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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第4話 悪夢の夜

 京の町に、いくつもの提灯が飾られ、豪奢な山鉾が姿を見せる。

(やけに人通りが多いと思ったら、今年も祇園会の季節かぁ……)

 くっきりとした濃い青空には真っ白な入道雲が浮かび、容赦ない強烈な日差しが肌を焼く。

 そこへさらに、わんわんと蝉の大合唱が加わるものだからたまらない。

 三本木で芸妓をしている幾松のもとで踊りの稽古に汗を流した草月は、くたくたになった体を引きずり藩邸に帰り着いた。水瓶からごくごくと水を飲んで、ようやく一息つく。

「お疲れさん。暑かったじゃろう」

 振り向くと、望月が大きな西瓜を手に土間の入り口から顔を覗かせている。

「ちょうど今、井戸から引き上げてきたところじゃ。よっく冷えちゅうき、美味いぞぉ?」

 にんまり笑って入ってくると、さっそく包丁を手に、手際良く切り分け始める。

 ザクザクと小気味の良い音と共に、汁気たっぷりの赤い中身が現れた。

「うわあ、美味しそう! もう疲れ過ぎて倒れそうだったんです。こと芸に関しては、幾松さん、容赦ないから。それに、今日は格別暑いでしょう? 人出も多いから余計にそう思うのかもしれませんけど」

 西瓜を乗せる皿を取り出しながら祇園会のことを話すと、

「ああ、有名な京の祭りじゃな。今日から始まるんか」

「一番の見せ場の山鉾巡行は明後日です。五日の今日は宵々山ですね。でも、もう山鉾も通りに並んで綺麗でしたよ。去年は、お絹さんやたあ坊と見に行ったんです」

 当時は、前月の五月に強行された攘夷のことで気が塞いでいた時期で、あまり楽しむ気にはなれなかったのだが、いざ行ってみると、祭りの熱気にすっかり当てられ、いつの間にか夢中になっていた。

「そうだ、望月さん。せっかくだから、一緒に明後日の山鉾巡行を見に行きませんか? すごい人混みだから、かえって役人に見つかりにくいだろうし。きっと楽しいですよ」

「そうじゃなあ。……ほいたら行くか!」

「やった! 約束ですよ?」

 はしゃいだ声で念を押す。

 そうこうするうちに、きれいに西瓜が切り分けられた。皿に乗せて広間へ行くと、集まっていた男達はさっそく手に取り豪快にかぶりついた。

「美味い!」

 草月も負けじとぱくり。瑞々しい汁気が口一杯に広がる。

 誰が始めたのか、西瓜の種飛ばし競争が始まり、庭はたちまち種で一杯になった。

「そのうち一杯芽が出てきちゃうんじゃないですか」

「そしたら、腹一杯西瓜が食えて、万々歳じゃ」

 はははと笑っていると、廊下をどたどたと走る音と共に、切羽詰まったような顔の有吉が顔を出した。

「おい、大変じゃぞ! 今朝早く、桝屋喜右衛門殿が新選組に捕まったらしい」

「――何じゃって!?」

「乃美様の部屋に集まって対応を協議するって桂さんが言っちょった。俺たちも行こう!」

 たちまち色めき立って部屋を飛び出す志士達についていきながら、草月はそっと後ろから望月の袖を引いた。

「あの、桝屋さんて、この間会った人ですよね? そんなに大事な人なんですか?」

 いくら協力者とはいえ、単に一介の商人のために、これほど皆が動揺するとは思えない。

「あの人は、真の名を古高俊太郎と言うて、公家社会に所縁のある人ながじゃ」

 足を止めぬまま、望月が口早に説明する。

「これまで、公家との会合の仲介などは大抵古高殿に頼んできたき、あの人がおらんとかなりの痛手になるぜよ」

「そうなんですか……」

 草月は桝屋の蛇のような笑みを思い出す。苦手だと感じた人だけれど……。

 部屋にはすでに桂や宮部ら主だった者達が顔を揃えて話し込んでいた。望月や有吉たちは次の間に並んで座った。

 すぐそばの庭では、人間たちの騒ぎなど素知らぬ風に、小萩がじゃれあう子猫たちをのんびりと見守っている。

 桝屋に隠してある武器を奪い、屯所を襲撃し、古高を奪還しようという意見が大半を占める中、乃美は慎重な意見だった。

「新選組の背後には会津がいる。それに、ひとたび武力を行使すれば、歯止めがきかなくなる恐れがある。軽挙妄動は慎むべきだ」

 議論は紛糾し、なかなか意見の一致をみない。

「せめて、古高殿が屯所のどこに捕らわれているのか分かればな……」

 難しい顔で腕を組んだ乃美に、廊下で控えていた草月が「恐れながら」と声をかけた。

「何だ」

「あの、私が偵察して来るというのはどうでしょう」

「何?」

「助けに行くにしても、行かないにしても、ある程度状況が分かっていたほうが対策を立てやすいですよね」

「しかし、どうやってだ? おなごといえど、用もなく入れる場所ではないぞ」

「それは……」

 草月は庭で戯れている猫の親子をちらりと見た。

「私に考えがあります」


                   *


 それから程なくして。

 草月は小萩を抱いて、京の西にある壬生村にやって来ていた。

 新選組は、この村に住む前川と八木という郷士の家を屯所として使っている。

 旧家だけあって、前川邸には堅牢な門が構えられていて、門番の隊士が出入りを見張っている。屋敷の周りには土塀が張り巡らされているため、容易に中の様子を窺い知ることもできない。

(やっぱり、小萩に協力してもらうしかないな)

「小萩、頼むね」

 ぎゅっ、と一度強く抱き締めてから、草月は土塀の上から小萩を中に入れた。

 猫を探す振りをして、中の様子を探ろうという作戦だ。

「姉ちゃん、新選組に何か用でもあるん?」

 声をかけられ、ドキリとして振り向いた。七、八歳くらいの男の子が向かいの八木邸から顔を覗かせている。

 草月は内心の動揺を押し込め、できるだけさりげなく微笑んで見せた。

「……うちが飼うてる猫が中に入り込んでしもうて……。探しに行きたいんやけど、ここ、新選組の屯所やろ? 声かけづらあて」

「なんや、そないなことやったら、うちが一緒についてったる!」

 男の子は元気いっぱいそう言うと、草月の手を引き、門番へと駆け寄る。

 最初は、今は都合が悪いと渋っていた門番だったが、男の子の粘りに根負けする形で、ついに折れた。

「あまりうろうろするなよ。見つけたら、すぐに帰るんだぞ」

「分かっとるって!」

 門を潜ると真っ直ぐ石畳の道が玄関へと続き、左右は井戸のあるちょっとした広場のようになっている。

(母屋はこの奥か……。捕まってるとしたら、そっちだよね)

 おざなりに小萩の名を呼びながら、横の勝手口から広い土間を通り抜ける。

 右手に中庭を見ながらさらに奥へ進むと、離れらしい屋敷と、横に大きな土蔵が二つ建っている。

「あ、おった! 姉ちゃん、あの猫やろ⁉」

 子供が叫んで、庭の石灯籠の陰にうずくまっていた小萩をそっと抱き上げた。

 その時だった。

 東の土蔵の方から、世にも恐ろしい叫び声が聞こえたのは。


                    *


「――拷問!?」

「はい」

 真っ青な顔で、草月は頷いた。

 あの声。

 苦悶に悶えるようなあの呻き声が、今も耳の奥に残っている。

 一体、どれほどの苦痛を受ければあのような声が出るのか。

 小萩を抱えて逃げるように屯所を飛び出し、炎天下の中を駆け戻ってきたにもかかわらず、体は悪寒がするようにぶるぶると震えている。

「もはや一刻の猶予もならん。やはりここは、新選組の屯所に火をつけ、混乱に乗じて古高殿を救うべきだ! 居場所が知れているなら造作もない」

 宮部鼎蔵が過激な策を打ち出すのに対し、乃美や桂もあくまで慎重論を譲らず、結局、今夜、市中に散っている同志も集めてもう一度議論しようということになった。

「しかし、こうも急では何人集まれるか……」

「来られる者だけでよい。暮れ四ツに池田屋で集合としよう」

「分かりました」

「――草月、疲れているところ悪いが、使いを頼む」

「はい」


                     *


 使いを終えて戻るとすでに桂はいなかった。

 御用繁多な桂は他用を片付けてから会合へ向かうと言って、杉山松助に屋敷の門を厳重に閉じるよう命じて出かけたという。

「まどろっこしい話し合いなんかするより、今すぐ屯所を襲撃しようって逸る奴らも多いけえの。俺は今夜は徹夜で見張りじゃ。おのしはゆっくり休んじょけ。あちこち走り回って疲れちょるじゃろう」

 杉山はそう言いながらしっかりと刀の目釘を改めている。

 やがて時間になり、有吉や望月、吉田利麿、宮部鼎蔵らが次々と池田屋へ出かけて行った。

 先に休んでいるよう言われた草月は早々に床についたが、体は疲れているのになかなか寝付かれず、何度も寝返りを打っていた。

 ようやくうとうとしだした頃、にわかに人の騒ぐ声で目が覚めた。

(何だろう)

 ただ事ではない様子に、急ぎ着替えて、声のする表門へと駆けつける。

 明々とした松明の回りに、乃美や杉山、所郁太郎らが集まっている。

 中心にいるのは、会合に出ていたはずの吉田だ。

 いつもきちんとしていた髷はなぜかぼさぼさに乱れて、着物も所々切り裂かれたようになっている。

 あの黒い染みは、まさか、血――?

「くそっ、なぜ新選組が!?」

「それで皆は? 無事なのか!?」

「分からん。突然のことで俺たちは刀を抜く暇もなかった。明かりが消えて辺りは真っ暗闇で、逃げ出すのに精いっぱいだった。俺は急ぎ救援に向かう! 皆も早く来てくれ!」

 吉田は槍を手に池田屋へ取って返した。

(襲われた――? 池田屋が……。そんな――、皆がいるのに。みんなが――)

「――桂さん!」

 杉山松助が桂の身を案じて飛び出した。

 が、いくらもしないうちに戻ってくる。

 片腕を斬られ、半身血まみれの状態で。

 所郁太郎が飛んできて止血する。

「しっかりしろ、杉山! 何があった⁉」

「駄目です……。この辺りは、すでに会津藩兵や幕吏に囲まれちょります……!」

「くそっ……!」

 乃美はぎりぎりと唇を噛んだ。

「門を閉ざせ! 邸内の者は、今後何人たりと外に出ることは罷り成らぬ。各々武器を持ち、襲撃に備えよ!」

「待って!」

 気付けば草月は飛び出していた。

「私に様子を見に行かせてください!」

「ならん! 池田屋は戦場じゃ。命の保証は出来ん!」

「構いません!」

 無理に押し退け、外へ出た。

 長州が定宿にしている池田屋はここから目と鼻の先だ。

(たとえ戦えなくても、みんなが逃げる隙を作るくらいは――)

「おい、こっちさ池田屋の残党がいるべ!」

 その声に、はっとして振り向いた。

 池田屋とは逆の北方向。通り一つを挟んだ角倉屋敷の壁に、男が背を預けて座り込んでいる。

 刀を支えに起き上がろうとするが、もはやそれだけの力が残っていないのか、いたずらに地面を引っかくばかり。

 もがく男を冷酷に見下ろし、たすき掛けの武士二人が刀を抜いた。

「こん死に損ないが! 死ね!」

「やめて――!!」

 悲鳴を上げて駆け寄る。

 虚を突かれて刀が止まったその前へ、身を踊らせる。

「お願いやめて! やめてください!」

「こいつの女が。どけ! どかねとおめも斬るぞ!」

「やめろ……」

 男――望月が震える手で草月の肩を押した。

「彼女は……、関係ない」

(望月さん……!)

 こんなになっても、草月を守ろうとしてくれている。

 ぼろぼろと涙が零れた。

「嫌です! 絶対に退きません!」

 草月は望月に覆い被さるようにしがみついた。

「これ以上、この人をどうしようっていうんですか⁉ これだけ傷つければもう十分でしょう。もう放っておいて! 私からこの人を取り上げないで!!」

 白刃越しに睨み合う。

 先に折れたのは相手の方だった

「捨で置くべ。どうせ助がんね」

 もう一人にそう言うと、刀を納めて立ち去った。

「望月さん!」

「草月さん……。すまんな……、祭りの約束、守れんようなった」

「そんなのいいんです! しっかりしてください! すぐに所先生を呼んできますから!」

「いや……、いい。無駄じゃ」

「そんなことありません! 絶対……、絶対、助かりますから!」

 だが、望月の体からはどんどん血が流れていく。

 望月は力なく首を振った。

「いいんじゃ。おまんのおかげで、あいつらの手にかかって死ぬ恥辱は免れた。最期は、武士らしく、死なせてくれ……」

 血まみれの手で脇差しを引き抜くと、ためらうことなく己の腹に突き立てた。

「ぐぉ……」

「望月さん! ――望月さん!」

「頼む、介錯を……」

 苦痛に歪む瞳が草月を捉える。

 草月は震える指で刀を掴んだ。

 もう、涙で何も見えなかった。


                    *


 惨劇の夜がようやく明けて。

 夜通し藩邸を取り囲んでいた兵もようよう引き上げた。

 町はしんと静まり返り、周囲の至るところに点々と血の跡が残っている。

 外の様子を見に出た乃美が見つけたのは、事切れた望月と、彼にとりすがったまま気を失った草月の姿だった。


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