第2話 小萩、母になる
「なんか最近、小萩の様子がおかしいんですよ。落ち着きがないし、餌もあまり食べないし。前だったら、食事の支度してたら、すぐに匂いにつられてやって来てたのに」
草月は土間に置いた七輪で小魚を炙りながら、きょろきょろと視線を左右に動かした。
『小萩』とは、長州藩邸に居付いている赤茶のとら猫である。藩邸の庭で瓦礫に埋もれ、衰弱しているのを見つけて介抱したのが一年前。手のひらに乗るほど小さかった子猫も、今やすっかり立派に成長し、その貫禄ぶりは、『こはぎ』というより『おはぎ』のほうがしっくりくる、と冗談の種になるほどだ。
「何か変なもんでも食べたんではないろうか?」
水を飲みに土間に下りた望月亀弥太はついでのように小魚に手を伸ばし――、すぐに、熱ちっと叫んでその手を引っ込めた。
「小萩みたいなことするからですよ」
ふふっと遠慮なく笑ってやると、望月は火傷した指をくわえたまま恨めしそうな目でこちらを見た。
土佐の脱藩浪士である望月は二十七歳。草月とは勝麟太郎の海軍塾で一緒だったため、京での再会は驚きながらも嬉しいものだった。
本名を名乗っていた海軍塾と違い、ここでは『草月』と呼ばれていると話すと、望月は特に驚く様子もなく、俺は『松尾甲之進』と名乗っちゅう、と言った。
たとえお尋ね者でも、名前さえ変えればほとんど正体を悟られることはない。そのため誰もが変名を使っているが、それらを全部覚えるのはなかなかに難しい。
「俺みたいに同志名簿を懐に入れておいて、捕まりそうになったら丸めて飲み込んでしまえばええ」
望月はこともなげにそう言ったが、とてもそんなことは出来そうにない草月は、ひたすら暗記するしかなく、時々こんがらがって、誰が誰だか分からなくなる。
良い具合に小魚が焼けた。
草月は一番美味しそうなのを選んで手近の皿に乗せて望月に差し出した。望月は嬉しそうに受け取り、今度は良く息を吹きかけて冷ましてから口に運んだ。あっという間に咀嚼して、
「……まあ、言われてみれば確かに小萩の奴、ちょっと変かもなあ。ん、待てよ、もしかしたら……」
*
「赤ん坊が出来た?」
「はい!」
満面の笑みで告げる草月と望月を前に、珍しく藩邸にいた桂はひどく狼狽えたように筆を取り落とした。慌てて拾い上げ、こちらに向き直ろうとした拍子に机に足をぶつけてまた落とす。
「赤ん坊とは、実に……、目出度いが、……その、確かなのか?」
「はい。所先生に診てもらったら、間違いないだろうって。まだお腹はそんなに出てないんですけど。でも、きっとすぐに膨らんできます」
「そ、そうか……」
桂は気を鎮めるように深く息を吸って吐き出すと、改まったように居住まいを正して、
「それで、望月君。君はどうするつもりだ? きちんと祝言をあげるつもりはあるのか?」
と尋ねた。
望月はきょとんとして、
「祝言? あ、いや、そんな大事にするようなことでもないですろう――」
言い終わらぬうちに、桂の拳骨が望月の顔に飛んだ。
「わ、ちょっと何するんですか桂さん!」
草月が慌てて止めに入る。
「止めるな、草月! 女将から任された以上、私には君を守る責任がある。嫁入り前の娘に手を出して孕ませた挙げ句、祝言をあげる気もないなどと!」
「――え? ……ち、違いますよ! 私じゃありません!」
草月は真っ赤になった。
「小萩です!」
「……小萩?」
*
「痛っつつ……」
「ごめんなさい、望月さん、大丈夫ですか?」
「かまん、かまん。……しっかし、すごい剣幕じゃったのう。ありゃ、草月さんを嫁にしようとする男は大変じゃ」
ひいっと笑って、また痛そうに頬を撫でる。歯に当たったのか、唇の端が切れ、血が滲んでいる。
「笑いすぎですよ」
草月は憮然として、水を絞った手拭いをいささか乱暴に望月の頬に押し付けた。
二人の座る縁側には午後の眩しい日差しが降り注ぎ、たらいに張った水に反射してきらきらと光っている。
手当てを終えると、待ち構えていたように有吉熊次郎がにやけた笑みと共に大きな体をのぞかせた。
「やあご両人。聞いたぜ、おめでただって?」
「もう知ってるんですか?」
「あれだけ大声で叫ばれたら、そりゃ聞こえるよ。高杉さんに送る手紙のいい種ができた」
「やめてくださいよ!」
草月は、げっ、と言って顔をひきつらせた。
「絶対面白がって後でからかわれるに決まってるんですから!」
「いいじゃろ? 高杉さんだって、獄の中で退屈しちょるじゃろうし」
今年一月、京への進軍を強固に主張する来島を止めるため、長州を飛び出した高杉だったが――「僕が直に京の様子を探り、桂さんや久坂とも話し合って、進軍が良策かどうか確かめてくるけえ、じい様は動かず待っちょってくれ!」――、藩から勝手な行動を咎められ、帰国してすぐに野山獄に放り込まれた。
ただ、本人は一向に懲りていないようで、
『先生を慕いてようやく野山獄』
などという句を詠んで、むしろ楽しんでいるようである。
「高杉さんのお咎めは、まだお許しが出ないんですか?」
「うん。でも、お父上がずっと藩庁に掛け合ってるみたいじゃけ、そう遠くないうちにご放免になるんじゃないかなあ」
「そうですか……」
もう一年以上会っていない懐かしい顔を思い出して、かすかに目を細める。
草月が京に戻って来たことは知っているはずだが、果たして高杉がそれをどう思っているのかはまるで分らない。次に会うのが楽しみなような、怖いような、複雑な心境だった。
*
さて、日が経つにつれてお腹もふっくらとしてきた小萩は、それに比例するように食欲も旺盛になった。やがてあまり動くことがなくなり、いつも昼寝しているお気に入りの座布団の上に横になり、苦しそうな息を繰り返している。
取り敢えず、手の空いている者が交代で様子を見ることにしたその日の夕方。
小萩がウウ……、と低い声を上げ始めた。
「え、え、え、どうしたらいいの、これ! どうしよう、先生!」
「少し落ち着け、お嬢さん。あんたが取り乱してどうする。あんたがそんなんじゃ、小萩だって不安になるだろう」
「す、すみません」
「まったく……。俺は産婆じゃないんだけどな。ましてや猫だぜ?」
二年前、二十五歳の若さで長州藩医院総督に任じられた美濃出身の俊英・所郁太郎は文句を言いつつ、
「ちょっと触らせてもらうよ」
と、小萩の腹に手を当てる。
「ふむ。こいつはもういつ産まれてもおかしくないな。誰か、お産を見たことある奴いるか」
皆が首を振る中、望月がおずおずと手を挙げた。
「餓鬼の頃、近所の野良猫が産むのを見たことはあるけんど……」
「よし、ならあんた、少しは耐性があるな。近くで控えてろ。お産てのは、初めて見る者には少々きついからな。お嬢さんは清潔な布を用意してくれ」
「わ、分かりました!」
あたふたと走り回る中、藩邸に潜伏している他の藩士や浪士たちも話を聞き付けやって来た。珍しいのか、遠巻きにその様子を見守っている。
「大丈夫だよ、お嬢さん」
よほどひどい顔をしていたのだろうか。ぽんぽんと草月の肩を叩きながら、珍しく所が優しい口調で言った。
「人間が手を貸さなくても、動物は本能でちゃんと分かってる。俺たちはただ見守っていてやればいい」
「……はい」
所の言葉通り、日が落ちて灯をともす一刻ほどの間に小萩は次々と赤子を産み、一匹ずつ丁寧になめて、へその緒を切ってやっていた。
一匹目は残念ながら死産だったが、二匹目、三匹目は元気にもぞもぞと動いている。
そして四匹目――。
「――駄目、息をしてない」
小萩が必死に舐めてやっているが、ぴくりとも動かない。
「――小萩、ちょっと借りるぞ」
急に所が赤子を布で包み、その体を擦り出した。
「先生?」
「確率は低いが、こうして布で包んで、刺激を与えてやれば、息を吹き返すことがある」
小萩や草月らが心配そうに見守る中、所は懸命に手を動かした。
「――頑張れ、チビ助!生きろ」
「そうだよ、頑張って!」
釣られたように、周りからも声が上がる。
「息をしろ!」
「頑張れ!」
「しっかりするんじゃ、生きろ!」
その時――
微かに、クィ、と声がして、子猫が息を吹き返した。
「よっしゃー!」
「よくやった!」
大の大人たちが、子供のように無邪気な歓声を上げて喜びあった。
中には涙ぐんでいる者もいる。
それらを、一人離れたところからそっと見ていた桂の後ろに乃美が立った。
「何の騒ぎかと思えば、あの猫か」
「ええ。無事に産まれたようですよ」
振り返った桂は乃美の視線の先を正確に読んだ。
「……不思議な娘でしょう」
明々と灯る蝋燭の明かりの中、皆と一緒に顔中くしゃくしゃにして笑っているその姿。
「彼女が来るまで、この屋敷は殺伐とした重苦しい空気に包まれていました。でも今はどうです」
小萩と産まれたばかりの子猫たちを取り囲む一角は温かな感動に包まれ、皆の表情は一様に明るい。
「決して中心にいるわけではないのに、いつの間にか輪の中にいる。周りの雰囲気を穏やかなものにする。それは、得難い特性だと思いますよ」
子猫たちは、産まれた順にムギ、ソバ、ツユと名付けられた。