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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第1話 新たな日々

 元治元年五月、京――。


 草月は初夏らしい涼やかな水色をした麻の着物に身を包み、島田に結った髷に上品な平打ちのかんざしを着けたおなご姿で、三条大橋のたもとにある茶屋の床机に腰掛けていた。手を伸ばした皿の上の串団子はすでに三本目。甘すぎない素朴な醤油の味付けが実に美味しい。

 ふと見上げた縹色の空にはふわりと真っ白い雲が浮かび、照りつける陽射しは早くも暑い夏の訪れを感じさせる。

 三条大橋は東海道の起点とあって、先ほどから目の前を大勢の旅人が行き交っていた。伊勢参りらしき老夫婦に、鮮やかな着物を着た旅芸人の一行、大きな行李を背負っているのは行商人だろうか。

 長旅に疲れた旅人たちが、一時の凉と休息を求めて、次々と店に入ってくる。客の出入りが途切れることがなく、今も草月の後ろに座った客が立つのと入れ替わりに、笠を目深に被った背の高い武士が席についた。

「――藩邸の方に何か動きは?」

 周りの雑踏に紛れて、背後の武士が素早く尋ねた。よほど耳を澄ませていないと聞き逃すほどの小声だ。草月はお茶を飲むふりをして口許を隠しながら、同じようにささやき返した。

「今のところは特に変わりはありません。乃美様が、引き続き長州赦免の嘆願書を出されていますけど……」

「そうか。私は今夜、因幡藩士や備前藩士たちと会合がある。何とか協力を取り付けられないかやってみるつもりだ。首尾は追って知らせると乃美さんに伝えてくれ。もし今日のうちに帰れないようなら、明日の昼までに報告書にまとめて例の場所に置いておくから回収を頼む」

「分かりました。――林さんも、気を付けて」

 背後で男の立つ気配がして、草月は知らず詰めていた息をそっと吐き出した。

 誰かおかしな冗談でも言ったのか、隣でどっと大きな笑い声が起きる。

 草月は残りの団子を口に放り込むと、買い出しの荷物を抱えて店を出た。雑多な人ごみをすり抜けて、三条大橋を渡る。ひんやりとした川風が頬をなでた。眼下を流れる鴨川は、今日も多くの客や荷を乗せた船であふれている。

 両脇にずらりと旅籠が軒を連ねる大通りを真っ直ぐ進んで四つ角を北へ曲がると、一転そこは喧騒とは無縁の静かな場所になる。西には広大な敷地を有する寺々、東には岩国・対馬・加賀・長州など諸藩の屋敷が建ち並ぶ。

 草月はその中でもひときわ大きな屋敷――長州藩邸――の前まで来ると、左右に目をやり、怪しい人影がないことを確認して通用門を潜った。

 ――本日の役目も無事完了だ。


                  *


 草月が後に『幕末』と呼ばれる時代に来て早三年。それまで、彼女は京都にある大学に通っていたごく普通の学生だった。しかし、何の因果か、気まぐれに立ち寄った博物館で、坂本龍馬暗殺の現場にあったという屏風に吸い込まれるようにして、気付けば幕末の江戸に来ていた。

 初めは何もかも分からないことだらけで、ただその日その日をやり過ごすことしか出来なかった。それでも、『草月』の名をくれた『たつみ屋』という茶屋の女将や、周りの温かい人達のおかげで、次第に江戸の暮らしにも馴染み始めた。

 だがその矢先、草月の素性を怪しんだ幕吏に捕まりそうになり、縁あって長州藩邸に匿われることになった。

 幕吏の目を欺くために男装し、国事に奔走する高杉晋作や久坂玄瑞(義助)ら幕末の有名人と身近に接するうちに、次第に草月もまた、自分に何が出来るのかを考えるようになっていた。

 一度は逃げ出したが、もう逃げないと決めた。

(でも、正直、ここまで長州の状況が悪くなってるとは思わなかった……)

 昨年、会津と薩摩が組んで長州を京から追放した八月十八日の政変以来、長州人の入京は固く禁じられており、藩主の意を受けた家老らによる再三の赦免嘆願や長州派公家の斡旋にも関わらず、朝廷は頑なに長州を拒否している。

 ただ、この春頃、山内容堂・伊達宗城・松平春嶽・島津久光による参与会議が崩壊したことにより、僅かだが付け入る隙が出来た。これを好機と軍勢を率いて攻め入ろうとする血気盛んな来島又兵衛や久坂らの舵取りに苦心しながらも、桂小五郎は、尊攘派の藩を集めた列藩同盟の締結に向けて日々、諸藩の有志を交えた会談にいそしんでいる。

 桂は先の四月に京藩邸留守居役に任じられたばかりであったが、長州藩邸にいることは稀で、もっぱらこれまで同様、対馬藩士・林竹次郎と名乗って対馬藩邸に起居している。

 草月の役目は、以前と同じように邸内の炊事や洗濯、買い物などの雑用をこなすこと、そして、幕吏に目をつけられにくい『女』である特性を生かし、市中のあちこちに潜伏している同志間の連絡役となることだ。

 今、藩邸に潜伏しているのは、長州藩士の有吉熊次郎や吉田稔麿、所郁太郎、杉山松助、時山直八、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、土佐の望月亀弥太、中岡慎太郎らだ。

 先の見えない状況の中、藩邸内には鬱屈した重い空気が漂い、かつて京の政治を牽引していた頃の活気溢れる様を思うとひどく寂しい。

「……桂さんからの言伝は以上です」

「ご苦労だった。下がってよい」

「はい」

 深く平伏して、草月は乃美の部屋を辞した。

 乃美織江は三月に京藩邸の留守居役となった人物だ。留守居役は藩邸のいわば最高責任者で、以前から知り合いの桂はともかく、本来なら草月ごときが直接口を利けるような相手ではない。

 当然のことながら、乃美は当初、草月の存在を快く思っておらず、連絡役として協力することすら良しとしていなかった。

(でも、いつからかな……。何となくだけど、ちょっとだけ、認めてくれるようになった気がする)

あれはいつだったろうか。


                   *


「え、私も会合に参加するんですか?」

 草月が京に来てまもなく、桂から思いがけない提案があった。

「そうだ。今夜の島原での会合には対馬藩の他にも、市中に潜む多くの藩の同志が集まってくる。今後、連絡役を勤めてもらうにあたって、お互い顔を知っていたほうがいい。芸妓の振りをしていれば、君が同席していても不自然ではないだろう」

 まるでこちらの戸惑いを見越していたように、桂はすらすらと言った。

「会合は『角屋』で暮れ六ツからだ。桔梗屋という置屋に話を通してあるから、それまでに準備しておいてくれ」

「分かりました」

 本格的に長州の諜報活動に関わるのは初めてだ。少しも怖くないと言えば嘘になるが、それよりも信頼してもらった嬉しさが大きい。逸る気持ちを抑えて桔梗屋に赴くと、辰路という芸妓が万事世話を焼いてくれた。

「草月はんやったら、こっちの瑠璃色の着物が似合いそうどすなあ。簪はあんまり派手にならん程度にこの珊瑚の赤玉にして……」

 てきぱきと衣装を揃えてくれる辰路は大人びた感じの美人だが、年を聞くとまだ数えで十九だという。草月より四つも年下だ。

「なんか、辰路さんて、私の知ってる人にちょっと似てる。名前もそうだけど、凛とした雰囲気とか、きびきびしたところとか」

「なんや、そない言われたら、くすぐっとおすなあ」

 辰路はくっきりした印象的な二重の瞳を細めて、

「その人、草月はんの大事なお人なんやね。お顔が優しなってはる」

「うん、恩人だよ。もう、二年以上会ってないけど」

(……元気にしてるかな)

 『たつみ屋』の女将のことを懐かしく思い出していると、辰路が、ふいに年相応の女の子らしい表情を見せた。

「もしかして草月はん、どなたはんか長州に好いたお人でもいてはるんやない?」

「え?」

「そやかて、そうでもないと、なかなか女の身ぃでこないな危ないことでけしまへんやろ?」

「特別な人はいないなあ」

 草月は苦笑して言った。やはりおなごは恋の話が好きだ。

「……『友達』、なんて気安く呼ぶのが許される立場じゃないけど、親しくさせてもらってる人はたくさんいるし、大切で、力になりたいって思ってるのは確かだけど。それに私、江戸じゃ、ずっと男の格好してたから、なんか周りから女と思われてないようなところがあるし」

 辰路は興味を惹かれたようにくるんと目を回した。

「男はんの格好を?」

「うん。だから、お正月なんかにたまに女の格好すると、すごいぽかんとされちゃったり」

「まあ、見る目のない男はんばっかりやなあ。こんないい女を前にして」

「でしょ?」

 ひとしきり笑って、草月はそれで? と言葉を継いだ。

「そう言う辰路さんは? いないの? 好きな人」

「うち? うちのことはええんどす」

「それはずるいよ、私は話したんだから、辰路さんも話してくれないと! ……あ、でもちょっと待って、桂さんが辰路さんに手伝いを頼んだってことは、辰路さんこそ、長州にお馴染みさんがいるんじゃない?」

「……かなんなあ、秘密にしとこう思たのに」

「やっぱりいるんだ! 誰? 私の知ってる人かなあ」

 うきうきと言ってから、草月は慌てて言い添えた。

「あ、本当に言いたくなかったら無理して言わなくていいよ。詮索するつもりはないから」

「ううん。ええの。女将さんも、桂はんも知ったはることやし」

 ――久坂はん。

 辰路は愛おしげにその名を口にした。

「……そっか、久坂さんかぁ……」

 ちょっと意外だ。

(堅物そうだもんなあ、久坂さん)

「でも、いいね。そうやって好きな人のために頑張れるのって」

「いややわ、もう、からかわんといて草月はん。ほら、向こうに男衆はん待たせてあるさかい、帯締めてもらってきておくれやす」

「はあい」

 久しぶりの女同士の他愛ないおしゃべりに興じているうちに、いつしか日が落ち、『角屋』から逢状がかかった。

「草月どす。よろしゅうお頼申します」

 お座敷に上がると、自然に京ことばが出てくるのは、師匠・幾松の仕込みの賜物か。

 角屋二階の青貝の間には、桂や乃美を含めて二十人ほどが集まっている。一人一人、丁寧に酌をして回りながら、顔と名前を記憶に刻み付ける。

 桂たちの話が込み入って来たところで、草月はそっと座敷を辞した。

 雲の切れ目から、明るい月が覗いている。

 桔梗屋に戻ると、辰路はすでに他の座敷に呼ばれて不在だった。白粉を落として元の着物に着替え、桂と乃美が戻るのを待って共に藩邸への帰途に就いた。

 赤い提灯が並ぶ通りを東へ進み、島原大門を潜る。左手に広がる田んぼは闇に沈み、げこげこと鳴く蛙の声だけが辺りに響いている。やがて町屋が並ぶ通りに差しかかった時、先頭を歩いていた桂が不意に足を止めて二人を振り返り、横合いの路地に身を隠すよう、身振りで促した。

「どうした」

 怪訝な声で問うた乃美に倣い、草月もそっと路地から顔を出して辺りを窺う。わずか数間先に、暗闇に揺れる複数の提灯の灯りが見える。

 その灯りに照らされた特徴的な模様の羽織は――。

「新選組――!?」

 見回りの途中であろうか。十人ほどの隊列は、幸い、こちらには気付かずに通り過ぎていった。

 しかし。

「いかん。あの方向は……。島原の方にはまだ仲間が残っている。このままでは鉢合わせするぞ」

 桂は提灯を乃美の手に押し付けた。

「乃美さん、すみませんが先に藩邸まで戻っていてください。草月はすぐ引き返して皆に知らせてくれ」

「お前はどうするつもりだ、桂」

「私は奴らの気を引いて時間を稼ぎます」

「――いけません!」

 乃美が何か言うより早く、草月が割り込んだ。

「桂さんは狙われてるんですよ? 私がやります。私が囮になりますから、桂さんは知らせに行ってください」

「しかし……!」

「私なら、たとえ不審に思われても、素性はどうとでも言い繕えます。新選組も、さすがに女相手に乱暴な真似はしないでしょう。急いで!」

「分かった、気をつけろ」

「桂さんも」

 話が決まるや、草月は隊列の先回りをするべく、急ぎ来た道を引き返した。横手の細い路地に身を潜め、

(この持ち主の人ごめんなさい……!)

 隊が通りすぎる直前を狙って、置いてあった大八車を思い切り隊列の前に押し出した。

 思わぬ妨害に立ち往生する姿を見届けることなく、桂に借りた羽織を翻し、さっと路地の奥へ駆け込む。

「何者だ! くそっ、追え! 逃がすな!」

 悪態をついて追ってくる隊士らの声を背に、細い路地を駆け抜け、表通りに出たところで素早く羽織を脱いだ。

 何食わぬ顔で歩き始めた時、路地から出てきた隊士にぶつかり尻餅をつく。

「――すまん!」

 隊士は言いざま通りすぎようとして振り返り、

「すまんついでに、さっきここを男が通らなかったか?」

「へえ、なんや慌てた様子であっちの方へ行かはりましたけど……」

「あっちだな!?」

 草月が明後日の方を指してみせると、男は隊士を引き連れ、あっという間にそちらへ去っていった。

(う、上手くいった、かな……?)

 足音が完全に聞こえなくなってもまだ、心臓はばくばくと早鐘を鳴らしている。今更恐怖で震える足を叱咤して立ち上がろうとした時、目の前にすっと手が差しのべられた。

「――無茶をする」

 低い硬質な声。

「乃美様! どうして――、先に帰られたのでは……」

「おなご一人に任せて帰るわけにも行くまい」

 渋面の乃美は草月に怪我がないようだと見てとると、すぐにきびすを返した。

「行くぞ、草月。桂のほうも気になる」

「はい」

 返事をしてから、名前を呼ばれるのは初めてだと気がついた。

(もしかして、少しは認めてもらえたのかな)

 半歩下がってついて行きながら、草月はそっと横顔を窺う。常と変わらぬ厳格な表情からは、何の表情も読み取れなかった。


                   *


(でも、あれ以来、時々仕事を言いつけてもらえるようになったんだよね)

 白昼堂々、町を歩ける者が他にいないため、仕方なく、という面もあろうが。

 それでも、自分に出来ることがあるのが嬉しい。

 長州を取り巻く状況は依然厳しいけれど、少しでも良くなるように、力を尽くそう。

 決意も新たに、草月は廊下を歩き出した。



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