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第十話

 この世には二種類の人間がいる。

 夏休みの宿題を八月三十一日までに終わらせることができる人間と、そうでない人間だ。

 前者のマジメちゃんからしたら「え? そもそも夏休みの宿題を三十一日までに終わらせないなんてことがありえるの?」と驚くに違いない。

 しかし、光が或れば闇が或るように、夏休みの宿題を終わらせることができない、あるいは終わらせる気がさらさらない人間というのも、たしかに存在する。 

 この手のダメ学生にとっては、夏休みは諸手(もろて)を上げて喜べるものではない。

 宿題を終わらせていないという重しが、常に心の片隅を陣取っているからだ。

 虫取り網を片手に山中を駆け回っている時も、市民プールで浮き輪に身を預けてぷかぷか漂っている時も、何度目になるかわからないソーメンをすすっている時も──ふとした瞬間に「あぁ、そういえば宿題、まだ終わってないな……」という絶望的な気付きが脳裏をかすめる。

 この重しがある限り、どんなに楽しい夏休みのイベントも心から楽しむことはできず、宿題の未達成という呪いが付きまとうせいで、享受できる幸福度はせいぜい通常の八割程度になってしまう。

 宿題さえなければ、きっと百パーセントの楽しさを味わえたのに……そんな悔しさを、僕たち後者の人間は常に味わうこととなっていた。

 しかし、そんなダメ学生諸君に朗報がある。

 実を言うと、夏休みの宿題には、本当の締め切りというものが存在するのだ。

 このテクニックを理解しておけば、たとえ僕のような限界学生であっても、今までよりも心穏やかに夏休みを満喫できるようになる。減少する快楽の割合を二十パーセントから十パーセント程度にまで抑えることが可能となる。

 だが、肝要(かんよう)なのは、本当の締め切りというものは、ただ漫然と待っているだけでは訪れないということだ。運命の女神には前髪しかないと言われるように、チャンスを掴むには、知恵と努力、そして大胆さが必要となる。

 というわけで、今回は特別に、僕が実践している『夏休みの宿題締め切り引き延ばし術』を伝授しよう。これをマスターすれば、きっと君も、ダメ学生のプロとして一歩前進できるはずだぞ!

 まず、新学期が始まる九月一日。この日の戦略が、その後の生存期間を決めるといっても過言ではない。

 初手はこれだ。

「先生、すいません。宿題、家に置いてきちゃいました」

 この台詞こそが、最初の布石である。

 ここでポイントなのは「宿題自体はもう終わらせてあるのに、持ってくるのを忘れた」というニュアンスを言外に(かも)し出すことだ。

 もし「まだやっていません」と正直に白状してしまえば、待っているのは大目玉。しかし、「提出する意思はあったが、うっかり忘れてしまった」という(てい)を装えば、先生の反応はだいぶマイルドになり「明日は必ず持ってくるように」と軽く注意される程度で済む。新学期初日を無傷で乗り切ることに成功するのだ。

 さあ、初日は乗り切れたぞ。

 二日目といこうじゃないか。

「先生、すいません。算数のドリルと読書感想文を持ってくるのを忘れちゃいました……他は持ってきたんですけど」

 ここでのポイントは、宿題を一気に提出せず、終えている宿題から小出しにすることだ。

 こうすれば、先生も完全に怒ることはできない。少しずつであっても宿題を提出している、という実績を作ることで、厳しい追及をかわせる。

 当然、先生の不信感はマシマシになるが、それでもゼロ提出よりはマシという心理が働き、結果的に「次は全部持ってくるように」と渋い顔で言い付ける程度で済む。

 そして、もしこのタイミングで週末が挟まるなら、さらに時間を稼ぐことができる。だが、もし間に休みがない場合は、最終手段を使うしかない。

「先生、お腹が痛くて……今日は早退してもいいですか?」

 原因不明の腹痛により朝イチで脱出、または、摩擦熱を利用して体温計の数値を操作するのもアリだ。これで一日休めば、その間に宿題を進めることができる(かもしれない)。

 以上が、僕の『夏休みの宿題達成計画(虎の巻)』である。語るべきポイントは他にもたくさんあるのだが、紙幅(しふく)の関係で割愛(かつあい)したい。

 え? なぜ、僕がここまで締め切りを延ばす方法を熟知しているのかだって? そりゃ僕が生粋の後者だからだよ。

 自慢じゃないが、僕は入学以来、一度も夏休みの宿題を締め切りまでに終わらせたことがない。

 まだランドセルがピカピカと黒光りしている、一年生の時からマトモに宿題をやっていなかったので筋金入りであろう。これがサッカーだったら、小学生のうちからクラブユースに所属しているようなエリート中のエリート。本当に自慢にならないな……。

 しかし、僕のような生き方は楽ではない。

 学年が上がるごとに、先生のマークがキツくなっているのを肌で感じるし、当たりも強くなっている。削りにくるようなラフプレーも一度や二度ではなかった。

 でも、僕もただ指をくわえて待ちぼうけていたわけではない。常日頃から技術は磨いているし、執拗(しつよう)なマンマークであろうと華麗にフェイントして振り切る自信がある。おお、喜べ皆の衆、日本のファンタジスタはここにいたのだ……。

 なんて、スポ根魂を燃やしつつ、来たるべき九月一日に備えてウォーミングアップしているのだが、まあ、僕だって終わらせられるなら終わらせたいのだ。夏休みの宿題。それができる意欲と機会と場所がないだけで。

 だからこそ、その三拍子がそろった夏期講習は絶好のチャンスだった。

 先日の近藤くんの提案はまさに渡りに舟であり、僕史上初めて、夏休みの宿題を夏休みのうちにやり遂げるという偉業を果たせたかもしれなかった。

 が、それを直前で断わった理由は何か。

 答えは、目の前にある。


「やっぱ難しいよなぁ……」

 腕を組みながら、眼前にそびえ立つ建物を見上げた。

 そこには近代的で無駄のない、洗練されたデザインの建築物。壁の大部分はガラス張りになっており、そこに涼しげなグリーンカーテンが絡みついていた。夏の日差しを和らげる役割を果たしつつ、建築美としての価値も考慮されていて、僕の母さん曰く、「あれは常に植物を枯らさないようにしなきゃだから手入れが大変」らしいが、そんな手間すらもオシャレなライフスタイルの一環としてしまうのには脱帽である。

 築十数年経つはずだが、デザイン性はもちろん、耐震性やエネルギー効率まで計算し尽くされ、最新のテクノロジーがふんだんに取り入れられているので、時代遅れの印象は全く無く、まるで未来のモデルハウスのようだった。

 お隣に建つ僕の家とは、まさに雲泥の差である。

 横に視線を移せば、そこにはどこにでもあるような居宅(建売かつ中古だった)があり、壁はありきたりなアイボリーの塗装、窓には普通のカーテンがぶら下がっている。夏になれば日差しを遮るために(すだれ)をかけたりするけれど、それが洗練されたデザインと称されることはないだろう。

 まあ、そもそもこの二つの家を比較すること自体が酷というものだ。

 なにせ、目の前の家屋──Aの家は、建築家である彼女の父親が設計したものだからだ。

 しかも、ただの建築家ではなく、雑誌やウェブメディアで特集が組まれることもあるような上澄み中の上澄みときている。建築のことには明るくないけれど、海外のコンペティション? にも参加するほどの大物であり、そんな人物が自ら設計しているのだから太刀打ちしようがない。

 僕の父さんも一般的なサラリーマンの割には相当がんばっている方だとは思うけど、いかんせん相手が悪すぎる。しかも、あっちはめちゃくちゃハンサムだしね。神が二物どころか三物も四物も与える不平等さを、幼い頃の僕は、お隣さんから学んだのであった。

 で、なぜ今、そのお隣さんの家の前で難しい顔をして突っ立っているのかというと、この中に僕の夏休みの宿題が一式置かれたままになっているからだ。

 夏期講習中に宿題を片付けないかという近藤くんの提案を断ったのは、単にそれが理由だった。そもそも、取り組むべき宿題が手元にないのだから、どうしようもない。

 しかも、タイミングが悪いことにA一家はヨーロッパへ長期旅行中ときている。だから、僕はなんとか夏休みの宿題を救い出せないかと考え、ノコノコ足を運んでみたのだが、一瞬でそれが不可能だと悟った。

 大前提として、まずセキュリティがガチすぎる。

 A家の周囲には適度な高さのフェンスがそびえ立っているのだが、これがまた絶妙なバランスで設計されていて、ご近所さんに威圧感を与えすぎることなく、それでいて侵入者をしっかりと防ぐ構造になっている。

 加えて、門には監視カメラ。それも、ただの監視カメラではない。以前、この家に遊びに来た時に聞いたのだが、映像がリアルタイムでスマートフォンに送信されるシステムになっており、不審な動きをすれば即座に通知が飛ぶとのこと。

 さらには、家の中には最新のスマートホームシステムが導入されているので、人感(じんかん)センサーが感知すると、自動的にアラートが鳴る仕組みになっている。仮に侵入できたとて、お次は警備会社の屈強なガードマンたちが飛んでくるというわけだ。

 そんな泥棒だって裸足で逃げ出すレベルの家に、軽い気持ちで侵入できるわけがなかった。

「……これ、どう考えても無理ゲーでは?」

 ぼそりとつぶやいてしまう。

 とはいえ、ここで諦めるわけにはいかない。

 もしかしたら裏口の方が入りやすいのではないかと考え、家の周りをぐるりと回ってみることにしたが、そこにもセンサーらしきものが備えられていたので断念。鉢植えの下にカギを隠しているのではと思い付いたが、さすがにそこまでするのは不審者丸出しすぎるし、そもそもA家が置きカギなんてしているはずがなかった。

 考えれば考えるほど、この家がいかに他者の侵入を許さない構造になっているかがわかる。いつも気軽に足を運んでいるので、あまり意識することがなかったが、一般人が突破できるシステムではなかった。

 改めて正面に戻り、僕はしばらく立ち尽くした。

 結論、打つ手なし。

 これで、僕が夏休みの宿題をやるというダイヤモンドよりも貴重な機会が失われしまったというわけだ。

 どうして、あの日、宿題を持って帰らなかったのだろうか。

 己の愚かさに呆れる。

 あの時の自分に向かって全力で説教してやりたい。いや、頭をはたきたい。むしろ、未来から過去に戻って強制的に宿題を抱えさせてやりたい。

 そんな無茶な願いを抱くほどに、後悔の波がじわじわと押し寄せてくる。

「もしかして、これは神の(おぼ)()しなのか……?」

 お前は変わらなくていい。

 そのままのお前で完成形なのだ。

 今の自分を肯定してやりなさい。

 つまり、そういうことではないのか……?

 天上の神様が、そう語りかけているのではないのか……?

 でも、もしそうだとしたら、それって神の言葉というより悪魔の(ささや)きなんじゃ……。

 いやいや、そんなはずはないって。

 言っている内容は悪魔と大差ない気がするが、多分、神様の方だ。ゴッドの方だ。神様が僕を堕落せしめるわけがないし……いや、でも神様は人類を試すというしな……神話になかったっけ? 信者の忠誠心を試すためにあえて苦難を与えるみたいな話。だとすると、これは意図的な苦難なのか?

「……違う」

 この苦難をもたらしたのは、アイツだ。

 Aだ。

 Aのせいだ。

 アイツが海外旅行に行く前に、僕の元に宿題を届けていれば、こんなことにはならなかった。

 そうすれば僕も、模範的生徒の仲間入りを果たしていたかもしれないのに!

 過失の割合としては、九対一くらいでAが悪い。

 いや、むしろ全部Aのせいだ。

 僕の夏休みの予定をきちんと考えずに、自分だけ優雅にヨーロッパ旅行に出かけたあのマヌケのせいだ。

 ……と、そんなことを考えながら、大きなため息を吐く。

 わかっている。

 Aは悪くない。

 悪いのは僕だ。

 それに、元々、宿題をやる気なんてなかったじゃないか。

 仮に手元に夏休みの宿題があったって、僕は近藤くんの提案を聞き流していただろう。

 なのに、なぜ僕は後悔しているのか。

 あの日、宿題だけは持ち帰っておけばと自分を戒めているのか。

 それは、僕が痛いほど理解しているからだ。

 Aが、そんなミスを犯すはずがないことを。

 うっかり宿題を返し忘れた?

 そんなわけがない。

 いつだって僕のことをよく分かっていて、僕が忘れそうなことも、面倒くさがって後回しにしそうなことも、さりげなくフォローしてくれる。何を考えているのか、何を求めているのか、説明しなくても察してくれる。

 彼女は、僕にとってそういう存在だった。

 だからこそ、うっかり宿題を返し忘れるなんてありえないのだ。

 では、彼女が意図的に僕に宿題を返さなかったとしたら──それは、何を意味するのか?

 ──思考が、あの日の記憶に触れそうになり、僕は嫌々するように首を振った

「……もう、考えたくない」

 自然と、声に出てしまった。

 人通りの少ない真夏日の朝方に、僕の声を聞く者は誰もいない。

 仮に誰かがいたとしても、この街全体を包み込む強烈な蝉時雨(しぐれ)のせいで、僕の声はかき消されていただろう。

 それでも、この胸の内には、先ほどの言葉が、何度も、何度も、響き続けていた。

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更新ありがとうございます!行くしか…ない!!
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