第6話 止まらない進発
京の南西、山崎にある天王山。
その山腹に建つ宝寺に、長州の陣営の一つが置かれている。
藩主父子の赦免嘆願という名目で、はるばる長州より軍を率いて上京したのが六月の下旬。幾度も朝廷に嘆願書を出したにもかかわらず、打開の兆しは一向に見えないまま月が替わった。いたずらに日々を過ごすばかりの状況に、陣内の鬱憤は爆発寸前だった。
(何か手を打たんと、兵が暴発するのは時間の問題じゃぞ)
兵の一人、山田市之允は、手入れの終わった銃を片付けると、気分転換に外へ出た。
とうに陽も落ちたというのに、まったく気温が下がらず、明々と焚かれたかがり火が、さらに暑さを助長している。
じっとりと熱をはらんだ生ぬるい風に呼吸さえ苦しくなるほどだ。
流れる額の汗を乱暴に拭った時、門の方から見張りが誰何する声が聞こえてきた。
「――だから、私は怪しい者じゃありませんって!」
すわ敵か、と身構えた体が硬直する。
(この声、まさか……)
間違えようはずもない。
ずっと聞きたくて、でも聞けなかった声。
「草月――?」
「――っ、山田くん!?」
こぼれんばかりに目を見開いて、男装姿の草月がこちらを見ていた。
*
俺の知り合いだ、と言って見張りを下がらせた後。山田と草月は差し向かいで対峙していた。
京に戻って来たとは聞いていたが、会うのは、あの最悪な別れ以来だ。お互い何を言って良いのかわからず、気まずい沈黙が落ちる。
そして――。
「「ごめん!」」
思い切って下げた頭と言葉が重なった。
おずおずと顔を上げて――、同時に、ふいっと気の抜けたように笑い合う。
それだけで、会わなかった月日が一気に縮んだような気がした。
「……久しぶりだね、山田くん」
「うん。お前も……、元気そうで良かった」
最後に見たのは、傷つき、泣き出しそうな顔だった。
でも今は、
「ずいぶんと袴装が板に付いちょるな」
あの頃にはなかった強い意志を宿す瞳がある。
「江戸にいた頃は、この格好のほうが長かったんだよ。だから、自分としては元に戻った、って感じだけどね」
「けど、草月。何をしに来た? ここは陣中じゃ。規律を犯せば、おなごといえど処罰は免れん。それが分からん訳ではないじゃろう?」
「――乃美様の名代として参りました」
草月はすっと姿勢を伸ばし、口調を改めた。
「真木様と来島さんに取り次ぎをお願いします」
*
堂宇の一室に、真木和泉、来島又兵衛、久坂義助以下、主だった者たちが集まった。草月が差し出した乃美の書状に、真木が目を通す。
その間、草月は失礼にならない程度に真木を観察していた。
少し白髪の混じった髪。額と頬にはくっきりとした深い皺が刻まれており、五十二歳という年齢より少し老けて見える。だが、固く引き結ばれた口許と、強い目の光が強烈な存在感を醸し出している。
『久留米藩の神職の家に生まれた真木殿は、尊皇の志厚く、先年の政変の際には七卿と共に長州へ落ちた攘夷派の重鎮だ』
事前に乃美から聞かされた情報を反芻する。
『真木殿と来島が主戦派の急先鋒だ。この二人を説得できるかどうかに、長州の命運がかかっている。いいか、決して感情的にはなるな。事実のみを告げろ。共に激情に流されては、ただ怒りのぶつけ合いになるだけだ』
真木から書状を渡された来島は、一読するや、みるみる怒りに顔を紅くした。
「貴様が、正式な乃美の使者じゃと!? あの青瓢箪が! 万策尽きて、女を使いに寄越すとはな。どうせ自重しろだの世迷い言を言いに来たのだろう。話だけは聞いてやるが、儂は一歩たりと兵を退く気はないぞ!」
凄まじい大喝に、その場の空気がびりびりと震える。
(……そういえば、初めて来島さんに会った時、絵巻物から抜け出た戦国武者みたいだって思ったんだっけ)
物々しい具足に身を包んだ今の来島は、まさに古の戦国武者のようだ。
怒り狂った来島を前に、こうも落ち着いていられるのが自分でも不思議だった。
「撤兵云々を論じる前に、長州から重要な知らせが届いたので、まずはそれをお伝えします」
「……知らせじゃと?」
「はい」
非戦を説くなら大いに反駁してやろうと待ち構えていた来島は、出鼻を挫かれて僅かたじろいだ。
草月はゆっくりと深呼吸して、そして言った。
「イギリス、アメリカ、フランス、ロシアの四ヵ国艦隊が、先の攘夷戦の報復のため、長州に向かっています」
「――何じゃと!?」
「夷狄の船が!?」
集まった真木以下、隣の間で控えている山田らにも動揺が走る。
「イギリスに留学していた志道さんと伊藤さんが急遽戻って来て、異国との交渉役を買って出てくれています。異国のほうも、長州の出方によっては武力攻撃を回避する用意があるそうです。長州本土が危機的状況にある今、京で戦を起こすわけにはいきません。せめて長州の事態が落ち着くのを待ってはもらえませんか」
そこで初めて真木が口を開いた。低くて良く通る、深い声だった。
「待ってどうなると言うのだ? 我らは十分待った。何度も朝廷に嘆願書を送り、赦免を乞うた。考え得るべき平和的な手段は全て尽くした。しかし、朝廷も幕府もまるで動かぬ。事態は一向に変わらぬではないか」
「重々承知しております。……ですが、長州と京。同時に戦をなさるおつもりですか? たとえ避けられない戦だとしても、兵力の分散は、賢明な策とは言えないでしょう」
「――聞多と俊輔は、殿に戦をしないよう申し上げたんだろう?」
久坂が口を挟んだ。
「藩庁の意見は?」
だが、聞くまでもなく久坂には答えが分かっていた。
長州藩内には攘夷思想が根強い。藩士らは断固戦う道を選ぶだろう。志道と伊藤を売国奴と罵り、斬ると言う者さえいるかもしれない。
果たして、草月の答えは久坂の予想した通りだった。
「ならば、今すぐにでも御所に攻め入り、会津の手から天子様をお救い申し上げ、それから夷狄と戦えば良い!」
「来島さん、そう簡単にはいきません。万一、戦が長引けばどうします? 京の戦が終わるまで、異国に待ってくれとでも言うんですか」
「目の前で仲間を殺されて、よくもそんな冷静になれるな。貴様に心はないのか! 憎くはないのか!」
「憎いですよ!」
ついに草月は爆発した。
感情的になるな、との乃美の戒めも頭から吹き飛んだ。
「憎くないわけがない! 町で新撰組や会津藩士の姿を見かけるたびに、思ってます。何でこの人達は生きていて、皆はいないんだろうって。視線だけで射殺せるものなら、もう何百回殺したかしれない。でも、それでも、戦は最悪の手段です。それだけは絶対に避けるべきです!」
「小娘に戦の何が分かる!」
「小娘だからこそ分かることもあります! 京には、京に住まう人たちの暮らしがある。日々を生きている人たちがいます。所先生は、京を戦場にして人から謗りを受けるのも覚悟の上だと言ったけど、私はそうはしたくない。友達や、お世話になった人たち、皆さんのことを心から思ってくれている人……。長州に好意的な藩や公家も決して少なくはありません。みんな、状況を良くしようと動いてくれています。あと少し、少しだけ、待ってもらえませんか」
「そんなものは、戦をしたくないが為のただの言い訳に過ぎん! 武士なら敵と戦い、華々しく散るのみじゃ!」
「……わたしは、」
草月は強く拳を握りしめた。
「私は、友達の死を看取りました。身体中傷だらけで、切腹して果てようとして、それでも死にきれなくて、苦しんで、苦しんで……。死ぬことは、ちっとも美しいことじゃありません」
「黙れ!」
ひゅっと風が吹いて、気が付くと来島の抜いた刀が草月の首すれすれのところで止まっていた。
「武士を愚弄するか! これ以上の問答は無用! 去れ! 乃美の使いでなければ斬っていたところじゃ!」
*
悄然として外へ出た草月の背に、騒がしい声が近付いてくる。
「草月――っ!」
「待て待て待て、弥二! あの時のこと謝るんじゃなかったのか」
「それは謝る! 謝るが、栄太や望月君たちの恨みを忘れて、進発を止めに来たと聞いたからには、その後でもう一回絶交じゃあ!」
叫ぶ品川の後を山田と有吉熊次郎が追いかけ、さらにその後ろに久坂と寺島忠三郎が――こちらは走ることなく普通に――続く。
大騒ぎしながら走って来た品川は、草月を見るなり、仰天したように目を剥いた。
「ど、どうしたんじゃ、その髪は! まさか、尼にでもなったんか!」
長い髪じゃったのに、もったいない、と我が事のように悲しそうな顔をする。
「……変わってないですね、品川さん」
早とちりする癖も、思い込んだら一直線なところも。
でも、誰より仲間思いな人。
草月は懐かしそうに目を細めた。
「皆さんも、お久しぶりです。お元気そうで良かった」
「あなたも。……あの池田屋の一件の後、かなり荒れていたと聞いていましたが」
寺島が草月の袴姿を一瞥して、
「その様子だと、立ち直ったようですね」
「はい」
池田屋の名を聞くと、いまだツキリと痛む胸をそっと押さえて、草月は微笑んだ。
「それにしても、江戸以来か? その格好。なんかその方がしっくりくるな」
「有吉さんこそ。凄いですね、その顔。本物の熊みたいですよ」
「ああ、」
有吉は太い指でがしがしと盛大に無精髭の生えた顎をさすった。
「もともと毛深いほうじゃけえ、いつもはもっと気を使っちょるんじゃけど。こんな山の中じゃあ、なかなか手入れ出来んけえのう。……まあ、いざ出陣となったら、綺麗に剃るつもりじゃし、かまわんじゃろう。汚い髭面さらして死にたくないけえのう」
わっはっはと豪快に笑う有吉に、
「死ぬなんて、そんな簡単に言わないでください!」
草月はぞっとして言い返した。
その語気の強さに有吉は驚いたように目を丸くする。気まずい空気を破ったのは、ばちんという乾いた音だった。
一斉に皆の視線を集めた品川は、決まり悪そうに頬を押さえていた手を払って、
「いや、今、蚊が止まってたもんだから」
「……ああ、そういえば、私もここに登ってくる途中で三回刺されました。やっぱり山の中だと多いんですね」
「多いなんてもんじゃないぜ! 俺なんて、ここに来て何回刺されたことか! 寝てる時なんか最悪じゃぞ。ただでさえ暑くて寝苦しいのに、やっと寝入ったと思ったら途端に、ぷーんぷーんと飛んでくるんじゃ。まったく、幕府より先に蚊と戦うことになるとは夢にも思わなかった」
「うわあ」
聞いているだけで体がかゆくなる。
久坂が思い出したように言った。
「松陰先生は、小さい頃、勉強中に蝿に気をとられて叔父さんに張り倒されたらしい。それからは、虫が来ても平然としていたそうだよ」
「ひいい、すご! ……あ、でも、寺島さんもわりと平然としてそうですよね。何が起きても、心頭滅却と言うか……」
「人を仙人みたいに言わないでください」
寺島を除く全員が、ぶはっと吹き出した。そのまま腹を抱えて笑いあう。
憮然としていた寺島だったが、やがて諦めたようにため息をついた。
「まったく、あなたといると調子が狂います」
「す、すみません。変なこと言ったつもりはなかったんですけど」
「ええ、分かっています」
寺島の凪いだ湖のように静かな瞳が草月を捉えた。
「あなたは変なのが常態なんです」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。寺島の口の端にわずかに浮かんだ笑みを見て、からかわれたのだと気づく。
「――っ、寺島さん!? 真面目な顔して冗談なんてひどいですよ!」
「へえ、珍しい、寺忠が冗談を言うなんて」
「弥二、その呼び方はやめろと言っているだろう!」
わいわいと明るい声が響く。
こうして皆で笑いあえることが、ただ嬉しかった。今この時だけは、まるで江戸にいた無邪気な頃に戻ったようだった。ここが陣中であることも、長州を取り巻く厳しい状況も忘れられるほどに。
*
夢のような時間は長くは続かない。
固く再会を約して帰ろうとすると、久坂が、送ってくよ、と申し出た。
「これから河原町の藩邸まで帰るんだろう? 夜も遅いし、一人は危険だ」
「大丈夫です。下に船を待たせてありますから。それに、伏見の藩邸に乃美様が来ていて、復命したら、そのままそこに泊まらせてもらうことになってるんです」
「なら、せめて船に乗るまでは見届けさせてくれ」
重ねて言われ、草月はありがたく受けることにした。
正直、また真っ暗な山道を通らなければいけないのかと思うとかなり憂鬱だったし、なにより、もう少し久坂と話せるのが嬉しかったのだ。
足を滑らせないように慎重に山を下りながら、話題に上るのは他愛もない昔話。
草月に合わせてくれているのか、久坂の歩みはゆっくりだ。
汗だくになりながらようやく山を下りて、やがて大小の寺が建ち並ぶ一画に差しかかる。ふっと話が途切れ、僅かな間が空いた。
「……本当に、戦になるんでしょうか」
聞かずにはいられなくて、するりと言葉が口をついて出た。
「私、無理言って、乃美様の名代をさせてもらったのに、感情的になって、結局、来島さん達を説得できませんでした」
「無謀な進発には僕も反対だ。異国の艦隊のことを聞いたらなおさら。せめて世子様の到着を待つよう、僕からも説得してみるよ。……でも、万が一、戦と決したら、僕も戦うつもりだ。藩邸も必ずしも安全とは言えなくなるから、その時は幾松さんの所にでも身を寄せているといい」
「そんな――。久坂さんは、怖くないんですか? 死ぬかもしれないのに」
「大丈夫。僕だって、そう簡単に死ぬつもりはないよ」
久坂は安心させるように微笑んだ。
「でも、それと、死ぬ覚悟があるのとは全然別のものだ。国事を志した時から、僕はいつだってその覚悟が出来ている」
「覚悟……」
草月はその言葉をじっくりと吟味するように口の中で呟いた。
いつの間にか立ち止まっていた草月に気付いて、久坂も立ち止まる。
「久坂さん、覚悟って、どうやったら出来るんでしょうか」
「ん?」
「……私、自分では覚悟してたつもりだったんです。長州が大変な状況にあることも、京が危険なことも全部承知の上で、それでも力になりたいと思って戻ってきました。でも、いざ人の死を目の当たりにして、戦になるかもしれないと思ったら、たまらなく怖いんです。憎しみにとらわれてた時はそんなこと考えなかった。でも、所先生に諭されて、ちゃんと考えなきゃ、って思って、そしたら、急にすごく怖くなりました。全然、覚悟なんて、出来てなかった。それでも何か役に立ちたいという気持ちと、逃げ出したいという気持ちと、その狭間で揺らいで揺らいで、全然定まらない」
久坂は長い間、何も言わずに草月を見つめていた。
深い目だった。
草月のために、真剣に、言葉を探してくれている目だった。
「……揺らいで、いいんじゃないかな」
「え?」
「僕だって、一度も迷うことがなかったわけじゃない。――そうだ、これをご覧」
久坂はすらりと刀を抜いた。銀色に光る美しい刀身。それにそっと指を滑らせる。
「この刀だって、もともとはただの鉄の塊だ。それを何度も何度も打って鍛えることで、硬く鋭い刃になるんだ。きっと君も、たくさん揺らいで悩むうちに、これだけは譲れないというものが見えてくるだろう。それが君の志だ。悩んだ分、その志は、研ぎ澄まされて、何にも揺るがない強いものになるはずだ。それさえあれば、自然と覚悟は決まるはずだよ」
力を込めて言って、それから照れたように頭をかく。二年前に伸ばし始めた髪は、随分伸びて耳にかかるほどになっている。
「……、いや、おなごに向かって刀の例えはないか。辰路にも良く言われるんだ。僕はおなごに対する気遣いがなってないって」
「いえ、ありがとうございます」
久坂の言葉は、頭上にかかる月の光のように柔らかく草月の心を照らした。
「揺らいでいいんだって思ったら、すごく楽になりました。私、忘れません。久坂さんが言ってくれたこと。ずっとずっと覚えてます」