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大丈夫とは言っているものの、文音の様子は明らかにおかしかった。良明は文音の表情を見ながら、過去の記憶を辿ってみた。文音がこのような表情をするのは、今日が初めてではないと思ったからだ。
良明は記憶を辿るうちに、半年前に名古屋で起きた連続通り魔事件を思い出した。その事件は、女子高校生をターゲットとしてなされた通り魔事件であった。その犯人は、ショートカットの髪が他をした女子だけを狙って犯行に及んでいた。
通り魔は、全7件起き、その内6件は傷害事件で片づけられる被害状況であったらしい。ところが7件目で犯人は遂に被害者を死に至らしめてしまった。
その後犯人はすぐに逮捕されたが、6件同類の事件が起きていながらも犯人を逮捕できなかった警察への非難や犯人の幼少期からの残虐ぶりが大きくメディアに取り上げられ、連日事件は報道された。
その頃、文音は毎日浮かない表情をしていた。良明は、「最近、元気ないね、体調でも悪いの?」と聴いたが、文音から返ってきた言葉は、「最近、通り魔のニュースばかりで辛いの、人が死ぬ、しかも高校生とか子どもが死ぬニュースはやだな」と言うものであった。
そのことから、文音は人の死に関することは苦手だと、良明は知ることができた。しかし、文音は「でも、目を背けてたら、それは違うかなって」とも言っていた。良明は、文音の強さも垣間見ることができた。
今、文音はその時と同じ表情をしている。心配する章子に対して、大丈夫だと気丈にふるまっている。苦手だけど、これから逃げてはいけないと文音は考えているのではないかと良明は感じていた。
「この話題はもうおしまい!」と章子は文音のことを気遣い、話題を変え始めた。章子は文音の趣味などを聴いていたが、ホークスという言葉が出ると、「うわあ!良明とますます気が合いそうね」と嬉しそうにしていた。どうやら母親は、文音が自分の彼女になってくれたらうれしいようだと良明は感じていた。
章子と服田は、注文したかつ丼をあっという間に平らげてしまった。それから章子が、「学生さんは私が払うからいいよ」と言い、良明と文音の分まで勘定を済ませた。
「お母さん、ありがとうございます」と文音は章子に対してお礼を言っていた。章子は、「まあ、お母さんだなんて」と顔を赤らめて喜んでいた。
良明は文音を自宅まで送り届けようと思い、文音にその提案をしたが、「そこまで来てもらわなくてもいいよ」と断られた。しかし章子が、「そんなの心配だわ、せめて天神のバスセンターまで送ってちょうだい」と言ったので、良明はバスセンターまで文音を送ることになった。
良明が文音と歩き出そうとした時、良明は服田に呼ばれた。
「いじめのことだけどよ、あれ俺が担当になったんだわ」と服田は良明に耳打ちしてくる。それから、「お前、刑事志望だったら、一緒に操作しねえか」と言うのであった。
「そんな、俺が人の死に関わることの捜査なんて」と良明は首を縦に振らない。
「いや、これはお前の母ちゃんからのお願いでもあるんだ、だからな」
「母さんが?」
良明は母親を見ると、ピースサインで“お前もやれ”とも言わんばかりの合図を送ってきたので、「やります」と服田に言った。服田は、「よし、なら、お前が帰ったら打ち合わせな」と言いながら、良明の首に手を回した。
夕暮れになっても、まだ厳しい暑さは残っていた。大分傾いた日差しは、強く良明と文音に注がれていた。
「良明君、ありがとう、おいしかった」
「いいよ、全然」
良明は、文音のうっすらと笑う表情に、またしてもノックアウトされてしまいそうだった。
「文音ちゃん、何かごめんね」
「何が?」
「いや、お母さんにいきなり合わせてしまったし」
すると文音はくすくすと笑い、「いいの、いいお母さんね」と言った。
「なんだか、探偵事務所ってすごい、良明君は、元刑事の人が周りに居て心強いね」
「心強いのかな?事務所は不倫調査ばかりだよ」
それから、良明と文音は久米家の家族について談笑しあっていた。良明は何でも笑顔で返してくれる文音との時間を、楽しく感じていた。
バスセンターに着いて、良明が文音に「あの、大丈夫かな?」と聴く。文音は、「どうしたの?」と目を丸くした。
「ほら、文音ちゃんは、事件とか起きると、辛そうだし」
良明のその言葉に、文音は小さく息を吐いて、「そうね」と言った。
「あの自殺ね、私の家の近所であってたから、朝家から出るときから結構つらかった」
「え、近所で起こったやつ?」と良明は少々驚いた。
「でもね、大丈夫。私は、大丈夫なの」
良明は文音の言葉を信じて、天神のバスセンターで別れることにした。バスに乗り込んだ文音は、良明に微笑みかけて、何度も手を振っていた。