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良明は自分の携帯電話を取り出して、文音に連絡を入れようとする。今はやりのLINEというものを文音はやっていないので、とりあえずメールだ。良明は人通りが若干多い通路の窓際に立ち止ると、今大学についたことを知らせるメールを打った。
メールを打ち終わると良明はあたりを見渡した。もしかすると文音が近くにいるかもしれないと期待を込めてのものであった。しかし、文音の色白でほっぺたが少し赤いピンク色の顔は見当たらなかった。
良明はあたりを見渡しながら、大学にはいろいろな人がいるものだと物思いにふけっていた。髪が金髪でやんちゃそうな人、短い黒髪でとてもまじめそうな好青年、化粧が濃くてピアスを耳にぶら下げたギャル。こうやって見ていると若干ビジュアルが派手な学生が多いのである。一見不真面目そうだが、実際この大学の学生はとてもまじめだと言われている。
良明が他大学から講義のために来ていた先生と話した時だ。
「この大学の学生は真面目だね」
「真面目?どういうことですか?」
「いや…講義の時間帯、大学の外から人が消えるでしょう」
「はあ…」
「私のところの大学はね、偏差値は高いんだけど、講義の時間も外に学生が溢れていて、講義の出席率もこの大学ほどよくはないんだよ」
その先生はおだやかに、感心した顔つきで話していた。「講義の時間に、外から人が消える」と聞いたとき、良明は先生が何を言っているのか分からなかった。この大学の学生はみんな真面目に講義に出ている風潮があるということであった。
この大学は学生の見た目こそ派手だが、中身は真面目である。それは自由な学びを届ける大学を目指すこの大学の学生の特徴であるのではないか。
そんなことを考えていると、良明の携帯に着信が入った。画面には「野崎文音」の名前が映し出されていた。
良明に電話をかけた文音は、大学東棟の7階自習室で待っていることを伝えた。東棟は大学の正門から入って、すぐ右手に見える大学内で一番大きな建物である。別名は1号館とも言われている。大学の正門は、天神から歩くと道なりに行ったところにあるので、良明はこの自習室が一番着やすいはずである。
文音は自習室で良明を待っていた。自習室は一人で勉強する人や友達と談笑する人、または恋人同士で過ごしている人など、いろいろな人がいる。別にみんな勉強しているわけではない。自習室は広いので、授業間の暇つぶしとしては最適なのだろう。
今日も数組のカップルがいる。文音は自分には縁もゆかりもない話だと思いながら物思いにふけっていた。良明とは仲がいいが、恋愛対象というわけではない。最初は良明が一方的に誘ってきたが、みんな一緒にと言うことであったし、良明の優しさがあってのことだと文音は考えていた。
「おはよう!」
そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた文音は、その聴きなれた声の方向に振り返った。良明が立っていた。
「お疲れさま…」
「ああおつかれ」
良明のあいさつに馴染まない返答をした文音に対し、良明は返してくれた。良明はあついあついと言いながら、額の汗をぬぐい、文音の前に腰を掛けた。
座ると今度はごそごそと持ってきた大きなバックの中を探り始めた。
「イデア論の洞窟の比喩とかいうやつわかんねーなー」
「洞窟の比喩を発表するんだ…この前先生が説明してたのに」
「寝てて、聞いてなかったんだよ」
少し笑みをこぼして話した文音に対し、良明は情けない顔で答えた。
「洞窟の比喩か、一番分かりやすいところじゃないかな」
「そうなんだ」
「哲学の話で言えばね」
文音は大きな目をぱちぱちと瞬きさせて言った。そして、学生にしては比較的小さなバックから大きな字で【欧州思想史】と書かれたノートを取り出した。
「説明するよ、いい?」
「うん、いいよ」
良明がそう答えると、文音は大きく深呼吸をして話し始めた。
「洞窟の比喩は、ソクラテスの弟子、プラトンさんが導き出した概念なんだけど、プラトンのことはわかるよね?」
「ああ、イデア論の人ね」
「そうそう」
文音が小さく首を縦に振ると、良明の顔が少し明るくなった。
「プラトンさんはね、世界を洞窟に例えるわけ、そこに人々が押し込められているの」
「洞窟にね…真っ暗じゃん」
「それが案外真っ暗じゃないんだな」
「どういうこと」
「洞窟の奥の壁にね、大きな光が当てられて影絵を見せられてるわけ」
「影絵??」
良明はますます分からなくなってきた様子だった。
「そう、影絵」
文音はそんな良明をよそに説明を続ける。
「その影絵を、人々は現実の世界だと思っているの」
「うん」
「そしてある日、洞窟の中にいた一人の人間が洞窟の外へ出ていきました」
「一人で?仲間はずれじゃん」
文音は良明が、目を見開いているのを確認した。文音は良明が話に入り込んでいると感じ、さらに話を続ける。
「実は洞窟の世界の外には、今まで見たことがないような理想の国が広がっていたの」
「ユートピア?」
「そんなもんね」
「そして、洞窟の中の世界の人に伝えて、みんなでそのユートピアに行くことを提案したの」
「それで、」
「その人は、殺された…」
文音の少しさっきでより少しトーンを落として答えた。
「あら、殺されちゃったんだ」
「真実を知ってる人は、真実を知らない人に殺されたの」
「ふーん」
文音が悲しい結末を話すと、良明は少し落胆したような返事をした。