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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第5話 悲しみを越えて

 事態は混乱を極めた。

 様々な情報が錯綜し、何が確かで、何が間違った情報なのか分からない。

 生還した者達から切れ切れに語られる情報をつなぎ合わせ、おぼろげながらも当時の状況が見えて来たのは、まる一日が経ってのことだった。

 それは、単に凄惨という一言では到底言い表せないほどに酷い状況だった。

 ――あの夜。

 新選組は池田屋に踏み込むや、集まっていた志士たちに問答無用で斬りかかった。

 突然のことで刀を抜く暇もなく、あっという間に数人が斬られた。

 かろうじて応戦した者たちとの乱闘の中で明かりが消え、一寸先も見えぬような暗闇の中、剣撃の音と叫び声だけが響き渡る。まるで地獄絵に描かれたような阿鼻叫喚の有様が、まさに現実のこととして繰り広げられていた。周りの仲間を気にかける余裕などなく、誰もが自分が生き延びることに必死だった。

 そうして辛くも池田屋を脱出した者たちも、その多くが周りを固めていた会津藩兵に見つかり、命を落とした。

 実に、藩邸を出ていった者達の半数以上が帰らなかった。

 宮部鼎蔵、松田重介、北添佶摩、大高又次郎……。

 腕を斬られた杉山は、所が必死で治療に当たったが、その甲斐なく、翌暁息を引き取った。

 吉田は加賀藩邸前で息絶えているところを発見され、藩邸に運び込まれた。

 望月は――。

 藩邸の一室に安置された遺体を前に、草月は無言で両手を握り締めた。

「――草月」

 桂がそっと横に来て座った。

「……出来ませんでした」

 食いしばった歯の隙間から、草月は言葉を絞り出すように言った。

「介錯を頼まれたのに、私には出来なかった。望月さんは、苦しんで苦しんで死んでいきました」

「それでも、草月。彼の尊厳を守ったのは君だ。君がいなければ、望月君は無惨に殺され、亡骸は他の大勢の骸と共に粗雑に扱われていただろう。こうして懇ろに弔ってやれるのは、君がいたからなんだよ」

「そんなの――! そんなの、死んじゃったら、意味がない! どうして……、なんでこんな風に殺されなきゃいけないんですか!? みんなが何をしたっていうの!!」

 血を吐くようなその叫びに、桂はかける言葉を持たなかった。

(おめおめと生き残った自分に、何が言える)

 桂は、翌昼を過ぎても藩邸に戻ってこなかったため、池田屋で斬られたかと思われていた。だが、実際はその晩、彼は池田屋にはいなかった。

 彼は一度池田屋に行ったものの、早すぎてまだ誰も来ていなかったため、先に対馬藩邸に赴き、会合の時間を過ぎて話し込んでいたことで襲撃を免れたのだ。

 対馬藩邸と池田屋との距離はわずか通り一つ分。

 騒ぎに気付いて飛び出そうとした桂を、懇意の対馬藩士は体を張って止めた。

「今行ってどうなる? あなたを失えば、長州は、この国の未来はどうなる?」

 桂は留まるしかなかった。

 すぐ外では同志たちが必死に戦っている。

 その声を、叫びを、断腸の思いで聞きながら、桂は耐えた。


                 *


 望月たちの遺体は、長州に縁の寺で弔いを済ませた。

 祇園会の今日、町は祭りの雰囲気に浮かれている。

 遺髪を抱いて帰りながら、まるで桂と草月だけがあの夜に置きざりにされたように、喧騒から切り離されている。

 人混みの先に会津藩士らしき人影を認めた瞬間、草月の全身の毛がぞわりと逆立った。

 頭が沸騰したように熱い。

(あいつが、あいつらが、望月さんを、みんなを――)

「抑えろ、草月」

 鋭い痛みに、はっと我に返る。

 桂が草月の腕を強く掴んでいた。

「そんなに殺気立っていては、すぐに奴らに気付かれるぞ。気持ちは分かるが、今は堪えるんだ」

「でも……!」

 反駁しようと言いかけた言葉は形にならずに口の中で霧散した。

 桂の手が痛みを堪えるように小刻みに震えているのに気付いたからだ。

(そうだ……。辛いのは私だけじゃない。桂さんの方が何倍も辛いのに)

「……すみません」

 無理やり会津藩士から目を引き剥がす。

 藩邸に帰るまで、二人とも一言も口をきかなかった。

「草月、すまないが皆に飯を作ってくれないか」

 桂に言われて気付いた。

 そういえば、あの夜から何も口にしていない。

「はい」

 土間に行き、買い置きの野菜を取り出す。包丁を取り上げて――途端に、思い出が鮮やかに甦った。

 あの日ここで、望月と話したこと。

 祇園会へ行こうと約束したこと

 一緒に西瓜を食べたこと。

 ――『お疲れさん。暑かったじゃろう』

 今にも、あの明るい笑顔でひょっこりやって来そうな気がする。

 あれはほんのつい一昨日のことだったのに。

(今は、もう、いないなんて――)

 まな板にぽたぽたと涙が落ちる

(いけない――)

 だが、拭っても拭っても、涙は止まってはくれなかった。

 堪えきれずに嗚咽が漏れる。

 しゃがみこんだ草月の頬に、柔らかな温もりが触れた。

「小萩……」

 小萩は甘えるように体を擦り寄せ、そっと頬の涙をなめた。

 草月は小萩を抱きしめ、声を殺して泣いた。


                    *


 悲しみも憎しみも、薄まるどころか日増しに募った。

 だが、立ち止まってはいられない。

 池田屋の惨劇で大打撃を受けた長州の国事を建て直さなければいけないからだ。

 乃美は池田屋の件に対する断固とした抗議文を幕府に提出。長州系の公家達も、朝廷へ幕府の攘夷不実行を詰る文書や長州赦免の嘆願書を上書するなどして長州を援護した。

 桂は一刻も早く幕府に対抗する雄藩連合を作るために、これまで以上に諸藩の間を駆けずり回った。

 市中には残党狩りの巡羅兵が目を光らせている。

 桂が表立って動くことは極めて危険だったが、宮部や吉田を始めとする在京の有力志士が根こそぎ池田屋で失われてしまったため、もはや政治活動をできる人間が桂しかいないのだ。

 桂の意を受けた草月も、連絡係として京中を西へ東へ走った。

 忙しくしている間は、余計なことを考えなくて済む。

 京の情勢が激しさを増す中、国元の長州では大きな決断がなされようとしていた。


                 *


 長州藩へと池田屋の報が伝わったのは、六月十二日夜のことだった。

 池田屋から辛くも生還した有吉熊次郎によって直に語られる惨劇の様子は、あまりに衝撃的で誰もが言葉を失った。

 藩士たちは一様に悲憤に駆られ、藩論は一気に進発論へと傾いた。これまで桂や乃美が必死に抑えてきたが、事ここに至っては慎重論など消し飛んだ。

「池田屋の件は長州への宣戦布告にも等しい。このまま見過ごすことは長州の名折れ!」

 ――ついに、藩は進発令を発した。

 六月十五日、来島又兵衛が先発として遊撃隊四百人を率いて三田尻を出帆。続いて真木和泉、久坂義助、品川弥二郎、有吉熊次郎、山田市之允、寺島忠三郎、入江九一らが諸隊を率いて出発し、家老の福原越後や国司信濃、益田右衛門介も続々と京へ向けて長州を発った。

 彼らはそれぞれ伏見や嵯峨、山崎に屯集し、武力を背景に長州藩主父子の入京、地位回復を迫った。

しかし、再三の嘆願にもかかわらず、幕府はまず兵を退けと言うばかりで、やはり嘆願を容れようとはしなかった。

 もはや戦が避けられないのは明白だった。

 それでも桂はあきらめずに非戦の道を探っていた。そんな桂に、

「仕方ないんじゃないですか。こうなったら、もう止められません」

 投げやりに言った草月の言葉を桂は厳しい顔で聞き咎めた。

「草月、君が戦を望むのか。攘夷では、あれほど武力を用いることを嫌っていた君が」

「あの人達は、大事な仲間を殺したんですよ!? みんな皆、滅茶苦茶になればいい」

「戦になるということは、殺し合うということだ。双方に死者が出るだろう。それは池田屋の比ではない。我々だけではない。何の関わりもない市中の者にまで危険が及ぶ恐れもある。それを分かっているのか? それでも戦を望むのか?」

「それは……」

「少し頭を冷やしてこい。話はその後だ」

「……」

 桂の言葉を容れられないまま廊下へ出た草月を待っていたのは、小萩を腕に抱いた所だった。

 草月を見ると、軽い調子で誘いの言葉をかけてくる。

「少し外へ出ないか」


                    *


 京の町は、物騒な兵がうろついていることを除けば、表面上は常と変わらぬ活気に満ちていた。

 威勢の良い呼び子の声、楽しげに笑う親子連れ、大きな荷物を背負った行商人……。

「平和なもんだ。そう思わないか、お嬢さん」

 粘りつくような熱気をもろともせず、所は小萩を抱いたまま、のんびりと歩きながら言った。

「戦になれば、この人達の生活も壊すことになるんだぜ。人間だけじゃない。あんた、この猫やチビ達のこと、どうするつもりだった」

「……え?」

「戦で藩邸が敵の手に落ちたら、こいつらは居場所を失う。悪くすりゃ、巻き添え食って死ぬかもしれない。そんなふうに考えたことはなかったのか?」

 草月ははっとして小萩を見た。

 所の腕の中、じっとこちらを見つめる大きな琥珀色の瞳。

 ――どうして気付かなかったのだろう。

 辛い時、慰めてくれた大事な存在だったのに。

 ずっと頭を覆っていたもやもやとした膜が、一気に剥がれ落ちたようだった。

 何もかもが、憎かった。

 新選組も、会津も、幕府も、朝廷も。

 ……長州のことなど気にも止めぬ風の京の人々も。

 でもそれは当然のことだ。

 京に押しかけてきて、勝手をしているのは、戦場にしようとしているのは、自分達のほうだ。

「私……」

「憎むなとは言わない。けど、憎しみにとらわれるな」

「……はい」

「よし」

 草月の表情を見て、大丈夫だと判断したのか、所は小萩を草月に預けた。

「……実は俺も近々、藩邸に残ってる奴らと一緒に、嵯峨の陣に加わることにしたんだ。お嬢さんに偉そうに説教できる立場じゃないんだけどな」

 皮肉気に笑って、背を向けた。

「ただ、俺は覚悟を持ってやる。たとえ私怨から復讐に走ったと謗られようと、京の人から恨まれようと、今の状況を打開する策はこれしかないと思ってる。……あんたも、どんな道を選ぶにしろ、覚悟を決めろ。じゃなきゃ、また自分を見失うぞ。――それじゃ、俺は薬種問屋に寄って行くから」

 じゃあな、と手を振り、雑踏の中に消えていく。

 草月は感謝の気持ちを込めてその背に深々と頭を下げた。温もりを確かめるように小萩を抱き締めると、その足で島原へ向かう。

 桔梗屋を訪ね、「万一の時は小萩達を預かって欲しい」と頭を下げた。

「よろしゅおす。長州はんの猫ら、うちがきっちり面倒見さしてもらいます」

 突然の頼みにも関わらず、辰路は二重の目に固い決意を宿らせ、きっぱりと頷いた。

「ありがとう。何も起こらないように、桂さんも、久坂さんも必死で道を探ってる。私も全力を尽くすから」

「へえ。何かあっても、うちも覚悟は出来とります」

 そっとお腹に手を当てる。

 久坂との間に子が出来た、と打ち明けられたのはいつだっただろうか。

 久坂には故郷の萩に妻がいる。恩師・吉田松陰の実妹である妻が。

 それでも、草月は二人の幸せを祈らずにいられなかった。

 

                     *


 藩邸に戻った草月は、背中まであった髪を肩口までざっくりと切り落とした。後ろで一つに縛り、長く仕舞っておいた袴姿に着替える。

 男装姿で現れた草月を見ても、桂は驚かなかった。

「気持ちの整理はついたようだな」

「はい」

 草月は真っ直ぐに桂を見つめて言った。

「私を山崎に行かせてください。進発を考え直してもらうよう、来島さんたちを説得します」

 

 ――池田屋の惨劇から、半月余りの時が経っていた。



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