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第零章③

 少女は今日も空を見ていた。伊藤の取引から一週間。

 彼女は病院で使われているパジャマみたいな服を着ていた。ピンクのパジャマが、彼女の血で赤く、紅く染まっていた。僕はまた、監視カメラなどがないか一通りあたりを確認して、少女の隣に座った。伊藤曰く、ここには温度を感知するセンサーしかないらしく、彼女の最低限のプライバシーは守っているとのことだ。

 しかし、彼女の心が戻るまで、実験はし続けるとも言った。実験が長引けば、彼女の心に傷が増える。早く、なるべく早く、助けてあげたい。

 僕はできるだけ柔らかい声を心掛けて、話しかけた。

「また来たよ。」

「……。」

 無視。少女は体育座りした自分の膝に顔をうずめた。多分話しかけてほしくないんだろう。彼女にとって僕は危害を加えない点を除いて、怖い人間の仲間なのだろうから。

「今日も天気がいいね。ここは毎日晴れなのかい?」

「……。」

 またもや無視された。気まずい。聞く気がない相手に話をするなんて僕にはハードルが高すぎる。できればもっと少女が笑顔の時に話しかけたいが、そんな時を待っている余裕はない。それに、その笑顔を取り戻すのは僕の役目だ。彼女には申し訳ないが、引き下がるわけにはいかない。

「ここはたくさんお花があるんだね。なんて名前だい?」

「……。」

「そういえば君の名前も教えてもらってないな。僕は……。」

 

 『あんたにやる名前なんて、ありゃしないよ。』


 言葉に詰まった。あの時のあいつの声が蘇る。とたんに腐敗した何かの臭いが漂ってくる。そうだ。名前は僕にはない。名前すらもらえなかった。

「……僕には名前がないんだ。君の好きに呼んでくれていいよ。」

 少女が顔をあげた。初めて少女と眼が合った。吸い込まれそうな程深い紅い瞳。僕は心臓をわしづかみにされた様な衝撃を受けた。


「私は、ミカ、だった。」

 僕はびっくりして思わず飛び上がった。彼女が喋った。僕に向けて、言葉を発した!

 嬉しい反面、彼女のぼそぼそと小さい、それに機械的な話し方が悲しかった。

「今は、カミ、って呼ばれてる……。」

 少女はまた俯いた。神、か。ミカの逆でカミ。人間の反対で神。まさかこれを言いたいが為に伊藤はこの娘を選んだのではないだろうか。そう思うと、無性に腹が立った。あいつはここから出たら殺してやろう。絶対に。

「カミじゃ言いにくいな。ミカって呼ばせてもらうよ。」

「……。」

 無視。僕はミカに話をいろいろしてみたが、それ以降、今日は喋ってくれなかった。仕方なく、僕は自分の部屋に戻ることにした。

 しかし、今日は彼女と初めて言葉を交わした。僕が初めて、自分から話しかけて、だ。


 これなら彼女が笑う日もそう遠くないぞ。僕は自信に満ち溢れていた。



 しかし、あの日以来彼女とは一言も喋れなかった。少女の隣に座って空を見続けて、早2か月。この空ってのは何日見ていても飽きない。病院から見た東京の空はあまり綺麗ではない気がしたのに。

 ミカは今日も血だらけだった。血はある程度時間が経つと、蒸発する様に跡形もなく、なくなる。どういう仕組みなのかは分からんが、僕はそれを見て、やっぱり、人間じゃないんだな、と思ってしまう。

 でも、僕は人間じゃない方が親しみがもてた。人間はとても醜い生き物だ。この美しい少女が人間と一緒なんて、ありえない。



 今日は紙芝居を作ってきた。僕オリジナルの、おとぎ話だ。しかし、無関心な客の前でする紙芝居は寂しかった。僕はだんだんと心が折れてきて、話の途中で放り出してしまった。彼女のそばに座って空を見上げた。

「僕の話面白くないかな?」

「……。」

 無言。まあ気に入っていたとしても声をかけてくれるとは思わないが……。

 僕は作り物の空を見てため息をついた。作り物でも、あんなに綺麗なのにな。ここは、綺麗すぎる。ただ一点、彼女の濁った心を除いて。

「それなら少し汚い話をしようか。なに、ちょっとした昔話さ。」

 僕は語り手だ。冷たく、客観的に、あの少年について少し話すだけだ。

「昔、昔。あるところに女性が一人いました。この女の人はどうしようもないクズでした。ある時知り合った暴力男と勢いで結婚、男の子が一人生まれました。」

 この時、流産でもなんでもしてくれていればよかったのに。

「しかし、女は最初子供を切望していましたが、産まれた赤子を見て、一言つぶやいたそうです。


 『あれ?なんか想像してたのと違う。』


そもそもそいつに想像する頭なんてあったとは到底思えませんが、とにかく女はその子供が嫌になりました。」

 話はスラスラと出てくる。それはそうだ。記憶にあることを喋ればいいのだから。

「女は子供をゴミ置き場に放置しました。死なれては困るので、時折様子を見に来て、世話をしてくれました。」


 あんな汚いところで生きられたのは奇跡だ。いっそこのとき死ねればよかったんだけど。


「男の子にとっては、ゴミが世界の全てで、その女だけが、人の全てでした。男の子は世界が狭くて汚いところに思えてなりませんでした。」

 今でも人を見る度にする腐った臭い。多分この時のトラウマが原因なんだと、今なら分かる。

「女は家では暴力を受けていました。ゴミ置き場にもその悲鳴がたまに聞こえてきます。そして、悲鳴が聞こえた日には決まって僕の所に来てこう言いました。


『まあ、お前よりはマシか。』


あの時の目は、今でも忘れられません。人はあんな冷たい目をした生き物なんだ、と思いました……。」

 いつの間にか主語が僕になっているようだが、気にしない。なぜだか、言葉が次々と出てくる。僕の心の底から、ここから出して、と言っているかのようだ。喋ったところで、記憶が消えるはずないのに。

 あいつは僕を、それこそゴミを見るような目で見ていた。あいつの方が、よっぽど、ゴミのはずなのに……。


「それから僕は、このゴミ置き場から逃げることを決意しました。親の名前でこの病院に入り、そしてここに閉じ込められたのでした。まあ閉じこもったって方が正解かもだけど。めでたしめでたし。」

 やっと語り終わった。横を見ると、少女と眼が合って、ドキリとした。どうやらちゃんと話を聞いてくれていた様だ。

 少女が僕に向かって手を伸ばした。僕は思わず縮こまった。一体何をされるんだろう……。少女は僕の頬に触れた。驚くほど冷たい手だった。

「……泣いてるの?」

 少女に言われて気付いた。僕の目から涙がこぼれていた事に。

「あれ? 本当だ……。へへへ。みっともないとこを見せてしまったね。」

 少女は僕を抱き寄せた。その手の冷たさとは対照的に、顔に当たった少女の胸は、その心は、温かく脈打っていた。

 なんだ、心は壊れていないじゃないか。ただ、少し臆病になって、奥の方に引っこんでいただけだ。


 それが嬉しいのか、悲しいのか、僕は少女の腕の中で声をあげて泣いた。



 







 前回の更新から大分空いてしまいましたが、読んで下さっている方、ありがとうございます。

 

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