第7話 戦の果て
事態は膠着状態のまま、七月十七日を迎えた。
日に日に兵力を増す長州に、これ以上の交渉引き伸ばしは危険と判断した朝廷は、ついに武力討伐を決定。長州は朝廷から、十八日限りの退去を命じられた。
これを受け、家老の福原越後は他の家老や諸隊幹部らを山崎の男山にある石清水八幡宮に招集。長州の進退を決める最後の軍議が行われることになった。
(もしそれで進発と決まれば、本当に戦になる……)
不穏な空気を感じ取ったのか、京の人々は家財をまとめて付近の村落へ逃げる支度を始めるなど、市中でも混乱が起きている。
草月は、ばたばたと慌てたように行き交う人々の間を抜けて、島原の桔梗屋を訪れた。 風呂敷に包んで連れて来た小萩と三匹の子猫をそっと出してやると、辰路をはじめとする芸妓たちは一様に口元をほころばせた。
「いやあ、かいらしなあ。何て名前なん?」
「母猫は小萩です。青い紐を付けてるのがソバ。緑がムギで、桃色の小さいのがツユです。ご迷惑をおかけしますが、小萩たちのこと、どうかよろしくお願いします。落ち着いたら迎えにきますから」
「へえ。まかせとくれやす」
お引きずりの着物姿の辰路たちはこれからお座敷へ行くところだ。あまり邪魔もできない。暇を告げて帰ろうとした時、息せき切って、角屋の使いだという男が飛び込んできた。辰路を訪ねて、角屋に久坂が来たというのだ。
「―――久坂はんが!?」
「へえ。せやけど、今の状況で、久坂様を座敷に上げるわけにはいかへん。主がそう申しまして、久坂様も無理は言わんと帰らはったんどす。今なら、追いかければまだ間に合うかもしれまへん」
瞳を揺らした辰路に、草月は思わず言っていた。
「辰路さん、行って!」
「せやけど、これからお座敷が……」
「それやったら、心配あらへん」
「せや、辰路さん姉さんが戻るまで、うちらがちゃあんと繋いどきますよって!」
女将や妹分の芸妓たちも口々に言う。
「――っ、おおきに!」
裾をからげて、辰路が店を飛び出していく。
(久坂さん、最後のお別れに来たんだ……)
進発は止められなかったのか。
「女将さん、皆さん、小萩たちのこと、くれぐれもどうかよろしくお願いします。……小萩、元気でね。ムギもソバもツユも、いっぱい食べて、大きくなるんだよ」
最後に一匹ずつぎゅっと抱きしめて、未練を断ち切るように立ち上がる。
河原町の藩邸に戻るとすぐ、乃美が藩邸に残る僅かな人員を集めた。
「軍議は進発と決した。明日の夜、伏見の先発隊が進軍を開始する。各自、荷をまとめ、戦に備えよ」
*
替えの着物に、櫛や手鏡、化粧品などの身の回り品。
現代から持ってきた携帯端末、長州の仲間をはじめ、友人たちと交わした手紙の数々、懐中時計、薄桃色のきれいな小石……。
(江戸に来た時は身一つだったのに、いつの間にこんなに荷物が増えていたんだろう――)
その一つ一つに思い出がある。
本当は全部持って行きたいが、持ち運べる量には限界がある。わずかばかりの手回り品を風呂敷に入れ、他は部屋の隅にまとめて置いた。
この戦は、ともかく嘆願の名目で御所へ乗り込み、会津を朝廷から引き離し、天皇を奪うことさえできれば、長州の勝利だ。
(嵯峨からは来島さんや所先生が、山崎からは真木様と一緒に山田くんや品川さんが……。それに、伏見からも……)
手持ちの地図を広げ、そこに書かれた地名を指でそっと辿る。
地図のあちこちに朱色で記された印は、草月が幕末に来ることになった原因、坂本龍馬暗殺の現場にあった屏風を探して、皆が聞きこんでくれた家々だ。……最近はそれどころではなくて、すっかりご無沙汰になってしまっているが。
滑らせた指が、御所の南、堺町御門近くにある鷹司邸で止まる。
ここには、あらかじめ久坂や寺島らが詰めて、真木達の隊が来るのを待つことになっている。
進軍開始は明日の夜。
(……どうか、みんな無事でいて。もう、誰も死なないように)
*
そして、翌、十八日深夜。
草月は乃美ら藩邸に残った者たちと共に、広間に集まっていた。桂には幾松のもとにいろと言われたが、草月自身が藩邸にいることを望んだのだ。
何もできなくても、せめて少しでも状況が分かるところに居たい。
すでに進軍開始予定時刻を過ぎている。順調にいっていれば、そろそろ京市中へ差しかかる頃だ。
ただ待つばかりの時は恐ろしく遅い。
戦況はどうなっているのか。
久坂は、桂は、山田は、品川は、有吉は、寺島は、来島は、所は――、皆は無事なのか。
今、どこを進んでいるのか。
疑問符ばかりが頭を占める。
やがて、空が白み始めるとともに、遠くでかすかに聞こえていた砲声が、だんだんと大きくなり、周囲の兵の動きも慌ただしさを増した。
(来た……!)
駆り立てられるように藩邸の屋根へと上る藩士らに続いて、草月も梯子を駆け上がる。黄色から薄青へと美しい色に染まる空の下、市中のあちこちから不気味な黒煙が上がっている。
一番の激戦区はやはり御所のほうだ。
建物の合間に見え隠れする様々の旗印の中に、長州の旗はないかと必死に目を凝らした。だが、この距離ではまるで見分けがつかない。
時を追うごとに砲撃は激しくなり、絶え間ない轟音に耳が麻痺してくる。
すぐ目の前の通りを、槍を手にした一隊が走っていく。
そうして、どれだけ時が過ぎただろうか。
突如、藩邸の塀を乗り越えて満身創痍の兵が飛び込んできた。兵士はもつれる足取りで乃美の前に出ると、力尽きたように倒れこんだ。乃美がその体をがっしりと支える。
「おい、どうした、しっかりしろ! 戦況はどうなっている!」
「く、公家門を攻めていた来島又兵衛殿が、薩摩の兵に撃たれてお討ち死に! ……隊は総崩れになりました!」
思いもよらない知らせに、一同は言葉を失くして立ちすくんだ。
「――な、……んだと……。それで、他の隊は!? 来島と共に出陣した家老の国司様はどうなされた」
「国司様とは、御所の手前で兵を分けたのです。……ですが、薩摩兵の動きを見るに、あちらも、おそらく……」
「――久坂さん達は!? 御所の南を攻めてる真木様の隊はどうなったか分かりませんか?」
草月はせき込むように訊ねた。
だが男は力なく首を振るだけだった。
とても他の戦況を窺う余裕はなかったのだ。
「……御所の東が敗れたとあっては、たとえ真木殿の隊が善戦していたとしても長くは持つまい」
乃美はぎりぎりと歯を食いしばった。
「鳳さえこちらの手に入れば、この劣勢を覆せるのだが……」
しかし、天皇動座に向けて動いているはずの桂の動向はまるで分らない。
ついに乃美は断を下した。
「撤退する! 藩邸は放棄。書類や余剰の兵糧などは全て燃やせ! 各自、必要最小限の物だけ持ち、西本願寺へ向かえ。何が何でも長州に逃げ延び、再起を図れ!」
*
藩邸が燃えている。
皆で過ごした、思い出の場所が。無残にも、ごうごうと炎を上げて燃えている。
(負けたんだ……)
現実味のなかった言葉が、急に血肉を伴って全身に染み込んでいく。同時に、腹の底から冷たい恐怖が沸いてきた。
これから自分は、長州はどうなるのか。
頭が真っ白で何も考えられないまま、皆について、草月も藩邸を飛び出した。
はぐれないように走っていたはずが、周囲の敵兵を避けて右へ左へ行くうちに、いつしか散り散りになっていた。
土埃と煙で、ろくに前も見えない。
何かにつまずいて派手に転んだ。
目の前にあったのは、一文字に三ツ星の家紋。
踏みにじられて泥だらけになった長州の旗だった。
「――っ!」
それを見た瞬間、脳裏に久坂の言葉がよみがえった。
『たくさん揺らいで悩むうちに、これだけは譲れないというものが見えてくるはずだ』
――私にもある。譲れないものが。
皆を、大切な仲間を、助けたい。その思い。
それが、今の私の志。
草月はその旗をぐっと握りしめた。
一度心を決めれば、不思議と恐怖はなかった。土を払って立ち上がり、来た道を逆にたどり始めた。
久坂たちがいるはずの、鷹司邸へ向かって。
*
本来、不可侵かつ神聖なるべき御所に、絶え間ない怒号と砲声、剣撃の音が響く。
御所の南。堺町御門のすぐそばに位置する鷹司邸で、久坂は中に押し入ろうとする肥後・会津・薩摩藩兵と門を挟んで睨み合っていた。
刻々と不利になる戦況の中、最後の望みをかけて鷹司卿に参内の供をさせて欲しいとすがったが、それも断られ、もはや敗戦が避けられないのは明白だった。
共に邸内で戦っていた仲間の寺島忠三郎、有吉熊次郎、入江九一らも、再起をかけて決死の脱出を決行し、残ったのは久坂だけだ。
(弾丸もあと僅か……。せめて、あいつらが逃げ切るまでは、敵の目を引き付けておきたいけれど)
大きく肩で息を吐いた時、にわかに外でざわめきが起きた。
(何だ……?)
門扉の割れ目から、そっと外を窺う。
土煙の向こう。
弾雨の中を、甲冑も着けず、刀も持たず、身一つで飛び込んでくる人影がある。
修羅場には場違いなその姿に、敵兵も呆気に取られてそれを見つめている。
久坂はそれが誰であるかを認めて、驚きに目を見開く。
「――草月!」
草月は、久坂が慌てて開けた僅かな門の隙間に滑り込んだ。
直後、弾丸が、一瞬前に草月のいたところに着弾する。
「久坂さん!」
「草月! 何してるんだ! 幾松さんのところにいたんじゃなかったのか!? ここは戦場だぞ、一体どうして――」
「藩邸に残ってたんです。でも、藩邸は放棄しました。撤退です! 長州に戻り再起を計れ、と乃美様が!」
「撤退……」
分かっていたことだが、改めて口に出されると重い。
「久坂さん、私も見つけたんです。譲れないもの。どんなに怖くても、逃げ出したくても、大事な人を守るためなら、強くいられる。久坂さんも早く脱出してください! 有吉さんや寺島さんたちは!?」
「少し前にここを出た。残っているのは僕だけだ」
「なら、久坂さんも早く――」
「僕は行けない。ここで腹を斬るよ」
「な――」
どうして、と草月は久坂に詰め寄った。
その顔が苦痛に歪むのを見て、はっと手を離す。
左の太腿から、どくどくと血が流れ出し、巻かれた布はもはや元の色が分からない程に血で染まっている。
「久坂さん、足が……!」
「撃たれたんだ。ヘマをしたよ」
草月はまるで自分が撃たれたかのように泣きそうな顔をした。
「いいんだ。進発は止められず、戦にも勝てず、昔やった無謀な攘夷のせいで、今、長州を危険にさらしている。武士として、責任をとらなきゃいけない」
「いいえ、いいえ! 久坂さんのせいじゃありません! 心からこの国のことを考えてやったことじゃないですか! 誰も責められません。間違ったなら、次間違えなければいいんです。こんなところで、立ち止まらないで。あと数年、ほんの数年で日本は変わるんです。日本と外国が、自由に行き来して、いつか肩を並べる時代がやって来ます。……私は、」
草月は一瞬ためらって、それから思い切ったように最後まで言った。
「――私は、そんな国から来たんです」
「……ありがとう、草月。何より嬉しい言葉だよ。僕はたくさん過ったけれど、この過ちの果てに君の言う新しい時代が生まれるのなら、僕のしてきたことにも意味はあったんだと思える」
先ほどまでの焦燥の色はなく、いつもの穏やかな表情の久坂がいた。
(――もう、決めたんだ)
脳天を突き刺すような痛みと共に、草月は悟った。
これ以上、引き止めることは、……できない。
歯を食い縛り、必死で涙を堪えると、久坂を真っ直ぐに見つめた。久坂の顔を、目に焼き付けておきたい。
「絶対、絶対、この国を変えてみせますから!」
「うん。さあ、行け。そこの壁が崩れて隙間が出来ている。僕には狭いが、君なら通り抜けられるだろう。あちらはまだ敵がいない。必ず生き延びて、そして高杉に伝えてくれ――」
一言一言、噛みしめるように発せられた久坂の言葉を、草月はしっかりと胸に刻み付けた。
必ず、とくぐもった声で答えて、衝動的に久坂に抱き付いた。
時が止まる。
永遠にも思える一瞬の抱擁。
そして――。
草月は身をひるがえし、その姿は壁の向こうに消えた。
手のひらに残った温もりを名残惜しげに握って、久坂は足を引きずり、手頃な場所を見つけると脇差しを抜いた。
外の喧騒がやけに遠い。
(草月、生きろよ―――)
*
*
土煙の中、飛び込んでくる君を見た時、死ぬとかそんなことは頭のどこかへ吹き飛んで、とにかく助けなければと必死だった。
いつだって君は、思いもよらない行動をして、僕らを驚かせる。
君なら、きっと、僕にできなかったことをやれるだろう。
ああ、空が青いな。
本当に、きれいな空だ――。