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第一話

 幼馴染みという文字を辞書で引いてみると、幼い時に親しく遊んでいた人、とでる。

 僕はそこで、おやと疑問に感じる。

 遊んでいた、と過去形で表されているということは、今はもう遊んでいないことになるのだろうか。それなら、幼い時から現在進行形で遊んでいる人物のことは、なんと呼べばいいのかしら。

 友人? うーん。それはなんか違う気がする。さすがに友人よりかは、幾らか上位の存在になるのではないか。

 なら、親友? うーん。親友はちょいと飛びすぎな気がする。というか、親友とは少しベクトルが違うんじゃないかな。

 僕は硬い頭をこねくり返して思索する。もっと適切な表現はないのだろうか。そもそも、幼馴染みの意味は本当に辞書通りで合っているのだろうか。

「わからん」

 結果、結論は出ない。

 と、なぜ僕がこんな益体もないくだらないことをつらつらと考えているのかというと、つまりは暇だからである。

 今は、夏休み前日の終業式。場所は体育館。

 館内はまるでサウナのような熱気と湿気に満ち溢れており、全開の窓からは風がちっとも入ってきていないのか、カーテンはぴくりとも動いていない。

 前方に目をやると、壇上に立つ校長先生が熱心に熱中症の危険性について熱弁をふるっていた。もはや、わざとやっているとしか思えない。普段は影が薄いくせに、どうしてこうも集会の時だけは元気になるのか。

「あらら」

 そこで不意に、くらりと足元がふらついた。

 マズイ、熱さにやられて意識が朦朧としてきたみたいだ。風邪を患わった時みたいな、茹だった気怠さを感じる。

 僕の前に立つクラスで一番頭の良い近藤くんも、振り子時計のようにフラフラと左右に揺れていて、今にも倒れてしまいそうだった。

 そんな近藤くんのためにも、僕は壇上の校長先生に向かって必死に思念を送る。

 お願い。校長先生、気付いて。今あなたの眼前ではその熱中症の危険に晒されている生徒達が何人も居るのです。頼みますから、その三十分以上お続けになられている演説を、もうお止めになってください。

 しかし、どうやら想いは届かなかったらしい。しわがれた声は体育館に響き続ける。無念。

「ぐはぁ」

 僕は疲れた犬みたいにべぇと舌を出して、既に身体と一体化しつつある、汗でピッタリとくっついたシャツをはためかせて風を送る。余計に疲れるだけだったので、すぐに止めた。

 寝起き時のように、とろんと半分開いた眼で周囲を見渡す。

 そして、驚くべき事実が発覚。

 体育館にいる全ての人間が、この悪魔のような暑気にやられてしまい、近藤くんのように前後左右と揺れているのだった。壁際に立つ先生達も例外じゃない。皆が皆、ゆらゆらと揺れている。

 ゆらゆらゆらゆら。

 僕はその姿を見て、昨日食べたお好み焼きの上に乗っていたカツオブシを思い出していた。体育館の中を踊るカツオブシたち。想像したらかなりシュールだ。

「ぐへぇ」

 せめて座らせてくれたらいいのに、と僕は思った。

 あっ、でもそしたら体調が悪いのか寝ているかの判別がしにくくなるか。さすがに倒れたりなんかしたら、周りもただ事ではないと気付くしな。意外と考えられてるなチクショー。

 湯水のように湧き出るくだらない思考を処理し続けながら、僕がカツオブシ観察を続けていると、

「んっ?」

 僕の並んでいる隣の列、その前方の一人の人間だけが、他のカツオブシたちとはかなり様子が違っていた。

 そいつだけが、まるで糊のきいたワイシャツみたいに、姿勢の良いピシッとした直立をして、校長先生の戯言に真面目に耳を傾けているのだった。

 背中にまで伸びる、綺麗な黒髪が特徴的な女子だった。しゃんと伸びた背筋も相まって、後ろ姿だけなら中々の美人と伺える。

 けれど、彼女が後ろ姿だけじゃなく、容姿までもが不備なく整えられていることを、僕はよく知っていた。

 それは、何故かって?

 答えは簡単である。なんせ僕は、生まれた時からずっと彼女のことを見てきたのだから。

 彼女こそが、僕が幼馴染みなのか友人なのか親友なのかその他なのかを呼びかねている張本人。Aなのだった。


 終業式と帰りのホームルームを終えて、担任の先生も冷房の効いている楽園、職員室へと帰還した後の放課後の教室。

 まだ下校するのにも早い時間なので、クラスメイトの大半は教室に居残り、めいめいに夏休みの予定を話し合っていた。

 ちょいと耳をそばだててみれば、様々な話が聞こえてくる。国内旅行に行く者もしかり、海外旅行に行く者もしかり、全く羨ましい限りである。

 そんな僕は、もちろん夏休みの予定などなにも埋まっていない。真っさらさらの白紙だ。けど、今年もたぶん、男子連中と遊んだり、Aと一緒に過ごしたりするのだろうと漠然と考える。

「けど、その前にこれだよなぁ……」

 散々目を逸らしてきたが、いい加減向き合わなければいけない。

 僕は目の前にどっちゃりと積まれた夏休みの宿題たちを、不倶戴天の敵の如く睨めつける。

 私立の小学校でもないのに、なんでこんなに宿題の量が多いのだろう。しかも、これに加えて自由研究までやれというのだから、尚更たちが悪い。

 はぁ、と小学生らしからぬ物憂気な溜め息をついて、ランドセルに宿題を詰め込んでいく。しかし全部入り切らないのに無理矢理詰め込んだせいか、ランドセルの口を留めることが出来なくなった。

 こんのヤローと歯を食いしばりながら、なんとか口を留めようと悪戦苦闘してみるが、ことごとく失敗する。

 もう入り切らない分は素手で持って帰ろうかなと諦めかけていると、スッと横合いから青い布地の手提げ袋が差し出された。

 Aだった。

 彼女は僕とは違うクラスなのだが、下校時間になると必ずこの教室に現れる。

「ありがとう」

 と、僕がAから手提げ袋を受け取るのを、教室の男子連中が羨ましそうに見ているのに気付いた。

 長いあいだ一緒に居るせいか、僕にはこれっぽっちも理解出来ないけれど、どうやらAは周りからはスゴく魅力的な女の子に見えているらしいのだ。

 彼女に告白をして玉砕されていく男子たちを、僕はその横でイヤというほど見てきた。本当、漫画みたいな話だよね。

 だけど、僕も傍観者ばかりでいられた訳じゃない。ここで少しばかり、厄介な問題が勃発する。

 Aは、あまりにもモテ過ぎてしまったのだ。

 それの何が問題なのかというと、ずばり僕があらぬ誤解をされて、とばっちりを受けたという所以である。

 学校内でも、僕とAは一緒に居ることが特別多かった。

 別に自分のクラスに友達がいない訳じゃないだろうに、Aはちょくちょくとこの教室に現れては女子と会話をし、必ず僕とも言葉を交わした。

 すると、どこからともなく視線の矢が飛び始めるのだ。標的は僕。女子からの熱い視線だったら大歓迎なのだけれど、そうは問屋が卸さない。飛んでくるのは野郎の怨嗟の視線のみ。なんら嬉しくない。

 と、ここらあたりで先に言っておくが、僕はAを一人の異性として見なしていなかった。

 僕の中では、彼女はあくまで仲の良いお隣りさんの範疇を出ない。友人としては好きだけど、恋人としては好きじゃない。そんな感じ。それは多分、この先も一生変わらないのだと思う。

 もちろん、このことはAに好意を寄せる男子たちにも、懇切丁寧に説明してやっていた。だというのに、彼らはからきし納得してくれない。男女一緒に居れば誰でも恋人に見えるのかお前らは。

 とにかく、彼らがそんな盛大な勘違いをしてくれたおかげで、僕は多種多様な嫌がらせを受けることになる。

 廊下を歩けば足をひっかけられ、給食になれば僕の分のデザートが消え、書いたはずの日誌はいつの間にか白紙に変わり日直がやり直しになる……。

 なんとも地味な嫌がらせのラインナップではあるが、ストレスは確実に溜まっていく。いっそ殴り倒してしまおうかと何度思ったことか。

 それでも、体育館裏に呼び出してリンチ、のような直接的な暴力の類は一切合切なかったので、最初の内は見て見ぬフリをしてやった。

 恋が人を盲目にすることを、僕自身よく知っていたからだ。

 だがしかし、いくらこの寛容で寛大な僕でも、限度というものがある。仏の顔も三度まで。ある日、ついに堪忍袋の緒がブチリと音をたてて切れてしまった。

 翌日、僕はちぎれた緒をぶら下げて、目星をつけていた男子の一人一人に、こっそりと耳打ちしてやったのだ。

「あーあ、誰かさんのせいで僕がこんなヒドイ目にあっているってこと、Aに言っちゃおっかなー」

 と、わざとらしく言ってやると、その日の放課後から、あれほど僕を悩ましていた嫌がらせの数々が嘘みたいにピタッと止んだ。

 計画通り。

 誰だって、好きな人に自分がどう思われているのかは気になるものである。

 僕の告げ口のせいで自分の評価が下がってしまうのは、彼らからしてみれば非常に不本意なことだろう。作戦は見事的中したというわけだ。

 こうして、僕の華麗な知略戦のもと、彼らとの嫌がらせ戦争は終結したのだった。最後の最後まで暴力に走らなかった自分を褒めてやりたい。

 恋愛で勝負するなら、卑怯卑劣な盤外戦ではなく、正々堂々とやるべきなのだ。

 と言っても、今となっては過去の話なので、大して気にしていないのだけど。彼らとも既に、数回の会談の末に和解している。

 回想終了。

「ヨイショっと」

 入り切らなかった課題を手提げ袋に入れたおかげで、暴発寸前だったランドセルがいくらかスリムになる。そのかわり随分と重くなった宿題たちを右手に持つ。

「それじゃあ、行こうか」

「うん」

 Aはそう言って頷くと、いつものように僕の隣に並び、さりげなく手を繋ごうとしてきた。それがあまりに自然な動作だったので、流れでそのまま手を繋いでしまいそうになる。

「や、やめろよ」

 が、僕は咄嗟に手を振り払った。そして、つい、反射的に右端のサユリの席に視線をスライドする。

 幸か不幸かはわからない。

 なにはともあれ、ふたりの視線は玉突き事故のように偶然ぶつかってしまった。

 実際には一瞬にも満たない時間。だけど、僕にとっては互いの瞳に映る自分が確認できそうな程の、濃密な時間。

 顔を逸らす。

「行こうぜ」

 何となく照れ臭くなって、僕はずいずいと前へ進んでいく。

 けれども、サユリの顔が見れて嬉しい反面、僕の足どりはあまり軽やかではなかった。

 これから、長い夏休みが始まる。なので、サユリともしばらく会えなくなる。

 その事実を思うと、胸がキュンと締めつけられるのがわかった。恋する乙女か己は、と自虐してみるけど、その自虐すらどこか心地よい。

 そして、振り向いてもう一度サユリを見たい衝動に駆られながらも、僕はなんとか教室を出たのだった。

 Aは、そんな僕の横をただ黙ってついて来ていた。


 帰り道。

 太陽のさんさんとした日差しを一身に受け、僕の身体は焼けるように熱を帯びていく。蓄積される熱を発散させるために流れる汗も、出て来ては直ぐに蒸発してしまうため意味をなしていなかった。

 帽子を被ってくればよかったな、と僕は今さらながら後悔する。頭がじりじりと焼けて、ものすごく熱い。日本人の黒髪が、この時ばかりは憎たらしかった。

 だが、熱中症寸前の僕とは対照的に、隣を歩くAは何故か涼しい顔をしている。

 汗玉一つすら浮かんでいないって、お前ちょっとおかしいだろ。体の中に冷却機でも搭載しているのかよ。ならよこせ。

「あっ、そういえばさ」

 と、僕はそこで終業式の時に考えていた疑問を打ち明けた。

「幼馴染みと友人と親友とその他、僕らの関係はどれに当て嵌まると思う?」

 こんなくだらない質問にも、Aは真摯になって考えてくれる。これも僕が好きな、彼女の良いところの一つである。

 Aは人差し指を唇に当てて少し思案顔になった後、至極あっさりと結論を告げてくれた。

「どれでもいいんじゃないのかな? 定義づけたところで、私たちの関係が変わるわけでもないしね」

 Aの答えに、僕は成る程とポンと手を打った。

 確かに、彼女の言う通りである。たとえ互いの呼び方をいくら変えたところで、僕らの関係に何か変化が生じるはずもないのだから、それも当然だ。

 例えるならば、僕たちの関係は平行線。どんなに進んだところで、交わることは決してない。ただ愚直に、前へ進み続けるだけ。つまり、何も変わらないってこと。うむ。

「〇〇ちゃんは、私たちの関係を何て呼びたいの?」

 Aが僕の顔を覗き込むようにして聞いてくる。どうやら、今度は僕が答える番らしい。

「うーん。散々悩んでたんだけどさ、やっぱし幼馴染みが一番いいんじゃないかな。なんだかんだ、それがしっくりくるし。ていうか、他の呼び方が思いつかん」

「そっか」

 彼女はニコニコとした表情を崩さぬまま、ゆっくりと頷いた。

 僕は、その仮面ともとれかねぬ完璧な笑顔を見て思う。

 そういえば、僕は笑顔以外のAの表情を見たことがあったっけ?

「それ、重そうだね」

 不意に彼女が、僕の重心を右に偏らせている最大の要因、手提げ袋を指差した。

「重いよ」

 僕は吐き捨てるように言った。

 願わくば、今すぐコイツらを投げ捨ててしまいたい。ハンマー投げの如く、ぐるぐる回った後にフルスイングで。それが出来たら、さぞかし気持ちがいいだろう。まあ、出来ないんだけどね。

 辟易として、ハァと息を吐き出す。

「にしてもさ、なんでお前は僕と違ってほとんど手ぶらなんだよ。夏休みの宿題はどうした?」

「私は少しずつ持ち帰ってたから」

 相変わらず、抜け目のないヤツだ。いつも行き当たりばったりの僕とは正反対である。その計画性のよさを少しは見習うべきなんだろうけど、おそらく僕には無理だろう。

「げふぅ」

 それにしても、本当に重い。腕はピンと張って痛いし、一歩一歩と歩を進める度に足は油がきれかかった機械みたいに動きが悪くなる。

 ……これは家までもつか怪しいぞ。

 体力は歩数と比例して減り続け、宿題投棄説がいよいよ現実味を帯びてきた頃、僕の頭の上でピカリと豆電球が光った。

 そうか、そうすればよかったのか。

「おい、A」

「なに?」

「これ、持って」

 僕はそう言って、Aに向かって四角く角張った手提げ袋を突き出した。

 我ながらフザケ腐った頼み事だと思う。仮にもし僕がAの立場だったとしたら、僕は真顔で依頼主の顔をビンタするだろう。十人いたら十人が断ること間違いなし、そんなお願いだというのにAは、

「いいよ」

 笑顔でそれを承諾した。

「くるしゅうない」

 僕は偉そうに鼻を鳴らして、ずしりという擬音が一番似合いそうな、重厚感あふれる宿題たちを彼女に手渡した。

「おっとっと」

 しかし、やはり重かったらしい。静止していられないのか、Aの身体は左右にふらつき、重心が定まらない。

「あ」

 どこか見覚えのあるその姿は、終業式の時に見たカツオブシたちと同様のものであった。

 唯一カツオブシ化を免れていたAまでもがこうなってしまうとは。非常に悔やまれる話だが、これで我が校の人間は校長先生以外、全員カツオブシと化してしまったらしい。なむさん。

 僕は心の中でひとり合掌した。

「それじゃあ、行くぞ」

「うん」

 そうして、僕らは再び歩き始めるのだが、またもや問題が発生。

 Aの歩くスピードがものすごく遅いのだ。

 僕が十歩進めば、彼女は五歩。僕が五十歩進めば、彼女は二十五歩しか進んでいない。必然、距離は広がっていく。このままでは日が暮れてしまうのではないかと僕は危惧した。

「さっさと歩けよ」

 立ち止まって、酔っ払いのように千鳥足で歩くAを非難した。

 ごめん、と声を上げて彼女も必死で歩いた。ついに冷却機が追いつかなくなったのか、彼女の額にもぽつぽつと汗が浮かび始める。

 僕の命令を忠実に遂行しようとするAの殊勝な態度は、心の片隅の加虐心を煽った。調子に乗った僕は、Aにさらなる任務を課す。

「ついでにランドセルも持ってくれ」

 背負っていたランドセルを手に持って、彼女に向かって差し出した。

「いいよ」

 Aはやはりそれを快諾し、いちど手提げ袋を置いてから、空いている胸のほうに僕のランドセルを取り付ける。

 背中に赤いランドセル、胸に黒いランドセルを着けているAの姿は、さながら日曜の朝に出てくる戦隊モノの巨大ロボットのようだった。

 僕は奇妙な姿でフラフラと動くAを見て、たまらず噴き出した。腹を押さえてげらげらと笑う。

 対してAは、いいかげん怒ってもよさそうなのに、変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。仏の顔は三度まででも、Aの顔なら五十度くらいまでは許してくれそうだ。

 と、やにわに横合いから視線を感じた。

 道路を挟んだ対岸の歩道を歩いている老夫婦が、険しい顔をしてこちらを見ているのだ。

 傍目から見れば、僕がAのことをイジメているように見えるのだろう。まあ実際、そうなのだけれど。

「むむっ?」

 待てよ。そう考えると、今の状況って結構マズくないか。

 僕は名探偵よろしく、顎に手を添えて考える。

 今さら言及するまでもないことだが、Aは人望もあれば人脈も豊富な人物である。

 そんな好人物が、僕みたいな訳のわからぬ輩にイジメられているのを誰かが目撃したら、一体全体僕がどうなってしまうのかは想像に難くない。

 間違いなく、僕は新学期から登校出来なくなるだろう。いや、比喩とかじゃなく割とマジで。それくらい、Aには妙な人気があるのだ。

 僕は目を皿にして首をぐるりと回した。幸い、周囲に我が校の生徒はいなかった。

 しかし、たとい高学年、低学年の生徒であっても油断してはならない。彼女には学年を越えた知名度がある。見かける生徒は全員Aの知り合いだと思っても過言ではない。それこそ、学校外の人間であってもだ。

 最後の最後まで注意深く目を凝らし、ようやく胸を撫で下ろす。

 危ない、危ない。僕は知らぬ間に自らの首を絞めていたらしい。気付いた自分、グッジョブ。

「前言撤回、ランドセルだけは僕が持つ」

 僕は依頼を即座に中断し、早く返せと言って手を突き出した。Aは不思議そうに目を瞬かせてこちらを見る。

「私なら大丈夫だよ。まだ持てるから」

「いいから寄越せって」

 僕は半ば無理矢理、Aから黒いランドセルを強奪した。

 すると、彼女は緩みきった頬をさらに緩ませて、ありがとうと何故か僕に礼をしたので、逆に面を喰らってしまった。

 なんだ、この、まるで僕が困っているAを助けてやったみたいな空気は。頼んだのは、そもそも僕の方だぞ。

「今のありがとうは、何のありがとうなんだ?」

 一応、聞いてみる。

「〇〇ちゃんは、私が重そうにしてたから助けてくれたんでしょう? だから、そのありがとうだよ」

「…………」

 もしかしたら、Aは案外アホの子なのかもしれん。他人のことを心配できるほど僕も出来た人間じゃないけど、ほんのちょっとだけ彼女の将来が不安になる。

 いや、Aがこういうヤツだってことは、僕が一番よく知っているか。

 やれやれ、と僕は呆れ気味に肩をすくめた。

 今までの経緯から見てもわかるように、Aは基本的に僕の頼み事を断らない。それが幼馴染みのよしみなのか、それとも別の何かなのかは知らないけれど。

 なので、僕は自然とAに甘えることが多かった。普通の人なら顔をしかめるような頼み事でも、Aなら笑顔で引き受けてくれるからだ。

 乱暴な言い方をすれば、彼女は何かと利用出来ることが多い。有能な秘書というよりも、僕専属の奴隷。

 どれ、試してみよう。

「A、お金を貸してくれないか?」

「いくら?」

 ほら、まず借りる理由じゃなくて借りる金額を聞いてきただろう。この時点で既に、彼女の中では僕にお金を貸すことは決定しているのだ。

 さて、次は金額である。

 僕は指を三本立てると、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら無躾に述べた。

「三万円」

 僕が提示した金額は福沢諭吉大先生が三人。小学生にとっては、紙幣よりも硬貨のほうが馴れ親しんでいるのが自然の摂理だ。樋口一葉先生どころか、野口英世すら珍しい存在。

 したがって、三万円という金額は言うに及ばず法外。僕が自由に使えるお金なんて、せいぜいその十分の一くらいである。

 けれどもAは、

「いいよ」

 断る素振りすら見せない。

 むっ。

 いささかムキになってきたので、僕はさらに畳み掛けることにする。

「返すのは来年になるかもしれない」

「うん」

「いや、もしかしたら就職してからになるかもしれない」

「うん」

「いやいや、さらに加えて出世払いになるかも」

「うん」

「いやいやいや、それどころかひょっとすると老後になる可能性が」

「うん」

「というか、くれ」

「うん」

「…………」

 とまあ、このような感じだ。

 最後の方はさすがにジョークだろうけれど、出世払いのくだり辺りまではおそらく本気であっただろう。A、恐ろしい子。

 〇〇ちゃん、と今度は彼女から声をかけられる。

「お金を渡すのは銀行に行ってからになっちゃうから、ちょっと遅くなっちゃうけど大丈夫?  あっ、でも、もし今すぐに必要だって言うのなら、このまま私の家に寄って。用意するから」

「えっ? あっ? うん?」

 ああ、マズイぞ。話だけがどんどん独り歩きして具体的になっていく。いい加減、脱線していく話に収拾をつけなくては。

「やっぱり、やめた」

 練り固まりつつあった話を一刀両断した。

 Aはきょとんとした顔で僕のことを見る。

「本当にいいの? 遠慮しなくてもいいんだよ? 私のことなら、気にしなくたって平気だよ?」

 不安なのか、Aは眉をハの字にして何度も念を押してくるが、僕はしつこいぞと言って一蹴した。

「お金のことはもういいから早く行こう。このままじゃ、昼メシに間に合わなくなるだろ」

 これ以上は聞きたくない。そう態度で暗に示し、僕はスタスタと先を歩いた。彼女も慌てて後を追いかけてくるが、依然として歩くのは遅い。

 それにしても――と僕は歩きながら思考を開始した。

 今のやりとりでも思ったが、やはりAはとことん僕の頼みを断らない。

 他人にNOと言えない者が多いこの現代日本。一見すると、彼女もそれにカテゴライズされているように見えるが、其の実違う。

 べつに、Aは誰にでもYESと言う訳じゃなかった。彼女はあれでいて、自分にも他人にも厳しい一面がある。YESと言う対象は、あくまで僕のみに限るのだ。

 まあ、そんなのは既にわかりきっていることだ。今更どうこう言う話じゃない。それよりも、僕が疑問に感じているのはその許容範囲の広さである。

 突き詰めれば、彼女だって普通の人間。自分が不快に感じる頼み事を、そう何度も引き受ける訳がない。YESとNOの線引きは、きちんと為されているはずだ。

 けれども、Aが引いている線はなんとも非常に不明瞭なのだ。駄目元で頼んでみたお願いが、あっさりと了承されるなんてことは多々あった。

 一体、彼女の許容範囲はどこからどこまでなのだろうか。その深淵さに、僕は時おり恐怖を抱いてしまうぐらいだ。

 ――あれ?

 と、僕はそこで、あることに気付く。

 いや、まさか、そんな訳ないだろう。

 僕は自分が抱いた疑問を解決しようと、目をつむって、記憶というビデオテープを何度も巻き戻しては再生した。が、蓋し思った通りだった。

 マジかよ。

 僕は、今までに一度だって、AにNOと言われたことが無いじゃないか。

 いくら過去を顧みても、結果は同じだった。僕が彼女にNOと言われたシーンなど、一回も無い。言われた答えは、どれもこれも全てYESだ。

「…………」

 さすがの僕も、思わず眉をひそめる。

 もっとも、換言してしまえば、それほど僕が無理難題なお願いをしていないとも言える。だけど、それを差し引いても少しおかしい。

 不満というものは、解消されることがなければ次第に溜まっていく。そして、溜まったストレスは確実にその行動に反映される。

 しかし、Aにはその片鱗すら見えなかった。思い返されるのは、喜色満面の笑顔。そして、口から出る言葉はYES。

 冷たい汗が、背中をつたう。

 ほんの刹那のことだったけれど、僕はAという人間がわからなくなった。長い時間をかけて確立されてきた、彼女の人物像に、少しだけヒビが入る。

 ――Aって、どんなヤツだったっけ?

 と、考え事をしながら歩いていたせいか、いつの間にか彼女を大きく引き離していたことに気付く。

 後ろを振り返れば、親指ぐらいの大きさのAが、ふらふら歩いているのが確認出来た。

 僕はランドセル越しにガードレールを背もたれにして、彼女のことを待つことにする。

 ジジジ、と音をたてながらセミが近くの電柱にぶつかった。羽を目一杯に動かして、セミは不規則な軌道を描き、空を駆けて行く。

 僕は視界から消えていくセミをぼんやりと眺めて、これから夏休みが始まるんだな、と改めて実感した。気が付けば、先ほどの嫌な感じも、もう消えていた。

「そうだ」

 そして、ふと、脳裏に浮かぶある考え。

 僕はニヤリと意味深な笑みを浮かべると、徐々に距離をつめてくるAを見つめた。

 ちょうどいい。なんせ、明日から夏休みなのだ。

 鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス。

 それを言ったのは誰だったか、今ではもう忘れてしまったけれど、要はそれと同じである。

 YESとしか言わなければ、NOと言わせてやればいい。

 AにNOを言わせること、これを僕の個人的な自由研究にしよう。

 初夏の訪れを感じさせる、夏休み前日の真っ昼間。

 その中で、僕は心中、一人そう誓ったのだった。

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