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第十三話

「提案がある」

 昼食を食べ終え、片付けも一段落したタイミングを狙って、僕はごく自然な動作の延長でその言葉を口にした。

 できるだけ気軽なトーンで、軽口のついでのような空気感を演出したつもりだったけど、どうしても声の端っこに硬さが残ってしまった。自分でも、それがわかってしまう。

 けれど、こういう言い出しづらい話ってやつは、勢いに任せて切り出すのが一番だ。ためらったり、タイミングを計りすぎると、言葉が喉元でひっかかったまま出てこなくなる。そして、そのまま何も起こらないまま終わってしまうのが関の山。

 こういう場面、決まって思い出すのは、かつての父さんの言葉だった。

「いいか、億劫な仕事ほど先に済ませるんだぞ。その手の嫌なタスクってのは、時間が経てば経つほど、厄介な爆弾に育っていくからな……」

 そう言って、父さんは背中を丸めて嘆いていたっけ。社会という荒波で何十年も揉まれてきた父の言葉には、やっぱりそれなりの重みがあった。

 ……え、夏休みの宿題? いや、あれは先延ばしにしていいんだよ。いざとなれば虎の巻に従って気合いでねじ伏せればいいんだから。うん。

「夏期講習の講師、やってみないか?」

 午前中から胸の内で何度も繰り返し、口の中で転がしてきたそのフレーズをついに発声した。

 が。

 反応は、なかった。

 いや、正確に言うと、無だった。

 サユリは一切の動作を見せず、表情にも変化がなく、まばたきすらしないで、呼吸しているかどうかを疑いたくなるほどの、沈黙の彫像と化していた。

「…………」

 さすがに、鼻白んでしまう。

 もともと期待していたわけじゃない。「ははっ、ありがたく拝命いたします!」と即答されるような、そんな都合のいい展開はハナから夢にも思っていない。でも、まさか、ここまでのゼロリアクションとは。

 まるで、静まり返った湖のほとりで、ポチャンと小石を投げ入れたのに、波紋一つ立たなかったような──そんな不可思議な、戸惑いの感覚に襲われる。

「お前さんも気づいていると思うけどさ、この夏期講習って、教え役が圧倒的に足りていないんだ」

 声のトーンをやや真剣なものに変えて、続ける。

「下級生たちは次々と質問を投げかけてくる。でも、丁寧に説明しようとすればするほど、ジャージ先生と近藤くんの二馬力じゃ手が回らなくなる。教える側もへとへとで、かつ交代要員もいないから、まさに悪質なブラック企業状態。講師陣だけじゃなくって、参加する生徒たちだって満足な講習を受けられていないし、ウィンウィンならぬルーズルーズだよ」

 話しながら、ビオトープの方を一瞬だけ見た。

 水面がゆらゆらと揺れていたが、この暑熱のせいか、いるはずの生き物の気配が全く見られず、不気味なほどの静けさを保っている。あそこに棲んでいるはずのメダカやドジョウは、何処に消えたのだろうか。

「さっき、僕に勉強を教えてくれたよな? あれ、すごくわかりやすかったよ。説明が的確だったし、要点がスッと入ってきた。この僕でも理解できるくらいなんだから、講師としては百点満点だと思うぜ。だからさ、ここはみんなを助けると思って、一肌脱いでくれないか?」

 連続でジャブを打ってみるが、思ったより手応えがない。いや、手応えどころか、まるで暖簾に向かってパンチを繰り出しているような格好だった。

 サユリはこちらには視線すら向けず、ぼんやりとどこかを見ている。僕の言葉が空気の振動としては届いていても、それを意味のある情報として処理する気がない、とでも言うかのようだった。

「これは、サユリにとってもメリットがある話だ。学校のみんなは、不必要にお前さんを怖がっていて、陰で氷の女王だなんて呼んだりしているが、この夏期講習で講師役を勤め切れば、その誤った印象だって変わるかもしれないぞ。一石二鳥!」

 ちょっと力み過ぎているのを自覚しつつ、懇願と説得、その中間のようなトーンで、無理やり話をまとめにかかるが──それでも、ダメだった。からっきし、手応えがなかった。

 こちらがどんな言葉を選んでも、どんな順番で差し出しても、すべて無意味。

 僕の声は、目に見えないガラスの壁に阻まれて、耳に届く前に弾かれてしまっている。心の奥に響くこともなく、表面で軽く跳ねただけで消えてしまう。

 あのビオトープと同じだ。

 生き物たちのざわめきが完全に消えたような、不気味な静けさ。水面は澄み切っているのに、底からは何の気配も立ち上らない。風が吹いても、水草は揺れず、虫の羽音も聞こえない。生命を感じさせるはずのざわめきが、跡形もなく失われている。

 最初から、サユリは『沈黙』という形で答えを出していた。

 その事実に、遅ればせながら辿り着いた。

「…………」

 僕は、ほんの少しだけ考え込む。

 いつもなら、こんな風に思考の海に潜るなんてことはしない。どちらかと言えば、出たとこ勝負の人生を信条にしているし、何かあってもケセラセラの精神で乗り切ってきた。だが、目の前で微動だにせず佇むサユリの存在が、そんな僕の思考回路に、妙なひっかかりを与えてきた。

 彼女の行動原理は、一体どうなっているのだろうか。

 ほんの数十分前には、あんなに丁寧に、そして的確に僕に勉強を教えてくれた。なのに、今はまるで壁ができたよう頑なな態度を貫いている。

 温かさと冷たさ。

 その両極端の切り替えが鮮やかすぎるので、こちらの理解が追いつかない。

 この落差には、何かしらのルールが存在するはずだ。

 一貫性があるようで、ないようで、それでも確かに、彼女なりの判断基準がどこかに存在している。そう思えてならない。

 気分によって、与えるか与えないかを決めている?

 まあ、単純にそう考えることもできる。でも、それならそれで、もっと感情的な揺れが見えてもいいはずだ。たとえば、表情に苛立ちが浮かぶとか、ため息がもれるとか、声のトーンが変わるとか。けれど、サユリにはそれがまるでない。

 いつだって、静謐で、淡々としていて、揺らがない。

 だからこそ、僕は思う。

 彼女は、その時その時の気分で動いているわけじゃない。もっと根の深い、冷静な判断基準がある。その基準に照らし合わせて、YESかNOかを選択しているのだ。

 問題なのは、その基準の中身。

 何がオーケーで、何がアウトなのか。その線引きは、外から見ただけではまるでわからない。きっと僕が今、提案した『夏期講習の講師役』は、そのラインを超えてしまっているのだろう。

 でも、僕にはそれがわからない。

 いっそ、基準そのものを揺さぶってみたら、何かが変わるんじゃないか? そんなことまで考え始めたところで、

「……ふっ」

 気がつけば、唇の端がゆるんでいた。笑おうだなんて思っていなかったのに、自然と、というより、半ば呆れたような、脱力の混じった笑いが漏れていた。

 気付けば、肩の力もごっそり抜けている。緊張の糸がぷつりと切れてしまったみたいだ。

 まるで誰かに「らしくないぜ」と背中を軽く叩かれたような気分だった。

 ご指摘のとおり、非常に僕らしくなかった。

 はてはて、この小童めは心理学者か? それとも探偵か? そんな大層な役目を担えるほどの器のある人間なのかい?

 違う。

 断じて、違う。

 僕は、誰かの心の迷宮に足を踏み入れ、秘密の扉を開けられるような繊細で聡明な人間じゃない。ただの小僧っ子であり、ましてや他人の気持ちを慮る優しさなんて持ち合わせちゃいない。

 にもかかわらず、さっきの僕の言葉ときたら!

 思い返せば返すほど、あまりにも表面的で、上滑りしていて、自分で自分が恥ずかしくなってくる。言葉のひとつひとつが漏れなく薄っぺらく、思わず耳を塞ぎたくなるような軽やかさだった。

 みんなが困っているから、講師役を勤めるべきだ?

 講師役を勤めれば、悪評が晴れるかもしれないだ?

 ケッ、どれもこれも、どこかの誰でも口にできそうな、都合のいい建前ばかりじゃないか。いかにも正論らしく聞こえる言葉を並べ立てて、それでサユリの心を動かそうとした浅はかさが恥ずかしい。

 要するに、あの言葉たちはすべて、借り物だったのだ。

 体裁を整えるためだけの、見せかけの言葉。本心から湧き出たものではなく、世間受けする理由を探してパッチワークのように貼り合わせただけの、空虚なセリフ。

 僕が本当に言いたかったことは、そんな立派なことじゃない。

 もっとずっと、自分勝手で、あつかましく、恥ずかしいほどのエゴ。

 そうじゃないのか?

 呼吸が乱れていたことに気づいて、少し深く息を吸って、腹の底に溜めてから、ゆっくりと吐き出す。気持ちを整えるための、ささやかな儀式のようなものだった。

 ようやく『公明正大』という分厚い着ぐるみを脱げた気がする。

 どうせ、無理を承知で頼もうとしているんだ。だったらせめて、言葉くらい、自前のもので勝負したい。

「今のは、全部なしで」

 自分でも驚くくらい、はっきりとした声音だった。ぶれない、迷いのない、まっすぐな発音。

 サユリのまなざしが、ほんの少しだけこちらに向いた気がした。小さな反応だけど、僕の言葉がようやく届いた証拠のような気がして、胸の内が少し晴れやかになる。

「僕が、そうして欲しいと思っているんだ」

 そう口にした途端、これまで幾重にも覆い隠してきた理屈や建前が、あまりにもあっけなく崩れていく。そして、後に残ったのは驚くほど小さな、しかし確かに熱を帯びた本音だった。

 嗚呼、なんて、はた迷惑な話だろうか。

 我ながら呆れてしまうが、どうしようもなく事実なのだからしょうがない。

 頭の中でイメージされるのは、一枚の絵だった。

 それは広大な美術館の、誰も足を踏み入れないような奥の部屋に、ひっそりと飾られている荘厳な絵画。

 静寂に包まれ、人気もない空間で、重々しい額縁に収められたその作品は、異様な存在感を放っている。

 その『氷の女王』と銘打たれた絵画は、確かに傑作だった。

 構図も色使いも完璧で、細部に至るまで妥協のない筆致が施されている。見る者を圧倒するような気迫と緊張感をまとい、まるで一点の曇りも許されない、非の打ちどころのない完成された芸術──。

 でも、僕はその絵が好きじゃなかった。

 否、それどころか、どうしようもなく、嫌いだった。

 なぜなら、その絵の完成度が高ければ高いほど、そこに感じる冷たさが強くなり、温かみが紛れ込む余地すらなくなってしまうから。

 冷たくて、美しくて、完璧で、誰も近づけようとしない。

 きっと、それは彼女自身が望んでそうなった結果だと理解はしている。

 だけど、そんな絵は見たくなかった。

 たとえ芸術的価値があったとしても、誰かの記憶に永遠に残る作品だったとしても、僕はそんな冷たい名作なんかよりも、不完全で、歪であっとしても、人の温もりを感じる絵の方がずっと好きなんだ。

 だからこそ、サユリがこのまま『氷の女王』として完成してしまう未来が、どうしても我慢ならなかった。

「サユリが、どう思っているかだなんて関係ない」

 口から自然に零れ出た言葉。

「夏期講習に参加しているみんなが嫌がったとしても関係ない」

 そして、自分自身に向けた告白。

「僕が、やって欲しいんだ」

 誰のためでもない、純然たるワガママ。

 義理も、善意も、正義感も関係ない。ただ、僕がそうして欲しいと強く思っている。

 それがすべてだった。

 絵の具をぶちまけて、完璧に仕上がったキャンバスを台無しにしようとする悪ガキの如く。

「だから、やれ」

 僕の一方的な命令を叩きつけた瞬間、サユリの領域──人の心の境界線に、無遠慮に足を踏み入れた時の、独特の手応えがあった。

 それは、元旦のフラワーガーデンで相まみえて以来のことであった。

 あの時のサユリは、僕の強引な侵入に対して、即座に牙を剥いた。赤色の憤怒を凝縮した眼差しで射抜き、わずかな隙も許さない鋭さをまとった敵意を、容赦なく突き付けてきた。その冷たさは、威嚇するためのものではなく、外敵を排除するための歴とした武器でもあった。

 だから、今回も当然、その反撃を予期していた。

 いや、予期というよりも、むしろそうあって欲しいという期待さえ抱いていた。

 判を押したような無反応に比べれば、怒りや憎しみのほうがずっといい。

 少なくとも、それは生きた感情だ。

 互いの感情が激突するならば、少なくとも一方通行にはならない。これまで一方的にぶつけてきた想いが、初めて相手の想いと交わることになる。

 端的に言えば、ケンカだ。

 ケンカってのは結局、同じステージに立たなければ起こり得ない。どちらかが上でも、下でも駄目だ。

 上から見下ろしての叱責や、下からの卑屈な懇願では成立しない。目線の高さが一緒になって、吐く息がぶつかる距離にまで近づき、初めてそこに火花が散る。

 そうすれば、何かしらの化学反応が生じるかもしれない。火の消えかかっているロウソクが再度、勢いを取り戻すかもしれない。

 そんな、危うくも愚かしい期待を抱いていたのだが──

「わかった」

 ──間髪入れずに返ってきたのは、あまりにも簡潔すぎる四文字。ほんの数秒の逡巡すら見せず、息を吐くように自然に告げられた承諾の言葉だった。

「へ……?」

 間の抜けた声が、脳を経由することなく口から漏れ出る。

 これから始まるはずだった決戦の舞台が、唐突に崩れ去ってしまった。

 本来ならば、ここからが第二フェイズ──最終決戦の幕開け。あらゆる反論や拒絶を想定して備え、全力で挑むべき場面のはずだった。

 なのに、その昂ぶりは針で風船を突いたように、あっさりと萎んでしまう。いや、破裂すらなく、ただ音もなく萎んでいく。

 ……え、マジで?

 こんな簡単にクリアできちゃっていいの?

 全身全霊の力を込めてでぶつかっていったはずの壁が、幻のように瞬時に消えてしまって、そのまま空っぽの空間に突き抜けたような感覚。

 困難だと思っていた案件があっけないほどスパッと解決してしまうと、人間というのは不思議なもので、達成感よりもまず疑いのほうが先に来るらしい。

 何か裏があるんじゃないか。

 そんな漠然とした不安が、胸中で膨らんでいく。

 ぶっちゃけてしまえば、サユリが承諾する未来なんて、これっぽっちも想定していなかった。

 むしろ、どれだけ強引に迫ったところで、彼女は迷いなく拒絶するのだと確信していた。

 これは勝率皆無の、自己満足のための特攻。

 拒絶されることで、むしろ安心を得る──そんな矛盾を抱えた試み。

 それはある意味、敗北することを前提としての戦いであり、その敗北まで含めてのシナリオだった。

 だが現実は、出来上がったシナリオを無視して別の道を進み始める。

 だからこそ、彼女が首を縦に振ったという事実を、すぐに飲み込むことができなかった。

 疑念を振り払うために、サユリの表情をうかがうと、

「…………」

 彼女は、唇を閉じたまま、ゆっくりと二回ほど瞬きをした。

 それだけの仕草だったけれど、妙な間があった。

 処理落ちしたゲームのように、わずかに時間が引き延ばされたような、不自然なズレ。

 めちゃくちゃチープなたとえになるが、早押しクイズで答えがわかっていないのに反射的にボタンを押してしまった直後の「あ、やらかした」と悟るような、刹那の空白。

 それとよく似た不協和音が紛れ込んでいた。

 ……もしかして。

 僕の思い違いでなければ、サユリはこの提案を受け入れるつもりはなかったのではないか。

 それなのに、言葉が先に出てしまった。「わかった」という、その短い一言が、まるで彼女の意志とは別のところからまろび出たような、そんな印象すら受けた。

 だけど、サユリは表情を崩していない。

 依然として、背筋はまっすぐに保たれているし、光を吸い込むように鈍くきらめくショートボブの銀髪も、一本の乱れもなく頬に沿って流れている。

 ……僕の思い違いなのか?

 あの理知的で、冷静沈着で、どんな状況でも感情に流されず、常に理路整然と物事を判断するサユリが、言葉を選び損ねるだなんて、そんな凡庸な失敗を犯すだろうか?

 あり得ない。

 あり得ない、はず。

 しかし、いずれにせよ、僕はアクションを起こすべきだった。

「はいはいはいはい! 今、たしかに言ったかんな! わかったって言ったかんな! 今更なしだなんて言うなよ!」

 己の声で現実を固定化するかの如く、勢いにまかせて、早口でまくし立てる。後になって「そんなこと言いましたっけ?」みたいな顔をされても困るので、早急に既成事実を作らなければならない。

「このジェンダーフリー社会においては、男子のみならず、女子においても二言は無しとなる! ということで、はい決定! これ決定!」

 もし、僕が裁判官だったら早期終結のために「閉廷! 閉廷!」と叫びながらハンマーでバンバン板を叩いている場面だった。

「そうだ、念のために一筆したためてもらおう。サユリ、印鑑は持っているか? え、持ってないって? 実印じゃなくて、認印でもいいんだぞ? チッ……それなら、拇印でもいいか……いや、そもそも朱肉がないな……というか、紙とペンもない。ぐぬぬ……」

 もし、この場に近藤くんがいたら、僕の行動にドン引きしていただろう。「どうして約束の仕方がそんなに生々しいんですか……」というツッコミが、幻聴のように聞こえてくる。

 っで、でもさ! 言った言わないの水掛け論を防ぐためにはしっかり書面にしたためないと! 大人だって、みんなそれで揉めているんでしょ? なら、僕ら子どもは同じ轍を踏まないためにだな……と、エア近藤くんに対して弁明。

 しかし、ここで時間をかけすぎては本末転倒。小考の末、サユリに向かって小指を突き立てる。

「本来なら、しっかりとした念書を書いてもらうところだが、今回は言質をとったこともあるし、これで済ます。ほら、サユリも小指を出して」

 彼女は反論することなく、静かに、白く細い小指を差し出す。

 その動作は、演算を終えた機械が淡々とプログラムを実行するような緩慢さを帯びていた。まるで「僕にやれと言われたからやるだけ」という無機質な反応。そこには自発性も積極性も、一片もない。

 その指を逃さないように、強引に絡め取った。細い指先からひんやりとした温度が伝わってくる。

「約束だ」

 一呼吸、間を置いてから、さらに念を押す。

「絶対に、夏期講習の講師をやり遂げろよ。途中で投げ出したり、諦めたりするな。わかったな?」

 小指は、まだ絡んだまま。

「世間一般では、針を千本飲ませるのがスタンダードだが、僕は優しいからな。そんな残酷なこたぁしないよ。でも、その代わり、嘘をついたら、ひとつだけ、なんでも言うことをきいてもらう。それでいいな?」

 僕から視線を外さずに、サユリは小さく首肯する。

 ……だからさ、そんなにあっさり了承しちゃっていいの?

 マジで、なんでもだぞ? 金額を書いていない小切手とか要求しちゃうかもしれないんだぞ? なんか、かえって約束を破って欲しくなってきたような……。

 って、そんなこと邪な考えをしちゃダメなんだって。

「指切った」

 そう告げるとともに、繋いでいた指先を切り離す。

 瞬間、サユリの小指は、糸が切れた人形の腕のように、だらりと宙に垂れ下がった。そこには、つい数秒前まで確かに存在していた体温も、互いに交わした約束の余韻も残っていない。ただ無機質に揺れるだけの、頼りない指先があるだけだった。

 ……うーむ。

 彼女の性格からして、軽々しく態度を翻す真似はしないと思うが、ほんとに大丈夫なのだろうか?

 再度、視線を正面に滑らせる。

 レジャーシートの上に座るサユリは、脚を投げ出すこともなく、両手をきちんと膝の上に添えている。その所作は、まるで茶会の席に臨む貴婦人のように整然としていた。

 けれど、その顔に貼りついているはずの鉄仮面は、今日に限っては、わずかに輪郭を失っているように見受けられた。蜃気楼のような曖昧な揺らぎを纏っている。

「……サユリ?」

 名前を呼んでみるが、返事はなかった。

 いつの間にやら白昼夢に囚われてしまった彼女を引き戻すために、今度は少し声を張る。

「そろそろ昼休みも終わる頃だし、教室に戻ろうぜ」

 事実、中庭にそびえ立つ大時計の長針と短針は、昼休みが終わりかけていることを告げていた。

 が、サユリは一向に動く気配を見せなかった。

 普段なら、午後の講習が始まる鳴る前にさっさと自席へ戻っているというのに、今日は記念樹の下から一歩も動こうとしない。口元に手を添えて、まるで何か難解な数式を解いているかのような真剣な面持ちで、じっと何かを考え込んでいる。

 こんな様子は、ここ最近では見たことがない。

 無関心かつ無反応──それが、僕が知っている最近のサユリだったはずだ。感情の起伏を見せることもなく、ただ粛々と日々を過ごす彼女。だが、今こうして立ち止まり、思索に耽っている。

 僕は、果たしてそれを喜ぶべきなのだろうか。

 彼女が何かに心を動かされているのだとしたら、それはきっと良いことなのかもしれない。けれど、どうしてだろう。僕の心は、晴れやかになるどころか、逆に落ち着きを失っていく。

 風が吹いた。

 葉のざわめきが耳に心地よく響くはずなのに、今日は妙に不穏に感じた。どこか、心の奥を揺さぶるような、そんな真夏の風だった。

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― 新着の感想 ―
更新本当にありがとうございます!どうなる…!?どうなるんだよ…!?
うおー!首を長くして更新待ってたぜ! こっ、これはデレなのかい!?サユリのデレなのかい!!?? まあ、何にしても、つい口から了承の言葉が出ちゃって驚いてるサユリめちゃ可愛い
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