけど、今の僕は、そんなAを気持ち悪いとしか感じなかった。

「じゃあ、僕、本当に行くから。また――」

 ――また今度、とは結局いえずに、僕は黙って彼女の部屋を出たのだった。自己嫌悪と、Aへの嫌悪感を抱えながら。

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