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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第8話 焦土の町で

 どこもかしこも、敵味方が入り乱れて戦闘が繰り広げられている。今が何時なのかも、自分がどこを走っているのかも分からない。疲労と空腹、睡眠不足、なにより久坂を失った悲しみから、心に大きな穴が開いているようだった。

 もう、碌に何も考えられない。混乱と無秩序が支配する中を、ただ夢中で駆けた。

 足がもつれ、無様に倒れこむ。眼前の虚ろな目をした兵士の死体に、ひゅっと息が漏れた。

 ゆっくりと顔を上げる。

 そこここに転がるもげた腕や、首のない死体。まだ息があるのか、うめき声をあげる兵士たち。折れた槍や刀、無残に踏みにじられた旗印。家財道具を背に、逃げ惑う町の人々。

 声が出ない。

 心臓が不規則に跳ねる。

 息ができない。

「――どこの藩の者か! 名は?」

 気が付くと、兵士が刀を草月に突き付け、誰何の声を上げていた。

「さては長州の者だな!」

 答えられずにいる草月を見て、兵士が刀を構える。

 逃げなきゃ、早く、早く。

 心は焦って急かすのに、体は凍り付いたように動かない。

 自分に向かって振り下ろされる銀に光る刀を、まるで他人事のように見ていた。


 ギィ……ン……!


 激しく刀のぶつかる音と共に火花が散る。

 必殺の一撃が草月の胴を薙ぐ寸前、横合いから抜きざまの刀が受け止めたのだ。

 草月を守るように間に入った男は、切っ先を下に刀身を滑らせて斬撃を受け流す。

 間を置かずに後足で踏み込み――、そのまま一気に斬り下げた。

 その間、わずか一呼吸。

 どうと倒れた兵士には目もくれず、男は、瞬きすることもできずに固まっている草月の腕を掴んで引っ張り上げた。

「こんなところで何をしている! 死にたいのか!」

 ――桂だった。

 その顔を見た途端、堰を切ったように涙が溢れた。

「桂さん、久坂さんが、久坂さんが……」

 それ以上は、言葉にならなかった。

 だが桂は、草月の様子から全てを察したようだった。

 痛みを堪えるようにぐっと眉間に力が込められる。

 固く瞳を閉じ、再び開いた時には一切の感情を切り離していた。

「とにかくここを離れるぞ。山崎に向かい、長州の兵と合流する」

 はい、と返事をした草月だったが、腰が抜けたのか、足に力が入らない。そんな草月を桂が叱咤した。

「しっかりしろ! 君は何のために京に戻って来た」

(何のため……。そうだ、泣いてる場合じゃない。皆の力になりたいって思ったんだ。生きて、伝えなくちゃいけない。高杉さんに、久坂さんの言葉を)

 涙をぬぐうと、しゃんと自分の足で立った。

 桂に続いて、必死で足を動かした。

 ようやく五条通りまで来た時、桂が左足をかばっているのに気付いた。

「もしかして、さっき、私を助けた時に?」

「たいしたことはない。少し挫いただけだ」

 だがその顔はかなり辛そうだ。

 手近な空き家に入り、二人はそこでしばし息をつくことにした。土間の水甕から汲んだ水で手ぬぐいを濡らし、それを桂の足首にあてがう。

「何か、痛みを取る軟膏でもあればいいんですけど……」

「いや、随分楽になったよ。ありがとう」

 この家の住人は、すでに逃げた後のようだ。拝借ついでに、草月は箪笥に残っていた女物の着物を借りてそれに着替えた。この状況では、この格好の方が目立たずに動ける。

 土間を探って、僅かに残った味噌と萎びた茄子を見つけ、二人で分けて空腹をしのいだ。

 夕方になり、桂の怪我も大分良くなったので、民家を出て伏見へ至る竹田街道へと向かった。

 だが――。

「まずいな。ここも幕府の手が回っている」

 伏見へ至る道は、どこも厳しく検問が敷かれており、容易に通れそうにない。やむなく二人は京市中に引き返した。

 折しも、藩邸から出た火と鷹司邸につけられた火が風にあおられ、瞬く間に京市中に広がっていた。それはまるで全てを呑み込む地獄の業火のように、三日三晩、燃え続けたのだった。


                     *


 幕吏の残党狩りは熾烈を極めた。

 天王山に引き上げた真木和泉らは、仲間を逃がすために僅かな人数で踏みとどまり、追って来た会津藩兵や新撰組に向けて一斉に銃を撃ちかけて一矢報いた後、陣屋に火を放ち、全員が割腹して果てた。

 三十石船に分乗して京を脱した兵は、大坂の外れまで来たところでそのほとんどが幕吏の監視の網にかかった。

 縄目の恥辱を受けるよりはと、多くの兵が自刃し、他の者たちも捕縛されたのち処刑された。

 頭を剃り、坊主に化けて京を出ようとした者もいたが、青々とした剃り跡を見とがめられて捕らえられた者も少なくなかった。

 そうした中、草月と桂はまだ市中に留まっていた。幕吏の目を逃れるために、空き家を転々としながら。

 通りの至るところには、無惨に打ち捨てられたままの長州藩兵の死体が転がっており、暑さで腐敗が進んでいるのか、すさまじい腐臭を放っている。

「ひどい……」

 込み上げる吐き気を必死で押さえながら、草月が呻いた。

「敗残兵の末路など、こんなものだ」

 そう言う桂の口調にも堪えきれない口惜しさが滲んでいる。

「……三条大橋近くの河原で炊き出しをやっているようなので、私、もらってきますね」

 椀を二つ懐に入れて、家を出る。

 焼け落ちた家屋を前に、呆然とたたずむ人々。

 子供を探す母親の声。泣きじゃくる子供の声。

 そこに、華やかだった京の面影は何一つとして見つけられない。

「こないなことになったんも、侍が戦なんか起こすからや」

「天子様はご無事やろか」

「三百年続いたうちの店が焼けてしもうた。ご先祖様に会わす顔があらへん」

 聞こえてくる怨嗟の声を振り切るように、草月は河原へ急いだ。

 河原には、着の身着のまま火を逃れた人々が、多数身を寄せ合っていた。炊き出しの良い匂いにぐうぐうと腹が鳴る。さっそく列に並ぼうと近づいた草月は、他の人たちとは離れて川辺に座り込んだ母子に目を留めた。

「……お絹さん!?」

 生きていた。無事だった。

 草月の胸は瞬時に沸いた喜びに溢れ、勇んで駆け寄った。

「お絹さん! たあ坊も! 良かった、無事だったんですね!」

「――触らんといて!」

 肩に触れようとした手は邪険に払いのけられた。あからさまな拒絶に、草月は戸惑って手をさまよわせた。

「お絹さん? あの、どうかしたんですか? どこか怪我でも――」

 言いかけて、はっとして言葉を飲み込んだ。

 お絹に抱きしめられたまま、ぴくりとも動かない太助の体。

 まるで眠っているような、でもどこか違和感のある――。

「たあ……、坊……」

「あんたらのせいや」

「……え?」

「あんたらのせいで、太助は死んだんや。煙に巻かれて、気い付いた時にはもう息をしてなかった。あんたら長州が、戦なんかするからや。この人殺し!」

「――っ!」

 返す言葉がなかった。

 何事かと周囲の目がこちらに集まる。

「長州!?」

「長州やて?」

「長州もんがここにおるで!」

 殺気立った人々の目が恐ろしかった。

「ごめん、なさい……」

 やっとのことでお絹にそれだけ言うと、逃げるようにその場を離れた。

「どうした、炊き出しはやっていたのか」

 ふらふらと隠れ家に戻った草月は、桂の声で我に返った。

「あ……」

 すっかり忘れていた。

「あ、あの、もう一度、行ってきます」

「いや、いい」

 草月の様子に大方のことを察したのだろう。桂はそれ以上追及しなかった。代わりに、草月に座るよう促す。

「今後のことを考えていた」

「……はい」

「戦に負け、兵も壊滅状態の今、このまま京に留まっているのは、もはや無意味だ。だが、長州へ落ちる道は全て閉ざされ、海路も使えない。……そもそも、私に長州に戻る資格はない。この半年、諸藩の連合に奔走した結果がこれだ。ひとまず京を出て、地下に潜り、ひそかに工作を続けるつもりだ」

 懇意の対馬藩士・多田荘蔵の従者に出石出身の者がいるから、その人物に手引きを頼みたい、と桂は言った。出石は尊攘派の多い生野に近く、潜伏するには都合が良かったのだ。その人物なら草月も何度も会って良く知っている。

 草月はさっそく、日が落ちるのを待って対馬藩邸へ忍んでいった。長州藩邸周辺はすっかり焼けてしまったが、幸い、対馬藩邸は延焼の被害を免れていた。桂の使いだと言って中に入れてもらい、廣戸甚助なる者を呼んでもらう。事情を話すとすぐさま助力を受けあった。

「桂さん、草月です。ただいま戻りました」

 草月の案内で後ろから廣戸が続く。さらにその後ろから入ってくる人物を認めて、桂は思わず息を呑んだ。

「幾松――! どうして……」

「私が知らせたんです。きっと心配してると思って」

 幾松は真っ直ぐに桂に歩み寄ると、すっとその手を取った。一瞬浮かんだ切なげな表情に幾松が泣き出すのではと思った。だが実際は、いつもの凛とした声で桂の労をねぎらっただけだった。

「ちょっとやけど、おにぎりを握ってきたさかい、食べておくれやす」

 手にした風呂敷包みを開くと、重箱いっぱいにおにぎりが並んでいる。この三日、まともな食事をしていないので、何よりありがたい。草月と桂はむさぼるように食べた。人心地ついたところで、ようやく本題に入る。

「話は草月さんから聞きました。出石への手引きは、万事任せてください」

「すまんな、甚助。手間をかけるが、頼む。……草月」

 桂はずっと考え込んだように黙ったままの草月に目を向けた。

「君はどうする? 私としては、幾松のそばにいてやってくれると心強いんだが。私との関わりは知られているから、その事で何か危害を加えられるかもしれない」

「桂はん」

 草月が答えるより早く、きりりと柳眉を釣り上げた幾松が有無を言わせぬ強い口調で言った。

「心配してくれはるのは嬉しゅおす。せやけど、あんまりおなごを見くびらんといておくれやす。自分の身くらい自分で面倒見れます。そやろ、草月はん」

 幾松の言葉に励まされ、草月は桂に向き直った。

 久坂や来島、大勢の仲間たち、そして、太助の死。

 お絹や、京の人々の怨嗟の声。

 受け止めるにはあまりに重い、この現実。

 でも、ここで立ち止まってしまったら、きっともう進めなくなる。だから、今はただ前を向いていよう。これで長州が滅んでしまったら、この戦の全てが無意味になってしまう。

「桂さん、私を長州に行かせてください」

「何?」

「長州には今、外国の艦隊が迫っています。この上、外国とも戦ったら、長州は本当に滅んでしまいます。イギリスにはジュードさんがいる。戦を回避するために、私にも、何かできることがあるかもしれません。それに、私、久坂さんと約束したんです。久坂さんの言葉を高杉さんに伝えるって。だから、どうしても行かなきゃいけないんです」

「だが、長州への道は……」

「大丈夫、男の人なら警戒されても、女の私ならきっと通れます。お願いします。行かせてください!」

「……分かった。くれぐれも気を付けろ。……長州を、頼む」


                   *


 伏見へ至る街道は、戦から数日が過ぎた今も、やはり幕吏が検問を敷いていた。脇の木立に隠れて様子を見ていると、男に限らず、女でも詳しく調べられている。

(どうしよう……)

 着物の襟内には、桂が書いてくれた紹介状と、藩庁への報告書が縫い込んである。それだけならば、まだ見つからない可能性もあったが、問題は着物の帯の間に隠した短筒と懐中時計だ。捨てていく、という選択肢は草月にはなかった。

(もし見つかったら、町で拾ったとでも言い訳しよう。一か八か、行ってみるしかない、か)

 意を決して踏み出しかけた時、それを遮るように女が現れた。

「お絹さん、どうして……?」

「ここで待っとったら、会えるんやないか思て」

 お絹はきゅっと唇を引き結ぶと、決心したように近づいてくる。

「草月はんには、一度、太助の命を助けてもろた恩がある。太助もよう懐いとった。せやから……」

 お絹は横の林を指さした。

「そこに、地元のもんしか知らん抜け道がある。ついてきて」

 二人はしばらく無言で歩き続ける。やがて、お絹がぴたりと足を止めた。

「そこを真っ直ぐ抜けたら伏見や」

「……あの、ありがとう」

「礼なんか言わんといて! うちはあんたらのこと許したわけやない!」

顔を背けたお絹の表情は見えない。

「……ただ、ここで見捨てたら、きっと太助が悲しむ思ただけや」

 早足で去って行くお絹の背に向かって、草月はそっと手を合わせた。

 無事に伏見へたどり着いた草月は、かつて坂本龍馬に連れられて行った旅籠『寺田屋』を訪ねた。女将のお登勢は草月のことを覚えていて、無事な姿を見て喜んだ。事情を話すと、西行きの船に乗れるよう手配してくれると言う。

「出航までにはまだ間があるよって、お風呂、入って行きよし。寺田屋お登勢の名に懸けて、そないにひどいなりした娘はんをそのまま送り出すわけにはいかしまへん」

 お登勢の口調には有無を言わせぬ迫力があった。

 有り難く風呂に浸かり、全身に付いた汗や戦の垢を洗い落とす。

 お登勢が用意してくれた清潔な着物に着替え、見違えるようにこざっぱりとした草月を見て、お登勢は満足そうに微笑んだ。

 出航の時間が迫り、礼を言って宿を出ようとすると、

「これも持って行き」

 おにぎりが入った竹皮の包みを渡される。そればかりか、当面の生活費として、小金まで持たせてくれた。

「何から何までお世話になって……。本当に、本当にありがとうございます」

 お金はいつか必ずお返ししますと頭を下げる草月に、

「ええから貰っといとくれやす、うちは人の世話が道楽なんやさかい」

 お登勢はからから笑って取り合わなかった。

 かくして草月は船に乗り、長州へ向けて旅立った。

 皆は無事なのか。

 外国艦隊は、まだ攻撃を開始していないのか。

 尽きぬ焦燥を乗せて――。


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