番外編『エロスとブリ大根と幼馴染みと』(後編)
上映会の幕が、少しづつ上がっていく。
陳腐でしょうもなさすぎる上映会の幕が。
男子四人で、DVDプレーヤーの小さな画面に映る、画質の荒い映像を凝視しているのは、はたから見れば極まりなく滑稽な光景だったろう。
しかも、外から見られないように、オブジェの穴ぼこを塞ぐ形でランドセルを配置しているので、中は非常に狭苦しく、そして暑苦しい。
……なんか、帰りたくなってきたな。
薄ぼんやりと光る液晶画面を見ながら、今更になって後悔する。
どう考えても、河川敷で草野球をやっていた方が健全だった気がする。こんなむさ苦しい環境で流す汗よりも、白球を追いかけて流す汗の方がダブルスコアで素晴らしかった。なぜ、僕は判断を誤ったのだろう。
ハァとため息をつくのと同時に、ゴクリと誰かが喉を鳴らした。
この時点では、僕のテンションはフラットな状態だったけれど、誰かさんの緊張に引きずられてしまったせいか、少しだけ姿勢を正してしまう。
「あ、始まる」
荻野くん(萩野くんかもしれない)が、声を上擦らせながら皆に告げる。
画面には、どこかの一室で、椅子に座る女性が映し出されていた。髪を染めていて、やや化粧の濃い、大人のお姉さんって感じの人だった。
映ってはいないけれど、対面には男性もいるようで、彼女にいくつかの質問を投げかけていた。大した質問ではなく、年齢とか、身長とか、職業とか諸々、当たり障りのないことばかりだった。
「アイドルのオーディションでもやっているのかな」
萩野くんがポツリと呟く。
たしかに、そんなシチュエーションにも見えた。これからこの女の人が「エントリーナンバー五番! 特技は歌です!」とか言い出しても、おかしくない雰囲気ではある。
まあ、僕はどちらかというと、先日テレビで見た、ドラフト最有力候補の高校球児のインタビューに近いと感じていたが。
果たして彼は大成できるだろうか。球速こそ不足しているが、安定感のあるピッチングは評価に値するし、何よりメンタルが強そうだ。ランナーを背負っても動じない性格はリリーフ向きかもしれないな……。
なんて、未来の球界へ意識を向けかけていたところで、映像は予測もしない方向に転がっていく。
「それじゃ、脱いでみよっか」
うん?
今、さらりと男性インタビュアーがとんでもない提案をしなかったか。
「わかりました」
恥ずかし気な様子で、うなずくお姉さん。
おいおい、そんなこと了承しちゃダメじゃ……って、あわわわわわ。ブラウスのボタンに手をかけ始めたぞ! これ、もしかして本当に脱いじゃうやつじゃ……。
思わず、隣に座るエリィに目をやると、彼は困惑しつつも、興奮の方が勝っているようで、血走った目で画面を見つめている。身体を大きく前後に揺らしているので、長ったらしい襟足が生き物のようにピコピコと動いていた。萩野くん&荻野くんも黒豆のような目を一杯に見開き、同じような調子でソワソワと落ち着きがない。
直感した。
このままだと、普段、大人たちが必死で子どもの目に触れないように苦心しているものを、僕らは見てしまうことになる。たとえばレンタルビデオ店の奥に位置する、掌に十八と描かれた意味深な暖簾。アレをくぐってしまうことになる。
それを理解してしまうと、急に躊躇してしまった。
果たして僕らは、大人たちが「こんなの見ちゃダメでしょ!」と塞ぐ手を、独断で振り払っていいものだろうか。いくらエリィに責任を押し付けられるからといっても、ある種の罪を被ることは免れないのでは?
いや、そもそも僕たちは何の罪に問われるのだろう。子どもが無断でエロエロなものを見た場合、どうやって警察に捕まるのかな? それと、お縄についた後の流れって何だっけ……裁判とか始まるんだっけ……エロエロの罪により、法廷に立たされる阿呆男子四人。弁護人だって、頭を抱えてしまうに違いない。あまりに間抜けすぎる。
情けないかもしれないが、急激に不安になってしまった。
そして、おそらく、この不安を抱えているのは僕だけではなく、エリィを除く他二人も同様だったろう。
だが、高学年の男子というのは、妙なところでプライドを発揮してしまう生き物で、マズイんじゃないかと思いつつも、誰一人として敵前逃亡を訴えなかった。予防接種を前に「別に、注射なんて怖くないし!」と強がってしまう、あの空気に似ている。
でも、でも、でもなぁ。
僕としても、自分が貧乏くじを引くことは避けたかったが……まあ、撤退するなら、ここだろうな。
そう冷静に決断すると、隣の荻野くんに小声で耳打ちする。
「……おい、荻野くん。このままだと、本当にキミの兄貴がエロエロだってことが証明されてしまうぞ。本当にそれでいいのか」
「え? そ、そりゃ、嫌に決まっているじゃないか……あと、ぼくは荻野じゃなくて萩野……」
「そんな些細なことはどうでもいいよ。いいかい? ここで止まれば、本当にこのDVDがエロエロなものかはわからない。荻野くんが言うように、アイドルのオーディション映像なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。シュガーレスの猫ってやつだよ」
「シュガーレスじゃなくて、シュレディンガーの猫っていうんじゃ……や、別に詳しいわけじゃないんだけど……あと、ぼくは」
「だから、そんな些細なことはどうでもいいって。さあ、どうするの? 自慢の兄貴が最低のエロエロ大臣に堕してしまうのを、弟のキミは指を咥えて見ているのかい?」
「そ、それは……」
悩みに悩んだ萩野くん(今度は間違えていない)であったが、損得勘定できるくらいの知能は持ち合わせていたらしい。
彼は、勢いよくDVDプレーヤーのOPENボタンを押すと、くるくると回っている円盤を取り外し、そのままへし曲げてしまった。
「あー!!」
と、叫び声を上げたのは横に座る巨漢であった。
「テメェ、萩野! まだ途中だろうが! しかも、肝心の円盤まで破壊しちまいやがって! 何考えてやがる! 気でも狂ったか!」
「ぼ、ぼくの兄貴はエロエロ大臣なんかじゃないんだ!」
と、叫びながら萩野くんはランドセルを蹴飛ばし、オブジェから飛び出していく。
「逃げるんじゃねえ!」
と、襟足をなびかせながらエリィも飛び出していく。
取り残された僕と荻野くんは、顔を見合わせる。彼はホッとしたような、でもちょっとだけ残念そうな、そんな表情をしていた。おそらく、僕も同じ表情をしていただろう。
「まあ、もうちょっと大人になってからだな。こういうのは」
「そうかもしれないね」
荻野くんが、うんうんと納得したようにうなずく。
さて、これでひと段落ついたことだし、チョークスリーパーを決められている萩野くんでも救出しに行きますかね。
今は何も映していないチープなDVDプレーヤーをぱたりと閉じてから「暴力反対!」と叫びつつ、エリィにドロップキックを放ちにいくため、駆け出したのだった。
うーむ。果たして、今日のこのイベントは青春の一ページとして追記されるのだろうか。
僕としては、断固拒否を主張したい。
秋になって、日が落ちるのが早くなったと思う。
空の端っこには、辛うじて滲んだオレンジ色が残っていたが、ほとんど夜の漆黒に侵食されているので、注視しなければ見出すことは難しい。
そんな、厳しい家庭の子だったら、すでに門限となっている時間帯。
その中を、ひとり歩く。
平日の住宅街は意外と落ち着いた様子を見せていて、人通りはほとんどなかった。等間隔に並ぶ街灯がタイミングよく光を灯し始め、さらに夜の気配を強くする。
カーテンの色に呼応して光る、色彩豊かな民家の窓を流し見つつ、僕は未だに悶々とした気持ちと格闘していた。
正直、自分のとった行動が正解だったのかはわからない。
きっと、あの映像を見続けてれば『せっくす』の正体は判明したのだろう。思春期の手前に立つ者としては、なんとなくその先を知ってみたい気持ちもあった。同年代の者よりも一歩先を進んだ存在となって、「そんなことも知らねーのかよ」とマウンティングをとってみたかった気もする。
それに、僕だって、そういうことに興味がないわけではない。
たとえば、少年誌のお色気マンガ。
クラスの男子連中には「あんなの、いつも読み飛ばしているよ」とアピールしているが、実を言うと、ちゃっかりチェックしている。ドキドキしながら、読み進めている。お色気度の強い話が収められている号は、しばらく手元に残していたりもしている。
けれど、言ってしまえば、僕らの年代のエロスなんてせいぜいその程度だった。浅瀬のプールでチャプチャプ遊んでいる程度。だからこそ、足のつかないような飛込用のプールには恐怖感を抱いてしまうし、誰かに放り込まれでもしたら溺れ死ぬこと間違いなし。
「結局のところ、僕はまだガキなんだろうなぁ」
ポリポリと後頭部のあたりを搔きつつ、ひとりごちる。
でも、別に焦りはなかった。成長していくその過程で知っていけばいいかなという程度。過ぎたるは猶及ばざるが如し。まだ小さいこの体に大量の知識を注いだところで、受け入れられる容量はたかが知れているのだ。
ってな感じで、コトコト煮える感情と折り合いをつけたところで、
「あ」
T字路のところで、ばったりと見知った顔と出くわす。
あまりにもタイミングが良かったので、誰かの仕込みかと勘違いしたほどであった。
「〇〇ちゃん」
幼馴染みのAが、ニコニコと微笑みながら手を振っている。
そして、飼い主を発見した子犬のようにパタパタと駆けてくると、この偶然の出会いがよほど嬉しかったのか「奇遇だねぇ」と繰り返しながら、見えない尻尾を振っていた。フリスビーを持っていたら、放り投げて遊んでやっていただろう。
今日の彼女は、ヘンテコな髪型をしていた。
ひとつに結った髪は、ぱっと見ポニーテールっぽいのだが、そこには等間隔に丸い膨らみが並んでいた。僕はなんとなく、軒先にぶら下がっている干し柿を思い出す。
「これね、玉ねぎヘアっていうアレンジなんだ。今、流行ってるみたいでね、クラスの子に教えてもらったの」
言われてみれば、玉ねぎが連なっているような髪型にも見える。Aは皆に羨ましがられるような櫛いらずの髪質なので、基本的にストレートにしていることが多いが、気分によっては今みたいに変化を加えることがある。
「似合っているかな?」
見えやすいように僕に背を向けて、うなじのあたりを見せるようにする。
「うーん。セットが面倒くさそうって感想以外、何も出てこないな」
僕の返答を受けて、そっか、と残念そうな様子を見せる。想定よりも強い落ち込み度だった。
こんなんで簡単に落ち込めるあたり、不幸のコスパがいいなと思う。
と、背中を見て気づいたが、Aはランドセルを背負っていなかった。それに、手には買い物用のエコバッグ。
「ちょっと、お買い物に出かけていたの。今日は、ブリ大根をつくるって——」
「おお!」
ブリ大根とは、なかなか渋いチョイスだ。ハンバーグとかカレーに比べると華々しさこそないが、確実にご飯が進むであろう堅実な一品。個人的には濃い目の味付けが好みだったが、果たしてA家はどのようなスタイルか。こりゃあ、今夜はご相伴に預かるしかないな……。
なんて、舌鼓を打っていると、
「——お母さんが張り切っているから」
「……おぉ」
そうか……料理するのはAじゃなくて、おばさんの方なのね。なるほど……なるほどなぁ。
「でもね、お母さん、夕方にお買い物に行ってくれたんだけど、ブリと大根を買い忘れちゃって。だから、私が代わりにおつかいしてきたんだ」
「……おぉ」
いかにも、おばさんらしいアクロバティックなミスだった。ブリ大根をつくろうと心に決めて、ブリと大根を買い忘れるなんてことある? 逆に何を買ってきたのかものすごい気になる。
Aの母親は、とてものんびりとした性格をしていらっしゃるので、よくこういうしでかしをする。いいとこのお嬢さん出身なので、少し世俗とズレているところがあるのかもしれないが……いや、それで済む話なのか……?
そんな感じの人なので、たまにテレビでやっている、はじめてのおつかい的な番組を観ていると、僕はいつもおばさんの顔を思い出す。今度、テレビスタッフよろしくこっそり後をつけてみようかしらん。序盤で手助けしちゃいそうだぜ……。
「良かったら、今夜は食べていく?」
さも名案といった感じでAが提案する。
「……うーん」
A家の台所事情は複雑だ。
キッチンに立つ割合としては、Aとおばさんで半々くらいなのだが、その割合を限りなく大きくしようと画策しているのがおばさんだった。
Aの母親は、かなりの料理好きなのである。
お昼の三分間クッキングの視聴は欠かさないし、料理雑誌も毎月定期購読している。インターネットで最新の調理方法やら調理器具やらをこまめにチェックしているし、SNSでバズったレシピに対するアンテナも張っていて、大変に研究熱心な人だった。
が、肝心の料理の腕はというと……いや、悪くはないんだよ? 本当だよ? 食べてもお腹を壊したりしないしさ? それに……ほら、お腹も膨らむし! すごい! 良い点しかない! ミシュラン認定の三ッ星レストランシェフも嫉妬しちゃいそうだ!
でもさ……頻繁におすそ分けはしなくてもいいと思うんだ。素晴らしい腕前のシェフを、無償で働かせるのも申し訳ないしさ。原因は不明なんだけど、ドアを開けて、鍋を持ったおばさんを立っていた時、なぜか胃がキュッと委縮するんだ……。
「あー、うん、そうだな。とても魅力的な提案だけど、もう母さんがごはんつくっちゃってるだろうしな。ああ、本当に名残惜しいな。僕、ブリ大根は大好物なんだけどね」
ペラペラと理由をまくしたて、やんわりと拒否する。サラリーマンが気乗りしない飲み会を断わる時って、きっとこんな感じなんだろうな。
僕の返答を受けて、そっか、と残念そうな様子を見せる。想定よりも強い落ち込み度だった。
まさか道連れがひとり減ったことに対する落ち込みではないだろうが、悪いことをした気分になる。
さて、ここは落ち込む幼馴染みをフォローしてやる場面なのかもしれないな。たとえば、手に持っているエコバッグを持ってあげるとか。
でもな……A相手にそんなモテ男子ムーブしても意味ないし。それに、僕もあんま荷物持ちたくないんだよね。なんなら、僕のランドセルを持ってもらおうかな。今、背中は空いているよね?
「いいよ」
さらりと了承してくれたので、持ってもらうことにした。
ランドセルの色も多様化している昨今であるが、女子が黒色をチョイスすることはほぼない。黒いランドセルを背負った少女という希少な絵面を目にできて、少し得をした気分になる。
「〇〇ちゃんのランドセル、すごい軽いね……」
Aは、今までに持ったことがないであろう重量感にすごく困惑していた。
まあ、僕は基本的に置き勉しているからな。ランドセルが重くなったことがほとんどないのだよ。というか、給食袋と体操服以外は持ち帰らないと強く心に決めている。宿題のプリントすら持ち帰らないストロングスタイル。みんなは真似しちゃダメだよ?
「今日は、何をしていたの? こんなに遅くまで遊んでいるのは、珍しいよね」
肩ベルトの位置を調整しながら、彼女が問いかける。
「今日は、公園で……」
約一時間前の一幕がフラッシュバックし、灰色の脳みそが一瞬で桃色に染まった。
「……まあ色々と」
チラリと、横を歩く幼馴染みを見る。
一説によると、児童期の女子は身体的にも精神的にも、男子より成長が早いという。
……一応、本当に一応ではあるが、コイツも幼馴染みという薄皮を一枚剥げば、女子であることには違いない。
ということは、彼女は、僕よりもずっと、大人な知識を持っている可能性があり、萩野くんがへし折ってしまった円盤が記録していたものを、すでに把握しているのかもしれなかった。
そんなこと、今日の今日まで考えたこともなかったから、変な気分になる。
Aとは、普段そういう話をしたことがなかった。
距離感が近すぎると、かえってしにくくなるジャンルの話があるじゃないですか?
たとえば、自分の親と恋愛の話とか性的な話とかできるかい? 試しに想像してみてくれたまへ。ほら、ゾッと肌が粟立ったでしょう? 僕とAもそれと同じってわけ。いや、なんなら年齢が一緒な分、親よりも難しいかもしれない。住んでいる世界がほぼ同一ゆえに、話が生々しくなるし。ああ、イメージするだけでおぞましい。口の中に羽虫が入ってしまって、ペッペッと吐き出したくなるような感覚だぜ。
でも、よくよく考えてみると不思議である。
心を許している相手ならば、何もかも打ち明けられるものだと思っていたが、決してそうではないらしい。気が置けない関係性だからこそ、全てをさらけ出せないことも、また有りうるみたいだ。
——Aにも、僕に話せないようなこととかあるのかな?
ふと浮かび上がった疑問は、泡沫の如く消えてしまう。彼女に限ってそんなこと有りえないという、長年の信頼感に打ち消されてしまったからだ。
その間も、ジロジロとAを観察していたのだが、つと視線が胸元のあたりで立ち止まる。
彼女は発育がよい。
特に、今日はピッタリとした薄手のセーターを着ているので、胸の膨らみがよくわかった。さすがに、DVDのお姉さんと比べれば到底及ばないところではあるが、同年代の女子に比べると、かなり大き目ではある。
と、A相手にそんなことを考えてしまった自分にげんなりする。
桃色の空気にあてられて、頭がおかしくなっているのかもしれない。何度も繰り返しているように、この幼馴染みを異性として見るのは非常に抵抗があった。今だって、家族と金曜日のロードショーを見ている際に、ちょっぴりエッチなシーンが挟まれた時のような、もやもやとした居心地の悪さに襲われている最中だった。
脳内のドロリとした桃色を振り払うために視線を上げれば——Aの大きな瞳が出迎える。
あれ、もしかして胸見てたの気付かれた?
相変わらず笑顔のままだったので、どうも判断しにくかったが、タイミング的にはバレていた可能性はある。女子は男子の視線に敏感だというし。それに、彼女ならたとえ気づいていたとしても、気づかないフリをしてくれる優しさを有しているのが、これまた厄介……。
って、待て待て、僕にはマジでそんな気は微塵もないんだって。
そう否定したかったが、否定すればかえって真実味が増してしまうジレンマ。結果、不本意ではあったが、そこには触れずに、適当に話題を振ることにした。
「Aはデカイな、その……背が」
「背?」
「うん、背」
「そうだねぇ。背の順で並ぶ時は、いつも一番後ろだからね」
実際、彼女は身長がとても高く、足もすらっと伸びているので、こうして並んでいるとあまり同年代という感じがしない。傍から見れば、姉と弟のサイズ感だろう。僕の身長はぴったり平均値ではあったが、一度もAの背丈を超えたことがなかった。
「僕からしたら、うらやましいけどな。背丈にはそんなに不満はないけど、どうせならダンクシュート決められるくらいの高身長になってみたかったぜ」
「〇〇ちゃんは、背の高い子と低い子、どっちが好き?」
Aが問いかけてくる。
あまり、会話が噛み合ってない気がしたが、どうだろう……もし、ここで僕が背の低い子の方が好きだと答えたら、この幼馴染みは小さくなってくれるのだろうか?
「背の低い子の方がいいな。今みたいに、見下されずに済むし」
そんな軽口を叩きつつ、チラリと横を見上げると、Aは困ったように眉根を寄せていた。どちらかというと本気寄りの困り方に見えたので、かえって僕の方が戸惑ってしまった。
僕の返答を受けて、そっか、と残念そうな様子を見せる。想定よりも強い落ち込み度だった。
これで、今日は三度目の落ち込みである。意図していたわけではないが、謎のネガティブハットトリックを決めてしまった。観客席は沸き立つはずもなく、なんならフーリガンと化したライバルサポーターにタコ殴りにされてしまうシチュエーション。彼女のファンがこの光景を見ていないことを祈る。
「そ、そういえばっ、この前、おばさんが持ってきてくれたカレーは絶品だったよ!」
露骨な話題替えではあったが、立ち込めつつある暗雲を吹き飛ばすためには、やむを得ない処置だった。
「あの野菜の旨味が凝縮された感じは間違いなく無水カレーだね。僕の舌は誤魔化せないよ。あれはルーに頼りがちな一般的なカレーとは一線を画す、スパイス各種のバランスを考えてつくられた計算的な味わいだった。まったく恐れ入ったよ」
あの時の衝撃は忘れられない。
まさか、あのおばさんがマトモな料理を——否、めちゃくちゃ美味しい料理をつくりだすだなんて。
ガチャでSSRを引き当てるくらいの低確率かもしれないが、それでも当たりが入っているとわかったのは光明だった。今まではハズレくじしか入っていないと思っていたので、今後の気の持ちようが全然違う。
「これからつくるブリ大根だって、もしかしたら——」
と、熱弁を振るいつつ、隣を歩くAを見れば——いつもより七割ほどだらしなくなった笑顔。
それを目にして、全てを悟った。
「でもやっぱり微妙だったな、あのカレー。なんていうかさ、コク? がないんだよね。あと、まろやかさ? なんていうかな、カレーは結局のところノド越しだと思うんだよね。カレーは飲み物っていう説もあるくらいだし?」
ダメ押しの四点目を叩き込んでやると「えぇー」とさすがにショックを受けた様子の幼馴染み。これがマンガだったら、背景に雷が描かれていることだろう。
その後は「もっと辛い方が良かった?」とか「野菜はもうちょっと小さく切った方が食べやすい?」とか、質問攻めにあうことになったのだが、その全てを柳のようにいなした。
そんな、夜とも夕方ともつかない世界の中。
どこかの民家から漂う夕餉の香りは、カレーであった。




