第十一話
今日も今日とて、夏季講習に参加するために学校へと向かう。
朝方にもかかわらず気温はうなぎのぼりで、もはや灼熱と言ってもいいほどの暑さとなっていた。
じりじりと照りつける太陽が容赦なく肌を焼き、首筋を伝う汗がシャツの襟元を濡らしていく。リュックサックを背負った背中もじっとりと湿り気を帯びていて、まとわりつく布の感触がひどく不快だった。
こんな熱中症待ったなしの真夏日に、なぜ、自ら進んで学校へ足を運んでいるのか。
我ながら理解に苦しむ。しかもこれは強制参加ではなく、自主的な活動だというのに、講習が始まって以来、気がつけばほぼ毎日通い詰めていた。
別に勉強が好きなわけでもないのに(というか嫌いなのに)、こうして律儀に足を運んでいるのには驚きを隠せない。意外とネタ抜きで、僕はすでに模範的学生の仲間入りを果たしているのかもしれなかった。
と、そんな家から学校へと続く道すがら、視界の隅に小さな公園が映り込んだ。
住宅街の一角にある、こぢんまりとしたその公園には、ブランコやすべり台、鉄棒といった定番の遊具が並んでいる。その間を数人の子どもが無邪気に駆け回っていて、額に汗を光らせながらボール遊びに興じていた。どの子も楽しそうで、笑い声が風に乗ってこちらまで届いてきた。
特に目を引いたのは、男子も女子も自然に入り混じっていたことだった。
僕たちの年齢では、こうした光景はほとんど見られなくなっている。
低学年の頃までは、男も女も関係なく一緒くたで、同じ遊びに熱中していた。性別の違いなんて意識することもなく、泥だらけになりながら鬼ごっこをしたり、秘密基地を作ったり、日が暮れるまで夢中で遊んでいた。
もう戻れないものを見せつけられるのは、思いのほか複雑な気持ちにさせる。
──アイツは、遊びに誘えば必ず付き合ってくれた。
どんな種類の遊びであっても、僕が「やろうぜ」と言えば、陽だまりのような笑みを浮かべて「いいよ」と頷いてくれた。
僕が提案する遊びの中には、もちろん小悪党的な遊びも含まれていたので、優等生であるAは難色を示すことも多々あったが、それでも最終的には付き合ってくれた。
でも、仮に僕が誘わなければ、彼女はどんなふうに過ごしていたのだろうか。
もっと女子同士で、おしゃべりをしたり、買い物に出かけたりしていたのではないだろうか。そして、そちらの方がよっぽど楽しく、満足の行くものだったのではないだろうか。
アイツが断らなかったのは、単に僕が幼馴染みだからという──
「……だから、そんなこと、考えんなって」
ぼそりと呟いて、無理やり思考を切り替えようとする。
今日の僕は、どこかおかしい。
考えたところで答えが出るわけじゃないとわかっているのに、ぐるぐると頭の中を巡って離れようとしない。
まるで、ひび割れたガラスをどうにか繋ぎ止めようとしているような感覚。
一度入った傷は、もう二度と元には戻らないというのに。
僕は、野球帽を深くかぶり直した。
「……早く、学校へ行こう」
余計なことを考えないように、足元だけを見つめる。
ひび割れた何かを見ないようにするために、ただ前へと歩いた。
「おはようございます!」
教室に足を踏み入れた瞬間、いつもドア付近で歓談しているなじみの下級生二人組が、元気よく挨拶を飛ばしてきた。
ようやく僕の顔にも慣れてきたらしく、かつて見られた新顔に対する恐怖心と警戒心は薄れてきている。初めてこの教室に来た時は、上級生というだけで遠巻きに見られていたことを思えば、今のこの溶け込み具合はなかなか感慨深いものがある。とはいえ、未だに距離を取られたままの相手もいるのだが。
例えば、初日に僕の生徒役となってくれたメガネちゃん。彼女は未だに、僕を見るとウサギのように耳をそば立てて、ピュッと逃げ出してしまう。まあ、無理に仲良くするつもりもないし、それはそれで別に構わないのだけど、ちょっとだけ寂しい。
それでも、僕はこの夏期講習の一員として認められつつあるようだった。講習が始まった頃の余所余所しさはもうどこにもなく、この教室の風景に溶け込むくらいの存在にはなっている。
まあ、普通はそうなのだ。
どんな人間だって、強烈な敵意でも見せない限りは周囲と調和していくものだし、どれほど特異な存在であっても、時間が経てば日常に吸収されていく。強烈な個性や異端性を保ち続けることはかえって難しく、やがて日々の流れに飲み込まれていくのが常だ。
しかし、何事にも例外はあるというもので。
ちらりと窓際の方に目をやると、じっと窓の外を眺めている銀色の少女がいた。
誰もが自然にこの教室に順応していく中で、彼女だけは圧倒的な異質さを放ち続けている。まるで、ポップな絵本の中に、ひとりだけシリアスなタッチで描き込まれたキャラクターがいるかのように。それは存在感というより、もはや違和感であった。
どれほど日常が流れ去ろうとも、サユリだけは決して揺らぐことなく、ただそこに在り続けていた。
果たして、いつまでも他人面をしている、あの女王さまをどう動かすべきなのか。
答えは未だ、見つからずにいる。
「おはようございます。今日は早いですね」
と、教室の入口でぼんやりと立ち尽くす僕を見つけ、近藤くんが気さくに挨拶してくる。その挨拶は、まるで朝のルーティンのように自然だった。きっと彼の中でも、僕はもう日常の一部と化しているのだろう。
「ああ、おはよう……って、ん? それ、何持ってんの?」
何気なく視線をやると、近藤くんの片手には数枚のルーズリーフがあった。
「ああ、先ほど、自由研究をチェックして欲しいと頼まれたものでして、軽く目を通していたんですよ」
自由研究──その言葉を聞いた瞬間、心の奥に小さな靄が生まれた。
「……自由研究、ね」
口の中で転がすように繰り返す。
嫌な話題だな、と思った。
「中々、良い出来でしたよ。テーマは『どうしてアブラゼミはうるさいのか』なんですが、きちんと図鑑から引用しているので、生物学的な裏付けがあるのは好感ですね。そうそう、セミといえば、今年、アメリカでは二〇〇年に一度のセミ大量発生問題が起きていまして──」
そこから軽快にうんちくを語り始めようとしたので、どうどうと御しつつ、
「そんで、近藤くんは自由研究のテーマは何にする予定なの?」
「天体観測にしようと思っています。夏の星座を中心に、天体の動きや、その歴史についてまとめようかと」
「いかにも高評価をもぎとってきそうなテーマだなぁ」
「当たり前じゃないですか。自由研究とはいえ、手を抜くつもりはありませんよ」
当然のように言う近藤くん。彼は努力することを厭わないタイプだから、こういう課題にも真正面から向き合うのだろう。
そして、次に投げかけられる質問は──わかっていた。
「〇〇くんはどうするんですか?」
ほら来た。
「僕は……」
自由研究。
……考えたくない。
夏休みが始まる前に、すでに自由研究のテーマは決めていた。
けれど、それを思い出すたびに、胸の奥がざわつく。
まるで、触れてはいけないものに無理やり手を伸ばそうとしているような感覚。
誤魔化さなきゃ──。
「……僕は、児童心理学をテーマにしようかな」
「ほう?」
近藤くんが興味深そうに眉を上げる。
「いつまでたっても級友に心を開かないクラス委員長を対象に心理的アプローチを行って、その反応と結果と考察をレポートにまとめるよ」
「今よりも、ほんの少しだけ真っ当に生きてくれれば、いつだって心を開きますよ」
「ペンギンは空を飛べないのだよ」
ちなみに、ペンギンは漢字で『人鳥』と書く。
「また阿呆な言い逃ればかりして……まあ、いいですよ。今のところは見捨てずに、気長に付き合ってあげますよ」
「それは友として?」
「クラス委員長としてです」
けっ、相変わらず可愛げのないヤツだぜ。
冗談っぽく舌打ちをしてみせると、近藤くんはやれやれとわざとらしく肩をすくめたのであった。
「むむっ……」
それは、午前の講習中のことであった。
夏期講習に参加してから初めて、鉛筆を持つ手が止まった。
最初のうちは、いわば乱取り戦のようなものだった。
問題を解いては投げ、解いては投げの繰り返し。勢いで突き進んでいけたし、それで余裕だった。ところが、中盤からは少しずつ相手の様子が変わってきて、一問一問しっかりと組み伏せる必要が生じてきた。終盤ともなれば、力量を測りつつ、じっくりと時間をかけて慎重に相対するしかなくなっていた。
そして今、完全に手が止まったというわけだ。
「手が止まったところが、〇〇くんの限界点です」
と、我が近藤先生は言っていたが、その限界点がまだ下級生用のプリントだったので、ちょっぴりへこむ。いや、ガッツリへこむ。
僕ってやっぱりバカなんだなぁとつくづく実感してしまった。
自身が無知であると自覚することが、精神的な成長につながるのだと言われていたものの、バカはバカでも向上心のないバカなので、ただのダメージにしかならない。成長の第一歩だと言われても、そんな歩みの遅い一歩に価値があるとは思えないし。
溜め息まじりに唇を尖らせて、そこに鉛筆を乗せる。同時に、腰かけている椅子も傾ける。
集中力が切れかかっているのを感じた。
ただでさえ、起動に時間がかかるエンジンなのに、一度アイドリング状態になってしまったら、もう再始動は難しい。ここで足踏みしていたら、完全にエンストする未来しか見えない。
こういう時こそ、師の助けを借りるべき──のはずだったのだが。
教室を見回せば、近藤くんとジャージ先生は、相も変わらず忙しく動き回っている。どうやら、僕だけが限界点に達してしまったわけではないらしく、他にも何人かが手を挙げ、順番待ちの列をなしていた。
……これは、しばらく待つしかなさそうだ。
学年的には僕も教え役に回るべきなのかもしれないが、初日に壮大な失態をやらかした身としては、とてもじゃないがその役目を担う気にはなれなかった。
講師に必要なのは、講師に足る知識量だ。学年でもトップクラスの成績でなければ、その役目は務まらない。
さて、どうすっかなぁ。
次に、鉛筆を耳に引っかけて、競馬場の馬券師よろしく険しい顔でプリントとにらめっこするが、即座にノックダウン。無理なものは無理だ。ここはおとなしく、講師陣の誰かが空くのを待つしかない。
手持ち無沙汰になったので、お隣さんをチラリと見やる。
今日もお決まりの黒系ファッション(おそるべきことに毎日違う服を着ている。一体、クローゼットに何着納められているんだ?)に身を包むサユリは、持参したテキストに目を落としつつ、流れるような筆記の動きでノートを埋めていた。
近藤くんによれば、大学受験レベルのテキストを使っているらしいが、僕レベルじゃ何が何やら状態。達筆なんだなー以外の感想が出てこない。
どうやら算数……否、スウガクをやっているみたいだが、よく見たらアルファベットが書いてあるので英語なのかもしれない。でも、数式と図形も載っている。え、なんで英語が書いてあんの? キミだけ教科違くない? もしかして誤植? え、こわ。スウガクめちゃこわ。
と、隣でメダパニる僕には気にも留めず、サユリは相変わらずの我関せずスタイルを貫いている。もはや、ネットワーク接続のないパソコンの如きスタンドアロンっぷり。
やれやれ。
まったく、ここまでくると清々しいな。
露骨な溜め息を吐き出してから、彼女に向かって声をかける。
「なぁ、サユリ。この問題どうやって解くの」
さして期待はしていなかった。
どうせ、いつものように黙殺されるのがオチだろう。
返答はおろか、視線すら寄こさず、まるで僕の存在そのものが空気であるかのように扱われるのだ。
実際、彼女は微動だにしなかった。
鉛筆の先が紙を滑る音だけが、教室の片隅で淡々と響いている。
「サユリ」
もう一度、声をかける。
案の定、無視。
慣れっこの対応ではあったが、今日に限っては妙にそれが心に引っかかった。
朝から続くモヤモヤが長く尾を引いていたせいか、ほんの少しだけ苛立ちが混ざる。
「じゃあ、もういいよ。他の人に教えてもらうから」
思いのほか強くなってしまった口調に、自分自身、戸惑ってしまった。ジョークにしては、ややキツすぎる声のトーン。
言い過ぎたかもしれないと思ったけれど、一度吐き出した言葉を肺の中に戻すことはできないので、ばつの悪さを誤魔化すように視線を逸らすと──カタン、と椅子を引きずる小さな音。
再び横を向くと、サユリは自分の座っている椅子を僕の方に向けて、ほんのわずかに距離を詰めていた。
そして、そこには、何かを値定めするような視線。
「な、なんだよ……」
もしかして怒らせたか?
いや、でも青い瞳には、怒りどころか感情の揺らぎすら見当たらなかった。相変わらず冷たく澄んだままで、『無』としか表現しようのない静寂がそこにあった。
それでも、サユリが椅子をこちらへ向けて、距離を詰めてきたという事実だけは確かだった。
今まで散々スルーされ続けてきた側としては予想外の反応だったため、ただひたすらに困惑してしまう。
自然と、互いに、しばらく見つめ合う形になる。
彼女の青みがかった瞳は、何も語らなかった。まるで森の奥にひっそりと佇んでいる湖のように、波紋のひとつすら起こす予兆すら窺えない。
ただ、次の瞬間──さらに、距離が詰まった。
近い。
意識する間もなく、微かに香る上品な匂いが鼻腔をくすぐる。
何の香りかなんてわからない。シャンプーなのか、それとも柔軟剤か。とにかく、ふわりと優しく香るそれが、不意打ちのように僕の思考を乱した。
そのまま、彼女は無駄な動作ひとつなく、口を開く。
「どの問題」
独り言と勘違いしかねるほどの、短い問いかけ。
それだけなのに、妙に深く響く。
「……あ、ああ。えーっと」
突然の奇襲により、脳のコックピットを一時的に掌握されてしまったため、ワンテンポ遅れての反応となってしまった。
慌ててプリントを引き寄せ、指を滑らせる。
「ここだよ。この、分数の問題」
すると、さらに詰められる距離。
近い。いや、近すぎる。
サラリと揺れる銀色のショートボブとともに、色の薄い瞳が問題文を一瞥する。
そして──
「これは──」
桜色の唇が、静かに動き始めた。
結論から言うと、めちゃくちゃわかりやすかった。
小さいのに、妙に耳にとおる声。速すぎず、遅すぎず、ちょうどいいペースで進んでいく説明。そして、定期的に僕の理解度を確認してくれる丁寧な心遣い。
完璧だった。
加えて、口頭で説明が難しい箇所は、プリントの余白にすらすらと図解を添えてくれるので、胸の奥にストンと答えが落ちていくのだ。
──これは、想定外だった。
サユリが、こんなにも明確に『何か』を伝えることができるなんて。
淡々としているのに、決して機械的ではない。冷たいのに、不思議と心地いい。
説明を受けている間、僕は彼女の横顔をちらりと盗み見たが、その表情に変化はなかった。ただ静かに、あまりにも静かに、僕の疑問に答えているだけ。
けれど、僕はそこに或る光を見た。
暗闇の中で一瞬灯るだけの、頼りのないものであったが、確かにそれは光であった。
即席の個別指導塾を終えると、自分の机の方に椅子を戻してしまった。
「また、わからないところがあったら聞いていいか」
返事はなかった。
果たして、一瞬の気まぐれだったのか、それとも彼女なりの歩み寄りなのか、僕には判別がつかなかったが──でも、不思議と悪い気はしなかった。
少なくとも、朝から続いていた陰鬱な思考は、いつの間にやら雲散霧消していた。




