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野崎文音と久米良明が初めて会話を交わしたのは2年前、大学2年生の春を過ぎた大型連休明けのことであった。
授業が終わり、講義室から出ようとしていたときに久米が突然文音に話しかけてきたのだ。
「野崎さんでいいよね…」
「はい……そうですけど」
「今から、みんなで一緒に昼飯食いに行くんだけど、野崎さんも一緒にどうかな?」
「ごめんなさい、用事があるので…」
文音は唐突な久米の誘いに乗ることはできず、あっさりと断ってしまった。
その日の授業は、グループ討議を兼ねた授業で、文音は大学に入学して初めて同期の大学生と会話をした。その後で、久米が誘ってきたのだ。
文音は、大学に入学してから1年間は誰とも関係を持たないように距離をとって大学生活を送っていた。文音には、自分が犯罪者の妹だという自覚があったからだ。
恐らく、大学で一緒に授業を受けている人たちは野崎文音があの西沢美夜古の妹だということを知らないだろう。知らないままであったら、普通の友達として付き合ってくれるかもしれない。しかし、野崎文音が旧姓西沢文音、あの連続殺人鬼の妹だということが知れ渡った時、文音に対する周りの仕打ちはどのようなものなのだろうか。文音はそれを考えるだけで怖かったのだ。
文音はその日、久米の誘いには乗ることができなかったが、久米は日にちを改めてまた文音のことを誘ってきたのだ。今度も大学の同期のみんなでご飯を食べに行こうという誘いであった。文音は断った。同じ断り方をした。
しかし、次の週も、1か月たった日も久米は文音のことを誘ってきた。
「久米君とだけならいいよ…」
なぜかその一言が久米に向けて出てしまっていた。誰か、頼れる人間がほしかっただけなのかもしれない。言った瞬間、文音の心にはしまったという思いが駆け巡った。
「ほんとに!よっしゃ!なら行こう!」
久米から帰ってきた答えは意外なものだった。
それから文音と久米は何度か2人でお昼ご飯を食べに行き、連絡先を交換した。文音にとって久米良明は唯一の友達になった。文音は自分の正体が良明にばれることの不安は残っていたが、そんなことはどうでもよく感じた。なぜかはよく分からないが。
久米はとても陽気で、誰とでも仲良くできそうな性格であるが大学の勉強となると、とことんできなかった。久米は学科主席であった文音のことを頼りっぱなしだった。文音は大学で出る課題や試験前の勉強を手伝ってほしくて、あの時二人で食事に行くことを了承したのかもしれないとも考えた。しかし、それは文音にとってどうでもいいことであった。たとえそうであってもよかったのだ。
その一方で、文音は久米と一緒にいるとなぜか少し救われた気分になることがあった。文音の体調が少しでも悪いときや気分がすぐれない時、一言会話を交わしただけで久米が察してくれることであった。久米は人間を見ることに関してはとても優れていた。
文音は久米のことを大事な友達だと思う一方で、そう思うほどひどく落ち込むことがあった。誰とでも仲良くできる久米にとって、文音は大事な友達ではないはずだ。そんな思いが文音の心を何度もむしばむことがあった。久米にとって文音とはどのような存在なのかそれを何度か聞こうとしたこともあった。文音には到底聞く勇気はなかった。
久米からの電葉を切った後で、文音は少し上の空になっていると、気が付けば時間が大分過ぎていた。急いでここを出ないと久米との約束の時間に遅れてしまう。文音はそんなことを考えると、両足に力を入れて立ち上がった。脱力していた体は、もう力が入るようになっていて、文音は少し安心した。