第八話
漢塾は好調なスタートを切る一方、対サユリ戦線の戦況は芳しくなかった。
もとより大した作戦もなく、見切り発車で始めたものなので仕方がないが、それにしたって戦果は乏しかった。というか、戦果なんて皆無だった。
彼女の鉄壁の守りに、領土は一センチも拡大しておらず、我が軍の士気は下がる一方。そのうえ、有効的な武器も保有しておらず、そもそも軍事ドクトリンすらなければ、これは実質負け戦ではないか。
「厳しいなぁ……」
すでに、本日の夏期講習は終了し、教室に残っているのは僕と近藤くんの二人だけだった。
今後の方針を決めるべく作戦会議を開くことにしたのだが、微動だにしない状況に頭が破裂しそうになっていた。それに、さっきから窓の外から流れ込んでくる、単調で聴き応えのないアブラゼミの大合唱が非常に鬱陶しく、苛立ちを加速させた。
銀縁メガネの参謀も、難しい顔をして両腕を組み、口を開かずにいる。七三分けの髪も徐々に崩れてきているが、それを直すことまでに気が回らないらしく、珍しく前髪ができあがっていた。
一時停止の状態の中、それでも沈黙よりかはマシだと思ったのか、
「……○○くんは、現在の作戦を続行すべきと考えているのですか?」
詰めるような言い方ではなかった。あくまで会話のとっかかりとしての投げかけだったが、僕には悪い意味に響いた。
「……まあ、現状はそれしかないからね。効果は薄いかもしれないけど、地道にやってくしかないさ」
自然、返す言葉もぶっきらぼうになってしまう。
「そうですか」
そして、また沈黙。
この間も、アブラゼミはやかましく鳴く。
ミンミンミンミン鳴く。
ああ、どうしてこうセミという生き物は風情がないのだろうか。
異性への求愛行動だってこたぁ理解しているが、それにしたってアプローチの仕方が乱暴すぎるんじゃないか? 単に大声で「好きだ! 好きだ! 好きだ!」と喚きたてるんじゃなくってさ、耳元で優しく「好きだ……」と一言ささやく方が効果的なんじゃないの? いや、僕だって、恋愛のイロハなんてものは理解しちゃいないけどさ。ちくせう、なんだか僕も鳴きたくなってきたな。否、泣きたくなってきた。泣いていいかな?
「やめてくださいよ……セミに鳴かれるよりもずっと、神経がささくれ立つ……」
近藤くんは細長い体をぐでーっと脱力させた状態で、ぼそぼそと呟く。
そして、またまた沈黙。
会議は踊る、されど進まず。
いや、踊ってはいないか。なら、いっそ陽気に踊ってやろうか。幸い、人数は足りているしね。踊る阿呆に見る阿呆の計二人。いや、近藤くんは阿呆ではないか。なら、踊る阿呆に見る賢人? なんじゃそりゃ。あと、賢人って言葉、久々に使ったな。森の賢人っていたよね。ゴリラだっけ? オラウータンだっけ? ああ、なんか思考が散漫になってきているな……まずい傾向だ。
脳内を一度リセットするために、ぎゅっと力強くまぶたを閉じる。
そもそも、どうしてこんな状況に陥っているのか。
近藤くんと軍事協定を締結し、対サユリに向けての共同戦線を張ったところまでは良かったのだ。そこまでは過不足なかったと思う。問題はその先、僕の立てた作戦はあまりに杜撰すぎたのが原因だろう。
反省点を探すためにも、ここらでちょいと回想シーンに入ろうか。
協定を結んで間もない頃、僕は「まあ、なんとかなるっしょ!」と楽天的なスタンスだったのだが、近藤くんはまず作戦を立てることを勧めた。
「徒手空拳で相手にむかうのは良くないと思います。暫定的でもいいですから、何を指針に動いていくのかを決めておかないと、途中で迷子になってしまいますよ」
どうやらゲームをプレイする前には、ちゃんと説明書を読み込むタイプらしい。ちなみに、僕はプレイしながら手探りで覚えていく方が好きである。最近のゲームには、必ず序盤にチュートリアルがあるが、個人的にはその手の親切設計には否定的である。レトロゲームよろしく死んで覚えるくらいの方が燃えてこないかい?
「指針といってもなぁ……」
そう言われても、何も思いつかない。
そもそも、僕は大したことを考えているわけではなかった。自身の経験をなぞらえていけば、うまくいくんじゃないかな? と思っている程度なので、いざ作戦じみたものを求められると困ってしまう。
「その経験というのは?」
「うーん……接し続けていたら、徐々に、慣れていったといいますか……ぶっちゃけ、僕だって、最初はサユリのことはこわかったんだよね。でも、こわいとは思いつつも、声をかけたり、ちょっかい出したりしているうちに、こわさが薄れていったといいますか……うーん、うまく言語化できないな……」
でもさ、普通そういうもんじゃない?
たとえば、僕の隣のクラスにエリィという巨漢の悪童がいる。
いかにもヤンキー予備軍といった風体の、普通の生徒ならば避けて通ってしまうような、ちょっとお近づきにはなりたくないタイプのやつだ。後、なんか襟足がめちゃくちゃ長い。個人的にはこれだけでも、ものすごい減点ポイント。
僕自身、第一印象は最悪だった。
いつも先生に怒られているし、そのくせ全然反省の色が見えないし。去りゆく教師の背中に向かって中指立てているのを見た時なんか、コイツとは絶対に仲良くなれないなーって思ったもの。僕、品行方正の優等生だしね。
しかし、顔を合わせているうちに親しみを覚えていったといいますか。
実際に話してみたら波長が合う部分も多かったので、同じクラスになったことが一度もないのにもかかわらず、いつの間にか仲良くなっていた。放課後をともにする仲にまで発展するとは、初見の時では考えられなかった。
つまり、僕が言いたかったのはそういうことだったのだけれど、
「いえ、あながち間違っているとは言えませんよ」
舌足らずの説明ではあったが、近藤くんはうまく行間を読み取ってくれたみたいで、納得したようにフムフムと頷いている。
「ザイオンス効果というのをご存じですか?」
「ざ、ざい……なんて? 財テク? おカネの話? 僕、投資系のうまい話には絶対に乗るなよって、父さんに強く言われているもんで……」
「違います。なんにでもおカネに結び付けないでください。ザイオンス効果です」
僕の誤謬をぴしゃりとはねのけつつ、
「ザイオンス効果というのは、ポーランドの心理学者が提唱した理論で、単純接触効果ともいいます。簡単に説明すると、同一の人物に対して接触する機会が増えれば増えるほど、好印象を抱いていく効果のことを指します。たとえば、いつも利用しているコンビニの店員さんに対して、なんとなく親近感を覚えていくようなものです」
「あー、それ、なんとなくわかるなぁ。僕の近所に、ジョンっていう名前の大型のゴールデンレトリバーがいるんだけどさ。いつも吠えてくるから、小さい頃は苦手だったけど、顔を合わせているうちに、カワイイと思えるようになったもんな。まあ、未だにバウバウやってくるのは勘弁して欲しいけど」
それにしても、さすがは我らがクラス委員長である。見識の広さでいったら、校内で一位二位を争うのではないだろうか。自分の考えをうまく言語化したい時に、適切なうんちくを傾けられるタイプの人には、ちょっと憧れてしまう。
「よくそんなことを知っているね。ザイオンス効果なんて、教科書にも載ってないでしょ? どっから仕入れてくんのよ、そういう知識」
「毎月、科学雑誌を定期購読しているものでして」
誇らしげにメガネの弦を押し上げる。
やはりインテリくんというのは知識量を褒められると嬉しいらしく、鼻の穴がやや膨らんでいた。
「たしかに、僕と近藤くんが仲良くなったのも、この夏季講習で接触する回数が増えたからだしね。納得、納得」
「ちなみに、ザイオンス効果は負の結果を生む場合もあります。きらいな人に何度も話しかけられたって、かえって嫌悪感が増すだけですしね」
「……それ、遠回しに僕のことを言っているんじゃないだろうな」
近藤くんは明確な回答を避けて、
「いずれにせよ、現状では、おれたちに打つ手はありません。かといって、無策でいるのも望ましくない。なので、その折衷案として、彼女に対して頻繁に接触していくという○○くんの指針は、大いにアリだと思います。地道で気の遠い作戦ではありますが、やらないよりはマシというやつです」
「……そうだね」
実際、これから僕たちがやろうとしていることは、わずかな凹凸も見当たらない断崖絶壁にクライミングを挑むような無謀さだった。彼の言うザイオンス効果とやらは、たしかに小さくて頼りないピッケルかもしれないが、素手で登攀するよりかは幾分楽に登れるだろう。
「いよっし!」
僕は勢いよく椅子から立ち上がると、天に向かって人差し指を突き刺し、
「それでは、これよりザイオンス作戦を実行する!」
かっちょよくポーズを決めたのだった。
というのが、初日の流れ。
結果、どうなったのかというと、まあ、今の惨状を見ればわかるだろう。
失敗した理由はいくつかあった。
ありすぎていちいち取り上げていたら日が暮れてしまうので、もっとも大きな理由だけ取り上げると──僕らが想定したよりも、ずっと、ずっと、サユリはみんなにおそれられていたということだった。
本作戦の要諦は、夏期講習に参加している生徒とサユリを交流させることにある。
近藤くんのいうザイオンス効果に従えば、形はどうあれ、サユリと関わらせることができれば、自然と好感度は高まっていく。なので、内容はどうあれ、とにかくアタックをかけていけばいいのだ。作戦としては、これほどシンプルなものはないだろう。
そう安易に考えていたが、
「このプリントを、あのお姉さんに渡してくれるかな?」
低学年の女子生徒に対し、近藤くんは優しい笑顔とともにお願いをする。
普段なら、「わかりました!」と大きな声で受け入れてくれるであろうお願いを、女子生徒は受け入れてくれなかった。
いや、別に、明確に拒否されたわけではない。
しかし、今にも泣き出しそうな顔をしてうつむかれてしまっては、言わずとも答えは知れてしまう。さすがの近藤くんも無理強いはできず「気にしないで」と苦笑して、お願いを取り下げるのであった。
他の生徒にもあの手この手で、事務連絡やプリントの手交などの、おつかい程度の頼み事をしてみたのだが、その全員が同じ反応をするものだから、こちらとしてはどうしようもない。
トマトがきらいな子どもに無理やりトマトを食べさせたところで、得られるのはさらなる嫌悪感だけである。だから、決して無理強いはできない。けれど、強行的な手段がとれないとなると、ただただ膠着状態に陥るだけ。
結果、変化は生じず、淡々と時間だけが過ぎていった。
このレベルでもダメなのか……。
言葉にこそしなかったが、僕の失望は大きかった。
実のところ、みんなとサユリとの関係性を一変させるには、何かしらのドラスティックなイベントが必要だと思っていたので、この程度の『しょぼい作戦』では、ほとんど何も変わりやしないだろうと見くびっていた。あくまで、今後のとっかかりのための腰掛けにしか過ぎないと。
しかし、現実には、この『しょぼい作戦』すら成り立たずにいる。
彼女にまとわりつく偏見の強さを見失っていた。僕が、この学校では数少ない、サユリをおそれない生徒だったのも、それを手伝っていた。
自分にとっては、近所の神社に参拝に行くような気軽さであったとしても、彼らにとってはそうではない──神聖な場所を穢してしまうのではないか、バチが当たるのではないか──そういったおそれがまず先行してしまう。
認めよう。
僕の見込みは、相当甘かった。
そして、明らかに作戦は失敗していた。
ならば、少しでも損害を減らすために、すぐさま撤退戦へと切り替えるべきなのかもしれない。けれど、始めた以上は簡単に諦められないという思いもあるわけで。
こういうのって、なんて言うんだっけ? コンドル効果? いや、違うって、なぜ鳥なんだ。たしか飛行機の名前だった気が……でも、なぜ飛行機? 近藤くんに訊いてみようかな。いやいや、だからそんな益体のないことを考えている場合じゃないんだって。
浮かび上がった雑念を遠心力で吹っ飛ばすために、ぶんぶんと頭を左右に振る。
サユリへの偏見を打破し、彼女のことを少しでも理解してもらうため、何かしらの手を講じるべきだった。
方向性はわかっている。
わかっているんだけども、歩を進められずにいる。
足が鉛のように重たくなっているのが原因だ。
モチベーションが低下しているのが原因だ。
やる気が失せているのが原因だ。
だから、立ち止まっている。
でもさ、仕方がないじゃないか。
僕にとって、一番キツかったのは徒労感などではなかった。
僕のとっている行動が、皆を不幸にしていることだった。
言うなれば、僕は「大丈夫! 全然こわくないよ!」と笑顔で告げながら、哀れなカエルの子たちをヘビの巣へ放り込もうと企てているのだ。
無論、中にいるヘビはカエルの子たちを食べたりはしないが、肝心の当事者たちはどう思うだろう? 少なくとも、生きた心地はしないはずだ。ギロリと睨まれでもしたら、その小さな体躯を縮み上がらせて、滂沱の涙を流しながら「早くここから出して!」と希うに違いない。
その光景を思い描いても、なお、僕のやろうとしている行為は正しいと言えるのだろうか? そもそも、無理に接触させる必要が本当にあるのか?
ささやかな、しかし重大な疑問が湧き上がってくる。
今のように、お互いの世界をきっちりと分けて、それぞれが安心していられる空間を保つ方が、ずっとずっと正しいのではないだろうか?
つまりは、ゾーニング。
決して、差別しているわけではない。区別しているだけ。動物園の檻が、どうして種別ごとに設けられているのか。「みんな一緒の檻に入れておけばよくないですか?」なんて質問、幼稚園児だってしないだろう。
──無理やり集団の中に引っ張り込むだなんて真似は、暴力と変わらない。
近藤くんは、とっくの昔に、その答えに辿り着いていたというわけだ。だから、何もしなかった。サユリという存在を黙殺していた。
対する僕は、彼の助言を無視して、善意という名の暴力を振るっているというわけだ。まわりの人々も、本人でさえ望んでいない行動を、独りよがりに続けている。
ひょっとすると──今の僕って、単なる自己中心の嫌なヤツでは?
「うがー!」
意味を成さない獣の叫びを上げると、暑気でとろけかけていた近藤くんが、ビクリと肩を上げた。
「ちょっと、いきなり驚かしてくるのはやめてくださいよ。心臓が止まるかと思った……」
「叫ばずにはいられないよ! だって……」
と、次の言葉を吐き出すつもりだったが、突発的な獣性はすぐに鳴りを潜めてしまったので、不発に終わる。雨が降った日の手持ち花火みたいに、先端に火が灯ることすらなく、湿気ってダメになってしまった。
「……いっそ、まわりを動かすんじゃなくて、サユリ本人を動かしてみた方がいいんじゃないかと思えてきたよ……攻めるのは外堀ではなく、本丸じゃないかな」
「城に足が生えて歩き出すことはありませんよ」
「こんな時くらいは、皮肉を言うのはやめておくれよ」
僕の意欲が大きく削がれているのは、近藤くんもよく理解しているだろう。
それでも、「もう終わりにしませんか」と降伏を促さないのは、彼なりの優しさだったかもしれない。仮に、それが間違っていたとしても、僕が白旗を上げない限りは、とことん付き合うつもりなのだろう。まったく、義理堅いクラス委員長さまである。
「もうちょっと、情報を集めたほうがいいのかもしれませんね。考えてみたら、おれたちは彼女のことをほとんど知らない」
会議が煮詰まってきたこともあり、近藤くんは視点を変えるよう提案してきた。
「何か、彼女のパーソナルな情報を知っていませんか。趣味嗜好とか、なんでもいいですから。少なくとも、この学校で、いちばん関係性を築けているのは〇〇くんでしょう?」
「……悪いが、期待には応えられそうにないよ。いつも、ちょっかいかけてはいるけど、知っていることなんてほとんどない」
「だったら、彼女にかかわることで、何か気になることはありませんか? 意外に感じたことや、不思議に思ったことなど」
「意外に感じたことねぇ……」
垂らしっ放しだった重い頭をなんとか上げて、力なく笑う。
「ま、アイツが思っていたよりもおバカちゃんだったってのは意外だったな。いつも難しそうな本を読んでいるから、なんとなく頭のいいイメージがあったけど、まさか夏期講習に参加しなくちゃならん学力だったとは。今思えば、あれはエア読書だったのかもしれないね。僕も意味もなく広辞苑を開いて知的アピールすることあるし……って、近藤くん、何よ、その顔は」
「……いえ。てっきり、〇〇くんは知っていると思っていたので」
近藤くんは、メガネの奥の瞳をぱちくりさせて、
「夏期講習中、サユリさんが持参したテキストを使っているのを知っていますか」
「ああ、そういえば夏期講習用のプリントは使っていないね。算数をやっているのはわかるんだけど、いかんせん図形とグラフを見ると謎の頭痛に襲われる体質なもので……」
「算数じゃないです」
「え」
「サユリさんがやっているのは、算数ではなくて数学です」
「……スウガク?」
「ああ、そうか……〇〇くんのデータベースの中には、数学という概念がないのか。そうですね……わかりやすくいうのなら、算数の強化版とでも言えばいいのでしょうか」
「は? 算数の強化版? 聞いたことないよ? なにそれ? いくらなんでも凶悪すぎない? バトルの終盤で、体力全回復魔法使ってくるラスボスくらい凶悪じゃないか!」
「そのたとえはよくわかりませんが……ひとつ言っておくと、中学校に進学すれば、数学は嫌でもやることになりますよ」
どデカいハンマーで、頭蓋骨をかち割られてしまったかのような衝撃だった。
「つ、つまり……僕も中学生になったら、そのスウガクってやべーやつと戦う必要があるって、こと?」
「はい。ちなみにですが、高校生になると、数学Ⅰ、数学Ⅱ、数学Ⅲ、数学A、数学B、数学Cと六種類の数学をやることになります。とはいっても、文系に進むか、理系に進むかで違ってきますが……って、○○くん? どうしたんですか、顔が真っ青ですよ」
人間、とてつもないショックを受けると、まずは膝から崩れ落ちていくのだということを知った。
僕は、ガタリと椅子から滑り降ちて、床を這うような四つん這いの姿勢になった。
目の前が真っ暗になり、心配する近藤くんの声が遥か彼方へ遠のいていく。
算数だけでもこんなに手強いのに、その強化版だって? スウガク? 六種類? まるで、圧倒的な戦闘力を有する敵を目の当たりにした時のような絶望感……。
「……僕、ずっと小学生でいるよ」
「義務教育に留年の制度はありませんよ」
あくまで冷静な彼のツッコミに、ついにオヨヨと涙を流したのであった。




