「人」
深い夜の闇の中で、ゴミ捨て場に打ち捨てられた黒い袋。他のゴミ袋とは違い、異様な様相を見せていた。不透明で外からはなにも見えないのだから、尚更だ。
「まぁ、こういうものほど、面白いものが入っていたりする」
と、ほざいて一人の男がその袋を手に取る。鼻歌まじりで開けば、男はやっぱりねという顏を見せた。
中に入っていたのは、まだ生後六ヶ月になるかならないかの、赤ん坊だった。
ぐったりとして、動くことはない。どころか、首が異様に曲がっており、骨も折れているのではというくらいだ。そして、息もしていない。
赤ん坊であって、赤ん坊ではない。ただの屍とも、言うべきか。
「昔、子返し、と言うものが東北地方で流行ったらしいね」
男は赤ん坊を取り出し、まるであやすように抱きかかえる。
「飢饉やらなにやらで、子供を育てられない親が、産んでしまった子を殺したんだってねえ。生まれたての赤ん坊はまだ人間とはっきりしていないわけだから、殺して天に返しても問題ないという話」
男は依然語る。
「でも、それを忌むために、とある絵馬が描かれた。母親が赤ん坊を殺す絵馬だ。僕も見たことあるけど、あれは不気味だね。特に、母親の心のうちに鬼が隠れているような描かれ方が。子を殺す親は鬼でしかない、そんな感じさ」
全くだと、男は嘲る。そして、振り返ってこう続けた。
「あなたはどうなんですか、そのところ? あなたは、自分を鬼だと思いますか?」
悪どい笑みの眼に映るのは、一人の母親だった。みすぼらしい画をそのまま体現したような、母親。
母親は、なにも答えない。
答えられるはずが、無かった。
「語り得ないことには沈黙するしかない、と言うやつかな? いやどうだろうか? この言葉を発した哲学者は、こんなところで使って欲しくは無かっただろうけどね。どうでもいいけどさ」
くつくつと笑い、男は女性に近づいた。虚ろな目を、底意地の悪い眼で見る。途端に、母親は嫌な気分になり、一歩下がる。が、男の眼からは逃げられない。
蜘蛛の巣にかかった蛾は、蜘蛛からは逃れられない。
「……も、もうやめて……ください」
母親は言った、頼りなく震えた口元から、押し出すように。
「わかり……ましたから、もう、ほんとに……」
ポロポロと溢れ行く涙、顔を塞ぐ痩せた手、うずくまる小さな体。母親は、もはや母親ではない。ただの弱い、女だ。その弱さが、自らの血を分けた子を、殺したのだろう。
「ごめん、なさい。ごめ……なさ……」
声がかすれて、懺悔の言葉も聴こえない。嗚咽がただ漏れる。
「せいかつが、くるしくて……ちちおや……も、にげ、て……どうしよ……も、なく、て、それ、で、そ、れで……」
後悔の涙は、どうしようもなく落ちていく。
男は、そんな女性を慰めるように撫でる。髪から頰にかけて、ただそっと。そして言った。
「あなたは、子供を殺してまで生きたかったんでしょう? 僕はそれをいいと思うよ」
「……え?」
「あなたは生きたかったんだ。どうしても。せっかくの子を殺してでも、あなたは生きたかった。それはいいと思うんだよ、僕は。あの子返しに描かれた鬼なんかじゃない、それこそ人のあるべき姿さ。それにどうせ人間一人ぼっちなんだ。人は一人で立っている。それは『人』と言う文字が表しているじゃあないか。あなたは子を産んで育てる『母』になるよりも、他人をないがしろにしてまで生きる『人』を選んだ。『人』こそ、人間の本来の性格なんだよ。あなたは、それを曝け出したに過ぎない。だから尊敬するよ、僕は」
そこにあるのは、天使のような悪魔の笑み。
女は、何も言葉にできなかった。指一つも動かすことができなかった。恐怖が女の枷となっていた。
「さぁて、『人』となった貴方は、これが見つかってしまうとまずいわけだ。警察に捕まってしまうわけだ」
ひっ、と女は怯えて後ずさる。そう見せたのは、女が殺した我が子の姿だった。
だが、男の行為はまだ止まらない、
男は、さらに追い討ちをかけるように、それに油をかけて、マッチに火をつける。
「な、なにを、する……の」
「何をする? 決まっているじゃないか。貴方を警察から捕まらないようにするんですよ。尊敬する貴方を、助けるんです」
そして、マッチは投げられた。
途端に燃え上がる火柱。赤ん坊を贄に、轟々と立つ。
「これほど綺麗な火柱はないね、まるで貴方が『人』として生きていくのを歓迎するみたいじゃあないか」
くつくつと笑いながら、男は夜の深淵へと消えていく。
女は追うことも、非難することもできず、そこにいる。
慟哭とともに、火柱は立つ。
『ーー昨夜未明、女性の焼死体が発見されました。』
十二月六日の新聞より抜粋。