iv ――家庭の事情はどうしようも出来ません。
金蔵直人――身長、公称百六十二センチメートル、これは〈突偽〉装備の為に正確に測定した数値であり、ごまかしの余地がない。百七十は欲しかった。そんな期待を彼の成長期は見事に裏切った。とうにそんな事は諦めたが、――今でも時々思う、せめて百六十五に届いていれば。太くて凛々しい眉をしているが、大きな目、やや上を向いた栗鼠を思わせる低い鼻、栗毛色で癖の強い髪、顔全体を見ると可愛らしさが俄然優勢。陽に焼けた、小麦色の美しい肌。体の線も細く、本人は気付いていないが女性のみならず、男性からもある種性的な視線を受けることしばしば。
殊、高校は男子校だったものだから。……
学園祭ではメイド服を着ろブルマを穿けなどの女装を強要されたが、全力で拒否。彼らの消沈ぶりは並大抵のものではなかった。もっともこれは本人からすると、男っぽくない自分をからかわれたのだとしか思っていなかった為に、不快でしかなかった(もっとも本当の理由を知ったとして、本人が喜ぶ事もないだろうが)。
「……あ、直人さん、お帰りなさいませ」
直人が家に帰ると、エプロン姿の女の子が庭を掃きながら笑顔を向けて声をかけた。
「ああ、〈夏美〉ちゃん、ただいま。……母さんの様子はどう?」
「奥さまは……ちょっと不安定で。お医者様を呼ぶほどではありませんでしたが」
その少女・夏美は表情を翳らせた。直人も一瞬眉間に皺を寄せたが、夏美に心配をかけまいとすぐに口元に力を入れて目を細め、明るい表情に努めて変えた。
「うん、そっか。分かった。すぐに会いに行く」
「はい、ありがとうございます。……夕飯もそろそろ作りますので」
直人は夏美と別れ、
「ただいま」
と小さく言葉にして玄関に入った。
直人は一軒家に、母、住み込みの家事手伝い・夏美の三人で暮らす。庭もありそこそこ立派な家である。古い家だが、家賃というのは家計圧迫の最重要課題であるが為に、持家というアドバンテージは大きい。しかしながらお金の余裕はあまりない。直人の仕事は高給であるのに、である。
何故ならば、この家族にはとある、大きな問題が二つ。――
「ただいま、母さん……どうしたの? 元気なさそうだけど」
直人は畳六枚が敷き詰められた一室の襖を開けた。中にはやつれた印象の女性が一人。
「ああ、なお君お帰りなさい。遅いじゃないの。心配したのよ。何も言わずに出て行って。お母さん置いてどこかへ行っちゃったのかと思ったわ」
母は、直人の姿を見て心底嬉しそうに、安心したように笑みを作った。
「そんな筈ないじゃない。ちゃんと行く時に言ったでしょ? 襲撃があるからって」
「あら、そうだったかしら? ごめんなさいね、こんなお母さんで。でも……襲撃って?」
母は無邪気に首を傾げて聞く。直人の顔に陰が差す。無理矢理笑って、首を横に振る。
「……ううん、いいんだ。何でもない。ねえ、隈が濃いけど、眠れなかったの?」
「そうよ。なお君がいなくって、心配で心配で……」
「心配しなくってもいいでしょ、夏美ちゃんもいるんだから」
「そうだけど……」
母の子供っぽい上目遣いに苦笑しながら、直人はその顔をそっと優しく抱き締める。
直人の母は、端的にいえば精神を病んでいる。原因は、ストレスだ何だの可能性が高いが、はっきり分かってはいない。
これでも安定した方である。一時期の暴れっぷりはひどかった。父が浮気したどうとか喚きながら、小学生の直人を前に、平気で父に向かって物を投げたりそこらじゅう掻きむしったり、壊したり、構って欲しいが為に手首を切ったり。……
そんなものを見て育って、一応はまともに育ったのだから自分はもっと褒められていいのではないか、と直人は時々冗談で考える。
……いや、まともには育ったが、まともな生活は、――
「奥さま、直人さん、夕飯のご用意が出来まし……あ、ごめんなさい」
夏美は部屋に入って中の様子を見て、声を落とした。母は布団で直人の手を握りながら、すやすやと安らかな寝息を立てている。
「うん、ありがとう、今行くから」
直人は小声で、そっと手を離して、静かに部屋を出た。
大きな食卓で、二人でぽつんと夕食を食べる。
「ああ、明日、父さんの所に行くから遅くなる。悪いけど、母さんの事また頼むね」
「はい。……あの、奥さまをお連れしなくてもよろしいのですか?」
「うーん、ちょっとあの状態だと、難しいかな」
「そうですか。……そうですね、すみません、余計な事を」
「いや、夏美ちゃんは何も……」
食事風景が一層暗くなった。今この話題を出した事を後悔した。
直人がこの仕事を目指したのは、中学生の時である。その頃には、母はちゃんと診断を受け、ちゃんと医者にかかっていた。ちゃんとはしていたが、直人は不安で不安で仕方がなかった。家計の不安、病気、将来の事、その他諸々、中学生が背負うには荷が勝ちすぎた。
父は、そんな直人に心配をかけまいと、全力で仕事をし、学業に支障をきたすまいと全力で家事に勤しみ、全力で母の事に努めた。
それがいけなかった。
父が倒れた。直人が中学二年の頃である。当時、父は意識不明にまで陥った。工場視察中に事故。作業員の、ちょっとした心の隙。製造したての鉄の柱の固定が甘く、震度三程度の地震で呆気なくそれが倒れ、下敷きになり、三名が死亡。運よく生き残った父は、しかし脊椎損傷で、下半身不随を患う。そこに、睡眠不足、疲労蓄積がどばっと一度に父を襲い、そのまま昏睡状態になる。医者からは『いつ死んでもおかしくない』とまで言われた。
それによって、母の容体も酷くなった。深夜に暴れる事が、まったく珍しくなかった。
入院費、医者にかかる費用、生活費、様々な物が直人を襲った。
親戚もいなくて、誰も助けてくれず、右も左も分からなくなった。――
が、そこに射し込む一筋の光。みるみるうちに、直人はそれに吸い込まれた。
〈万国主義同盟・地球市民防衛隊〉――漫画の様な名前の、対宇宙脅威用・地球軍。要は、悪い宇宙人から地球を守りましょう、その為に地球全体で手を取り合いましょう、という団体、かつ軍隊。
その訓練校に、試験に合格し入学するだけで、社会保障・福祉手当・公共機関の利用等、様々な事が優遇される。何とお金だって貰える。勉強した。するりと入学できた。
学費がいらないどころか、給与の貰える所なのだが、卒業後軍隊以外の道を選ぶと、その給与の返済、学費の全額支払いが求められる。
軍隊以外? 直人はそんな事、考えもしなかった。
その頃からだろうか、直人の人生は彼のものではなくなっていた。
父の後遺症は未だ続く。ずっと入院生活である。母の事でお金が要る、夏美を雇うのにもお金が要る。軍隊を辞める理由など無い。
「……ごちそうさま。ちょっと疲れちゃったから、寝るね」
「ああ、はい。後はやっておきますので。お風呂も沸いております、どうぞお休み下さい」
「うん、ありがとう」
直人は台所を出て、風呂に浸かり、母のすぐ隣の部屋で、死んだように眠った。