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蕎麦屋はもう15時を回ったところということもあり、店内はがらりと空いていた。良明は、「良かった、少ないね」と言いながら文音を店内へと誘導し、店員に「2名です」と告げた。
そこからは店員の誘導に従って、店員が指示した座席に2人で着席した。その時文音は、店内をきょろきょろと見渡していた。良明はまたしてもその表情がとても可愛らしく思えた。
「注文が決まりましたら、お知らせください」
「分かりました」と良明が店員の言葉に反応すると、文音はその店員に向かって軽く会釈した。
良明は、テーブルに置いてあった注文表をとって、文音が見やすいようにテーブルに広げた。
「何が食べたい?」
「どうしよう、良明君のおすすめは?」
「そうだなー」と良明は、右手で自分の鼻をこすりながら考えた。そして、「俺のおすすめは天ざるかな」と言った。
「分かった、じゃあ、天ざるで」と文音は微笑みながら言った。
その後、良明はすぐに店員を呼んで、天ざるを注文した。
良明は前方に座る文音の微笑む顔を見ると、なぜか心が穏やかになり、今までの疲れをすべて忘れることができた。注文を待つ間、良明と文音は大学の話やお笑いの話、音楽の話などをしていた。良明と文音はよく趣味があっていた。
例えば、お互いに福岡に拠点を置くプロ野球球団、ソフトバンクホークスが好きだった。文音は人混みが苦手で、「好きなんだけど、応援には行ったことがなくて」と言っていた。良明も、「それは同感、行ったら野球観れて楽しいけど、人混みで落ち着かないっていうか、テレビで見た方がなんか楽なんだよね」と同調した。
2人は、「いつか一緒に、ドームまで行けるといいね」と約束をした。
しばらくして、注文していた天ざるが運ばれてきた。ざるそばの麺とあっさりとしたつゆが良明の味覚を刺激した。また、そんなに脂っこくないエビ天やイカ天とり天も絶品であった。前方の文音も、「良明君、おいしいね」と微笑んでいた。
このまま笑顔の文音を見て過ごして、日頃の疲れを忘れることができると思っていたその時であった。急に、「いらっしゃいませ!」と威勢のいい店員の声が響いた。
良明が店の入り口の方向を見ると、良明のよく知る人物が2人立っていた。よく知るというほどではない。1人は良明の母親である、久米章子である。もう1人は、章子が経営する探偵事務所で働いている服田恵介だ。
良明は慌てて視線をそらしたが、元県警の刑事であった母親はさすがの観察眼で良明を認知したらしい。「良明!良明じゃない!」と言い、店員の誘導を振り切ってこちらに歩いてきた。
章子は文音を見るなり、「あら彼女?可愛い!」と顔を赤らめて絶叫した。文音は困り顔で章子に「初めまして、野崎文音です」と言った。章子は、「これからよろしくね」と笑顔で文音に握手を求めていた。
章子の横にいた服田は、「良明君、本当にこれか?」と言い、小指を突き立ててくる。良明は、表現が古いなと思いながらも「いや、友達です」と釈明した。
「そうか、そうだよな!良明君にしては勿体ないくらい可愛い」と服田は良明に毒を吐いてきた。良明は、「ああそうですね」と服田に向かって舌を出しながら、その言葉を吐き捨てた。
章子は文音にいろいろなことを聴いていた。良明はすぐにでも解放してやりたかったが、文音がそこまで嫌そうではなかったというより、若干楽しそうだったのでそのままにしておいた。
良明は、いつも12時くらいには昼食をとっているはずの章子と服田がこの時間に昼食を取りにやってきているのか気になった。
「服田さん、今日はどうしてこの時間に?」
「ああ、調査依頼が立て込んでたから」
「また、不倫調査ですか?それか飼い犬の捜索?」
「いや、1件だけは不倫調査でも、飼い犬の捜索でもないんだ」と服田はいきなり真剣な表情になって言った。その眼光は鋭かった。この男も元々は刑事である。
「不倫調査じゃない?」
「ああ、1件は、今朝報道されていたいじめ自殺に関する調査以来だ」
「今朝のいじめ自殺!」と良明は驚愕して声をあげた。
その時だった、先ほどまで笑顔だった文音が、急に顔色を曇らせた。横にいた章子は、「こら!守秘義務」とこちらに向かって言いながら、「文音ちゃん、どうしたの?」と心配そうに文音の背中をさすった。
文音は「大丈夫です」と言いながら、章子に微笑んでいた。