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第六話

 どうするべきなのか。

 窓側の長いカーテンにくるくるとくるまりながら考える。

 余計なおせっかいは慎んだ方がよい、という近藤くんのアドバイスに従えば、僕は何もしない方がいいらしい。

 現に、今も独りで黙々と勉強しているサユリを見ていると、このままそっとしておいた方がベストなのかも、とも思ってしまう。

 が、僕の心は「解せないぜ!」と声を上げているから、ややこしい。

 独りよがりのエゴイズムだと言われちゃ、まさにその通りなので何も言えないが、

「むむむむ」

 さらに身体を回転させ、カーテンの中にすっぽり身を包む。

 教室のカーテンは、家のよりも長くて素敵だ。こうしてくるまっていると、とても落ち着く。視聴覚室にある、暗幕のように分厚くて黒いカーテンはもっと素敵だ。ちょっとほこりっぽくて、くしゃみが出るが、それも味があっていいだろう。

 ただ、夏場とは相性が悪い。

 すぐに蒸し暑くなって、ぷはっと顔だけを出す。

 カーテンのミノムシになったまま、サユリの席にまで近づき、机の上に広げてあるテキストをのぞき込む。

 どうやら算数をやっているらしいが、どの学年の範囲をやっているのかはわからなかった。グラフやら図形やらがあるのはわかるが、すぐに頭が痛くなってきた。算数によるPTSDは重いみたいだ……。

 サユリ、と声をかけると、鉛筆を動かす手が止まった。銀色のショートボブを揺らし、僕を見上げる。

「お前さんもさ、内心では、みんなと仲良くなりたいって思ってたりする?」

 面倒なので、直接訊くことにした。これでYESと言えば動くし、NOと言えば動かない。単純明快な解決方法であった。

 でも、返答がないケースについては想定していなかった。

「おい、無視するなって」

 カーテンから抜け出して、テキストとノートを取り上げる。

 やるべきことを失ったサユリは、電源を落とされたロボットみたいに停止した。

 奪われたノートとテキストに向かって、指先を伸ばすことすらなかった。それどころか、略奪者(りゃくだつしゃ)である僕にも興味を示さず、挙げ句の果てには窓の外に目を向けてしまった。

 無関心を示すことで無言の非難を表明しているのではなく、単に全てがどうでもよくなったみたいに。

 その態度に、途方もない危惧(きぐ)を感じる。

 サユリは、間違った方向に完成されつつあるのではないか。

 以前は、もうちょっと感情が豊かだった。注視しなければ捉えられない、微細な感情ではあったけど、日常の端々で時折、発露(はつろ)する時があった。

 でも、今はその断片すら確認できない。

 まるで熱を感じない。

 氷。

 存在感は有り余るほどあるのに、中身が比例していない。スカスカだ。感情を虫に食われたせいで、穴ぼこだらけになっているみたいだ。

 装着している鉄仮面の下に、本音が隠されているならまだいい。でも、その下に何もなかったら、奈落のような暗い空洞しかなかったら。

 生唾を飲み込む。

 なんでもいいからアクションを起こして、関心を注ごうと思った。

 彼女の視界の中に入り込むため、立ち位置をずらす。

 そして、整った顔の中にある双眸、(つや)消しを施したかのように色彩を失っている瞳を見て――天啓を得たかのように、理解した。

 サユリは、何事にも無関心なのだ。

 今日の朝、日傘を奪った時もそうだ。今まさに、テキストとノートを奪った時もそうだ。

 普通、自分の所有物が誰かによって奪われたのなら、怒る。

 当然だ。

 そもそも所有しているということは、自分にとってそれが価値のあるものだからだ。反して、たとえば道端に転がっている石が側溝に落ちてしまっても何も感じないだろう。だって、その辺の石ころなんて何の価値もないし、たまたまそれを所有していて、失ったとしても、何の痛痒も感じない。

 だって、どうでもいいから。

 が、それはあくまでモノの話だ。意思も感情もない、物体の話だ。それならまだ、ギリギリ理解できる。

 けど、仮に、それ以上の存在になってくるならば、僕はもう理解ができない。理解できたとしても恐怖しか抱けない。

 銀色の少女が、急に遠くなる。

 彼岸に立つ彼女が、光の速さで遠ざかっていくような錯覚に襲われる。

 僕はずっと、サユリを無欲の人だと思っていた。

 彼女の達観(たっかん)した態度も、寛容(かんよう)な施しも、その欲の無さから生じるものだと思っていた。しかし、壮大な勘違いをしていた。話はもっと、甚大だったのだ。

 解決すべきなのは、もっと根本的なものではないのか。

 再考する。

 が、どこから手をつけていいのか皆目見当がつかない。取り扱う問題が膨大すぎて道筋すら立てられない。

 いや、解決の方法自体はわかっているのだ。

 サユリを変える方法は、たったひとつしかない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう思えるものを、たったひとつでも見つけることができたのならば、彼女は劇的に変化する。

 断言してもいい。何かに対する執着心さえ復活すれば、彼女の中で、火山が噴火するような莫大(ばくだい)なエネルギーが生じるはずだ。

 けれど、

 ――無理だ。

 瞬時に悟る。

 ――それは無理だ。

 選択肢としてあがってくることすらない。人形に命の灯をともすようなものだ。無論、サユリは人形じゃない。それは、僕が一番よく知っている。だけど、

 ――それでも無理だ。

「コラ、〇〇! イタズラをするんじゃない!」

 ジャージ先生の注意で我にかえる。

 ノートとテキストを返すと、緩慢な動きで勉強を再開させた。まるで、背中のネジを回して動き始めるカラクリ人形のようだった。

 僕は、苦々しく下唇を噛んで、それを見ていた。


「いい感じですね」

 採点を終えると、近藤くんは満足そうにうなずいた。

「思いのほか、順調なペースで進んでいるじゃないですか。この調子を保てるのなら、夏期講習の終盤には高学年向けのプリントにまで辿り着けるでしょう」

 ふふん、と僕は誇らしげに鼻を鳴らす。

「ま、僕が本気を出せばこんなもんですよ。能ある鷹は爪を隠すっていうでしょ?」

「爪を隠す意味が、一ミクロンも理解できない」

「……眠れる獅子が目覚めたってことにしておいてくれ」

 とまあ、軽口でサラッと流しはしたが、達成感で気が昂っているのは事実だった。

 低学年向けのプリントなので、ある程度はクリアして当然なんだけれど、それでもやっぱり『できる』というのは嬉しかった。この『できる』という感覚を、僕は久しく忘れていた気がする。

「その感覚を、忘れないでいてくださいね」

 優しく微笑んだ近藤くんを見て、彼の意図を全て悟った。

 できない子にまず成功体験させるのは、教育の王道である。

 ……なーる。僕の反対を押し切って、一年生用のプリントからやらせたのはそういうことか。

 釈迦の掌の上を飛び回る孫悟空のような気がして、ちょっとだけ気分が良くなかったけど、それ以上に、クラス委員長らしい心意気に感謝する気持ちが勝っていた。

 やっぱり、いいヤツなんだなぁ近藤くん。

 あと、二億光年ぶりくらいに笑顔を向けられたからマジで驚いた。いつもマイナスの感情ばっかりぶつけられていたから、警戒心がマシマシになっちまったぜ。ふぅ、幸運を呼ぶ壺のセールストークとか始まらなくてよかった。

 なんて会話をしている間に、結構いい時間になってしまった。昼休みは、もう半分に差し掛かっている。

「もう中庭に行くのは難しいかなぁ」

「今度からは一人で行ってくださいよ。わざわざ中庭まで行くのは移動時間がもったいない」

「そう言いなさんなよぉ。明日からもしっかり付き合っておくれよぉ」

「お断りします。それに……先ほども述べたように、あまり彼女に関わるべきじゃないですよ。ぼ……おれたちが勝手に同席したら、貴重な昼休みに水を差すことになりますし」

 口ではそう言っているが、結果として仲間はずれにしている後ろめたさがあるのか、どうも歯切れが悪かった。

 ……というか、そろそろツッコミしていい頃だよな。

「あのさ、近藤くん」

「はい」

「ずっと前から指摘しようと思っていたけどさ、その無理に『おれ』っていうのやめた方がいいと思うよ」

 固まった。

 額から、急に滝のような汗が流れ始めた。

 ずれていないメガネを何度も直し始めた。

「なななななな、なにを言っているんですか〇〇くん、ぼ、お、おれは前からおれを、おれのことをおれって呼んでいましたよ」

「おれがゲシュタルト崩壊を起こしている……いやいやいや、春ごろまでは一人称『ぼく』だったじゃん。いきなりおれなんて自称し始めたから違和感すごかったよ。それに、近藤くんのいう『おれ』って『れ』の部分が半音上がっているから、言い慣れてない感がバリバリ出てるんだよね。バニラオレのオレみたいな発音になっててさ」

「ほ、本当ですか……」

 もうほとんど尻尾を出してしまっているが、あえて踏まずにいてやろう。

「なぜに、一人称を変えだしたのよ。ぼくでもいいじゃん。僕なんかいっつも僕って呼んでるぜ」

「〇〇くんは、いいじゃないですか。一人称が僕でも、周りから低く見られたりしませんし……」

「低く? 低くって、何がさ」

「男として、ですよ」

 場所を変えたがっているような様子を見せたので、互いに弁当袋を持って、隣の空き教室に移動した。

 そして椅子に座ると、就職面接のような佇まいで、きっちりと背筋を伸ばし、ヒザの上に拳を乗せた。

「クラスの皆さん……特に男子の皆さんがそうですが、おれのことを勉強しかできない、もやしっ子みたいに見ているじゃないですか」

「見ているも何も、実際にその通りじゃない。夏休み前の五十メートル走でも散々だったろう? 両手両足を一緒に出しながら走る人なんて初めて見たよ。人型ロボットの方が、もうちょっとスマートに走――」

「五十メートル走の話はやめてください!」

 七三の髪を振り乱し、僕の口を塞ごうと飛びかかってきたが、蝶のようにひらりと避ける。

 体勢を崩した近藤くんは、後ろ足で盛大に椅子を蹴り上げて、床に落ちていった。あわれなり。

「走る速さなんか気にするなって。それに近藤くんって背も高いし足も長いんだからさ、練習すればタイムも良くなるって」

「……足の速さだけが問題じゃないんですよ」

 近藤くんは四つん這いになったまま、床に向かって呟いた。

「重要なのは、男らしいかどうかなんです」

「男らしい?」

 何を言っているんだ、こやつは。

「別に、男らしくなくたっていいじゃないか。つーかさ、男らしいっていう考え自体がもう時代錯誤だよ。ほら、前に道徳の授業でやったでしょう? えーと、あれだよ、BBQ? だっけか」

「もしかしてLGBTのことを言っていますか」

「そうそうそれだよ。BLT。つまりさ、今の時代、男らしいとか女らしいとかって考え方はナンセンスなのさ。僕ら若い世代は、性的な役割に押しとどめようとする社会そのものを否定していかなくちゃ」

「どうして、こういう時に限って正論を言うのですか……」

 困り果ててしまったようで、力なくうなだれる。そのまま床に突っ伏しそうな勢いだった。

 僕は椅子から離れ、彼の肩をポンと優しく叩き、

「どうして、男らしくなりたいんだい」

 優しい声色で訊いてみる。

 一瞬で、彼の瞳が恥辱(ちじょく)に燃え上がる。「殺すぞ……」とか呟いているのが聞こえたけど、品行方正なクラス委員長が剣呑(けんのん)なことを言うはずないから、おそらく空耳だろう。

 しかし、猛り狂った炎もすぐに鎮火し、あとは頼りなげな煙が燻っていた。

 近藤くんらしくない態度に、ちょっとだけ面食らう。

 彼は表立って喧伝(けんでん)することはないが、いつも静かな自信に満ちあふれていて、堂々と構えているのが常だった。どんな状況であっても取り乱すことなく冷静に対処し、必要とあらば教師とも敵対する勇気を兼ね備えている。

 それが、今はこんなにも頼りない。

 ……うーむ。

 どう助言したものか悩み、椅子に座りなおして、両腕を組んでうんうん唸っていると、

「……わかっていますよ、おれの考えが古臭いのも、的外れなことを言っているのも」

 片膝をつき、ゆっくりと身体を起こす。少しだけ、視線が高くなる。

「でも、おれは、男らしくないといけないんです」

「どうして」

「頼られたいんです。クラス委員長だから」

 激しく揺れ続けていた瞳が、すっと定まる。階段を数段飛ばしで駆け上ったかのように、急に大人びた雰囲気になった。

 その変わりようにあてられてか、今度は僕が姿勢を正す番になった。

 近藤くんに限らず、男子なら誰だって見下されるのは嫌だ。

 だからこそ、多かれ少なかれ自分を大きく見せようとするし、都合の悪い弱さには土をかけて見えにくくする。

 実際に、夏休み前の五十メートル走でタイムが芳しくなかった男子は口をそろえて不調の原因を吹聴(ふいちょう)した。

 昨日、下校中に転んでできた捻挫(ねんざ)が治っていなかったせいだ、とか、お腹の調子が悪くて集中できなかったせいだ、とか、誰もかれもが、訊いてもいないのにペラペラと懇切(こんせつ)丁寧に、上位に食い込めなかった裏話を打ち明けてくれた。

 別に、それが悪いことだとは思わない。

 世を渡り歩く技術としてはありふれたものだし、特に、最近は教室内を支配しつつある例の階層のせいで、下層者のレッテルを貼られまいと自らを誇示する必要に迫られている。僕だって、その点についてはクラスメイトたちと変わらなかった。

 そのような背景の中、近藤くんのタイムは惨憺(さんたん)たるものだった。

 自分より下を見つけて安堵した男子は嬉々として野次を飛ばしたし、女子も口に手を当てて「ダサいよね」と笑っていた。

 さすがの近藤くんも堪えたらしく、羞恥で頬を赤く染め、授業が終了した後もなかなか教室に帰らず、水道場の水でしばらく手を洗っていた。

 その時、僕は冷やかしのひとつでもしてやろうと、彼の背後にそろそろと近づいていたのだが、声をかける直前に、

「これが、おれの実力です」

 と呟いていたのが、やたらと印象に残っていた。

 あの五十メートル走で、自分の失態を誤魔化(ごまか)さずに、ありのままの真実として生身で受け止めたのは、おそらく近藤くんしかいなかった。

 でも、それは道理にかなっていたのだ。

 近藤くんが男らしくなりたいのは、僕たちのように虚栄心に基づくものではなく、みんなから頼られたいという異質な動機からであり、根底からして違っているのだから。

 だからこそ、カッコよかった。

 これが目指すべき大人の、ひとつの在り方なのかもしれない。

 なんて考えちゃうくらいにはカッコよかった。

「協力しようじゃないか」

 僕は椅子から立ち上がると、彼に向って手を差し伸べる。

「僕が、近藤くんを男にしてやる。男の中の男にしてやる。なあに、安心したまえ。僕の手にかかれば軟弱男子も益荒男(ますらお)に早変わりさ」

 もしジャージ先生がこの場にいたら、友情マックスなシーンに号泣して、ジャージの袖を涙で濡らしているところだろう。

 けども、

「えぇ……」

 近藤くんはマジで嫌そうにしていた。泣いて喜ばれるかと思っていたのに、ゴミ当番変わってくんない? って願い出された時くらいに嫌そうにしていた。

「か、考えてみなさいよ、近藤くん! 歴史を紐解いてみれば一目瞭然だけど、師なくして成り上がれた偉人はいるかね。未開拓の地をひとりで切り開くのと、巨人の肩に乗って進むのと、どっちが簡単に目的まで到達できるのかね」

「……たしかに効率的ではありますが」

 歯ぎしりをしながら、そして舌打ちを交えながら、(あご)に手を添えて思案し始める。

 ここまで熟考するとは……親と恋人でも人質にとられたわけでもあるまいに。

「真の男になりたければ、悪魔に魂を売れってことですね……」

「悪魔じゃないよ。クラスメイトだよ」

 僕のことをなんだと思っているんだ……。

 ダークヒーローアニメの第一話みたいになっている近藤くんは置いといて、

「あとさ、交換条件ってわけじゃないけど、僕にも協力してくれないかな」

「今朝、言っていたことですか」

「うん」

「オススメはしませんよ。それに、どうしてそう彼女にかまうのですか」

「僕さ、トマトが嫌いなんだよね」

「急になんですか」

「加工してあるケチャップとかは平気なんだけどさ、野菜の方はもう無理。赤くて丸い外見がおどろおどろしいし、変に酸っぱいし、中はグチュッとしてて食感が悪いしで、おもっきしダメなんだよね。たまに給食でもプチトマトが出るけどさ、いつも残しているんだ」

 ベーっとベロを出してみせる。

「でも、この前、家族でファミレスに行った時に、セットで頼んだハンバーグにサラダがついてて、その中にトマトがあったんだ。フォークでよけようとしたらさ、母さんにめちゃくちゃ煽られて、ついカッとなって食べてみたのよ。そしたらさ……意外と悪くなかったんだよね。そりゃ美味しくはなかったけどさ、添え物とかに出されたら食べてもいいかなと思えるくらいには悪くなかった。あんなに嫌いだったのに、どうしてだろうね」

 うまいことを言おうとしていたはずなのに、喋っているうちに道を見失ってしまった。僕は、このたとえ話に、何の意味を込めようとしていたのか。

「つまり、そういうことさ」

「どういうことですか」

 強引に話を打ち切ったせいで、うまく伝わらなかったみたい。

 だけど、まあいいや。

 とにかく、事実としてハッキリしているのは、僕が大した人間じゃないってこと。

 スーパーマンじゃないし、まして白馬の王子さまでもない、ただの悪ガキだってこと。

 元々、スタート地点を間違えていたのだ。

 身の丈に合ったことをすべきだったのに、サユリの人生そのものにまで関与しようとするから、途中でボタンをかけ違えたのだ。

 まだ親に扶養されている子どもが、誰かさんの人生に頭を悩ますだなんて、笑えるくらい大層な話じゃないか。恥ずかしい限りだぜ。身の程を知れってもんだ。

 僕は、サユリを変えることはできない。

 されど、彼女にとって心地のいい環境をつくることはできるかもしれない。

 何も、サユリがみんなと仲良しこよしになって欲しいのではない。今よりも、ちょっとだけ彼女を見る目が優しくなればいいだけだ。ひいては、過度に疎外(そがい)される現況がなくなれば、もっといい。

 彼女の孤高の純度を保っていられるような環境は、きっと誰にとっても素晴らしいものなのだ。

 それに、彼女は決して雲の上の人ではなく、平凡な点もたくさんある。苗字とかスゴイ平凡だしな。ついでに、サユリという名前も平凡だしな。あと平凡なところは……あれ? ない? ま、まあ、平凡という共通項さえあれば、あとはどうにでもなるだろう。うん。

 近藤くんは、ゆっくりと立ち上がった。僕の手を握ることはなく、自力で立ち上がった。

「先ほども言いましたが。おれは賛成しません」

 キッパリと宣言した。

「ですが、反対もしません」

 最終的に下した結論は、実に彼らしいものだった。

 頭のいい人ほど、自分の正しさに自信を持てない傾向にある。近藤くんも、サユリを遠巻きにしている現状を心の底からは肯定しきれないみたいだ。消極的な賛成には違いなかったが、これで十分だろう。

 紆余曲折あったが、遂に合意に達することができた。

 熱いシェイクハンドを交わすために、再度、ぐっと手を突き出すが、

「昼休みが終わってしまいますから」

 と淡々と述べ、転がっている椅子を戻して着席し、弁当袋の封を開け始めた。

 僕も向かいの席に座って、弁当袋の封を開け始めた。

「……近藤くんが優しいのか優しくないのか、どっちなのかわからなくなるよ」

 こちらを一瞥(いちべつ)し、彼にしては珍しいタイプの笑みを浮かべて、一言だけ述べた。

「優しいのではなく、厳しいだけですよ。少なくとも、〇〇くんに対してはね」

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