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第十ニ話

「驚きました」

 昼休み。

 漢塾(おとこじゅく)を始めるため、二人で空き教室に足を踏み入れた途端、近藤くんが少し興奮気味に言葉を発した。

 その声には、驚きと興味、そして信じられないものを目撃したかのような戸惑いがにじんでいる。

「誰かと言葉を交わすことすら(まれ)なのに、まさか勉強まで教えてくれるだなんて。いやぁ、本当に驚きましたよ」

 僕も同感だった。

 あのサユリが、誰かに、何かを教える。

 少なくとも、僕の知る限り、そんな場面に遭遇したことはなかった。

 不要な言葉は極限まで削ぎ落とす。余計な交流を徹底的に避ける。

 平生(へいぜい)の彼女のスタンスを考慮すれば、それも当然かもしれない。

 それだけに、今日の出来事は周囲にかなりの衝撃を与えたらしく、教えを受けている間、教室中の視線が僕たちの席へと集中しているのを感じていた。おそらく、サバンナのど真ん中でライオンとシマウマが仲良く肩を並べて水を飲んでいるような光景にでも見えたのだろう。

 特にジャージ先生の反応は誰よりも顕著(けんちょ)で、僕たちのやり取りを遠目に見つつ、そわそわと落ち着かない様子で教室を行ったり来たりしていた。

 何かあったら駆けつける気満々なのか、「大丈夫か!? 何か困ったことはないか!?」といった風の視線を向けてきたのだが、その熱量がすさまじかった。

 たとえるなら、真夏の直射日光レベル。

 僕の右頬に突き刺さりっぱなしのその眼差しは、もはや物理的な熱を持っているように感じられるほどで、下手すりゃ火傷するくらいだったよ。

「でも、もう今年は喋らんかもしれんぞ」

 今日の講義で、サユリの一年分の発声文字数を軽く超えてしまった気がする。

 普段は単語単位の返答すらまともに期待できないのに、今日はそれなりに文章を紡いでいたので、もう今年の『年間発話許容量』は使い果たされたのではないか。そんな気すらしてくる。

「ガラスのエースに無理やり完投させてしまったようなもんだしな……今年いっぱい、いや、もしかしたら来年まで沈黙を貫かれるかもしれないぞ。僕は監督失敗だな……」

 現代野球においては、綿密にローテーションを組み、適度に肩を温存させるのが常識だ。にもかかわらず、昭和野球よろしくドラマ重視の球数を無視した完投を指示してしまった。オーバーワークだとファンのそしりを受けても仕方あるまい……。

「彼女の説明は、わかりやすかったですか?」

 こちらの自責の念(という名の軽口)にはさして興味がないのか、近藤くんは核心部分に話を戻した。

「うん。めちゃくちゃわかりやすかった。正直、かなり驚いたよ」

 思い出すのは、彼女の完璧すぎる講義。

 無駄のない言葉選び。適切なペース配分。要点を押さえた簡潔な解説。加えて、口頭では伝えにくい部分をさらりとノートに図解してくれる気配りまで、どれを取っても一流講師顔負けだった。

 スポーツの世界では、『名選手は名監督にはなれない』というジンクスがある。

 天才という生き物は、自分ができることをできて当然と思ってしまうので、凡人が何に(つまづ)くのかが理解できず、適切な指導ができない。そういう理屈だ。

 これは勉学の世界でも同じだと思っていた。

 成績トップの人間ほど、凡人の『わからない』という感覚が理解できず、無意識のうちに「こんなこともわからないの?」という陥穽(かんせい)に陥ってしまう。

 だから、サユリも例に漏れずそういうタイプなのだろうと思っていたが、そのジンクスをいとも簡単に打ち破ってくれた。

 それはつまり、彼女が凡人の思考を理解できるということだ。

 ただ高いところから見下ろしているだけの存在ではなく、必要な時には自ら階段を下り、こちらの視点に合わせてくれる。

 そんな可能性を、今日の講義は示してくれた。

「それはすごい。〇〇くんの知的レベルに合わせて講義するのは至難の業ですからね。やはり彼女は素晴らしい知性をお持ちのようだ」

「うん。本当にそのとおりなんだけど言い方、言い方」

 絶妙に棘のある言葉をチョイスしてくるな……。

「いや、悪気はないですよ?」

「嘘つけ、むしろ悪気しかなかっただろ」

 なんて軽口を叩きながらも、僕はふと窓の外へと目をやる。

「悪いけどさ、今日の漢塾は中止にしていいかな?」

「ええ……別に構わないですけど、どうしてですか?」

「ちょっとやることができてね」

 頭の回転が早い近藤くんは、この一言で全てを察してくれたらしい。銀フレームの奥の瞳が、きらりと光る。

「おれに、何かできることはありますか」

「ありがとう。でも、今回は大丈夫。単騎で挑んでみようと思う」

 僕は足元に置いていたリュックをよいしょと背負い直すと、グッと親指を突き出してから、空き教室を出ていった。

 いざ行かん。大将は中庭にあり。

 

 中庭に足を踏み入れた瞬間、まとわりつくような夏の空気が全身を包み込んだ。

 じっとりとした湿気が肌に張り付き、動くだけで汗が滲む。鉄筋コンクリートで構築された校舎は、まるで巨大なフライパンのように熱を蓄え、そこからじわじわと照り返しの熱が放たれている。

 地面に目を向けると、ひび割れたコンクリートが陽射しを浴びて白く乾ききっており、その隙間から、どこから種が飛んできたのか、小さな雑草が申し訳なさそうに顔を出していた。

 風はある。けれど、それもただ熱をかき混ぜるだけの、生ぬるい空気の流れに過ぎない。

 それでも、中心地に向かって進むにつれ、ほんの少しだけ空気が変わっていく。

 芝生が敷かれ、ビオトープが配置されたその一角は、人工物に囲まれた場所とは違い、土や水の気配が濃く漂っている。陽射しの下でも不思議と爽やかで、ビル街のど真ん中にある緑地公園に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。

 その最奥(さいおう)、過去に本校の卒業生が植えたという巨大な記念樹の下に、目的の人物──サユリを見つける。

 彼女は、いつものように何も敷かず、芝生の上に直接座っていた。

 広がる緑の中、ワンピースタイプの黒い衣服を纏った姿は、どこか異質に見えるはずなのに、木漏れ日が肩や髪に淡く降り注ぐことで、不思議と風景に溶け込んでいる。

 その様子はどこか幻想的で、背景をぼかしてこのシーンだけ切り取れば、まるで森の妖精にでも見えてきそうだった。

「よっ」

 片手を上げ、声をかける。

 サユリは特に反応することもなく、ただゆっくりと視線を僕に向けた。

 いつものことだ。驚きもせず、慌てもせず、ただ静かに目を向けるだけ。

 それが彼女なりの応答であることは、もう理解している。

「ちょいと失礼するぜ」

 記念樹の下は、やはり驚くほど涼しかった。

 学校全体が灼熱の空間になりつつある中、この場所だけは別世界のように心地良い。

 枝葉が生い茂った大樹は、直射日光をしっかり遮ってくれるし、どこからか風が通り抜けてくれるおかげで、常に涼しい空間が保たれていた。

 周囲が静まり返っていることも、その清涼感を際立たせていた。

 夏休みの学校は、まるで休眠期の生き物のようにひっそりとしていて、聞こえてくるのは校舎の窓から漏れ聞こえる生徒の掛け声くらい。蝉の鳴き声すら、ここではどこか遠く、ガラス越しに聞いているように感じられた。

「芝生の上でも、土とかつくかもしれんだろ」

 そう言いながら、背中のリュックを開ける。

 中から取り出したのは、折りたたまれたレジャーシート。昔から愛用しているチープな代物ではあったが、無いよりはマシだろう。

 紙風船に似た色合いをしたそれを、満遍なく敷いてやる。

「ほら、こっちに座れよ」

 サユリは一瞬だけ僕を見た後、特に反論もせず、素直に従った。靴を脱ぎ、静かな所作でシートの上へ移動すると、上品な様子でちょこんと座っている。

「ってかさ、そんないかにもお高そうな服を着てるんだから、もうちっと頓着すべきだろう。そんな適当に扱うなら、その服、僕にくれよ。最近、古着市場も激アツらしくてな……良い値段で売れるかもわからんし」

 冗談めかしつつ、サユリの着ている服を値定めする。

 視覚だけでも十分に伝わるような、上質な生地。余計な装飾はない、シンプルなデザイン。それでいて、どことなく気品を感じさせるフォルム。

 ブランドのロゴは見当たらない。つまり、大手の高級ブランドではないが、それゆえに逆に価値があるのかもしれない。一品物や、セレクトショップでのみ扱われているような限定デザインだったりしたら、それなりの値がつく可能性もある。最低でも五桁……いや、六桁か?

 そんな打算的な考えを巡らせていると、彼女は僕の言葉を受けて、自分が今何を着ているのか改めて確認するように、ゆっくりと自分の服に目を落としていた。そして、さらりと胸のあたりを撫でる。

 その仕草を見た瞬間、自分がとんでもなく変態じみた発言をしていることにようやく気が付いた。

「や……今、言ったのはな……あくまで衣服の金銭的な価値をもとにした発言であって、決してお前さんの着ている服が欲しいわけでは……」

 呆れているのか、ドン引きしているのか、それとも単に、またコイツはよくわからんことを言っているなと思っているだけなのか、表情からは何も読み取れない。

「まあ、とりあえず昼メシにしよう」

 強引に話を切り替え、僕もスニーカーを脱いで隣に座る。

 腰を下ろす際、ちらりとお隣さんの手元を見ると、そこにはブロック型の栄養食品とミネラルウォーター。

 食のミニマリズムは、今日も徹底されているようだった。どこかの山岳探検家か、極限状態で生き抜くサバイバーのようなシンプルな食事。最低限の栄養と水分だけを補給すれば、それで事足りるとでも言わんばかりであった。

「……つくづく、キャラ設定を間違えてんなぁ」

 思わずぼやいてしまう。

 お嬢様キャラというのは、本来、もっとこう、豪華な食事を優雅に(たしな)むものではないのか。「つい、(じい)やが作りすぎてしまって……」なんて言いながら、伊勢海老がはみ出している重箱を差し出してくるとか。それを「ひとりではとても食べきれませんわね、よかったらご一緒にいかがでしょうか?」なんて微笑みながら勧めてくるとか。

 少なくとも、「お昼はこれだけで十分です」と言わんばかりに、無言で栄養食品を口に運ぶお嬢様なんて、僕の知っているテンプレートには存在しなかった。

 前にもそれとなく指摘したのに、全く改善される気配がないな……。

 密かに、今日はもしかしたら高級お弁当をおすそ分けしてくれるかもという淡い期待を抱いていた自分が阿呆みたいに思えてくる。

 なんて愚痴をこぼしてみると、サユリは静かに手を伸ばし、無言で栄養食品とペットボトルを差し出してきた。

 当然のことのように、何の迷いもなく。

 その行動があまりに自然すぎたので、逆に混乱する。

 もしかして、たかりにきたと思われている?

「ちゃうちゃう」

 慌てて手を振る。

「今日はお弁当を持ってきているから大丈夫だっての。つーか、そんなポンポンと安易に人にくれてやるな。もっと欲を持て欲を」

 強く言いつけてやると、彼女は特に気にした様子もなく差し出した手を戻した。

 そして、何事もなかったかのように、淡々と栄養ブロックの包装を剥がし、小鳥がついばむように小さく噛み砕く。

 その動作が、あまりにも上品過ぎたものだから、僕はなんとなくそれ以上ツッコむ気が失せてしまった。

 さっきまでお嬢様らしくないとか言ったけれど、これはこれで優雅な食事風景であった。

 こんな簡素な食事ですら、サユリが口にすると、映画のワンシーンみたいに見えてくるから不思議だ。どこかのティーサロンで、紅茶を飲みながらシュガークッキーをかじっている姿に見えてくる。

 栄養ブロックなのに。

 水のペットボトルなのに。

 どうしてこうも違って見えるのか。

 やっぱり、高貴な生まれの人間ってのは、何から何まで別世界にいるんだなと思い知らされる。

 そんなことを考えながら、僕は母さんお手製の庶民弁当を、膝の上に置いたのであった。

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― 新着の感想 ―
更新感謝〜! サユリのデレなのか、それとも言われたくないことを言ってしまったのか… Aが帰ってきたらどんな表示するのか今から楽しみです。
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