xix――いつもの人
「……今日、豊橋まで行く用があったんだけどな。『らしんばん』の前でロジャー見たぞ」
「はあ……」
「からかってやろうと声をかけたけど、意外にも堂々と対応しやがってな。不敵な笑みを浮かべて『今からメロンブックスにも行きます』とかほざきやがった。あいつ、本当にメリケンか?」
「何をやってんですかあなた達は……」
直人は渥美の湾を望む侘しい海辺で、いつも通り角ばった眼鏡をかけ、いつも通り目つきの悪いスズシロと一緒に、黒い海面にぽつりぽつりと寂しく浮かぶ漁船を眺めている。母は、どういう心境からか、少し離れた場所にいて笑顔で二人を見守っている。
直人は病院を出た後、約束通り『母とのデート』に勤しんだ。特に行くあてもなかったので、母の要望を聞いたらケーキ屋へ行きたいと言ったので素直に寄った。母はフルーツケーキとコーヒーを、直人はチーズケーキとアッサムティーを楽しんだ。
……と言うか直人は楽しむことに必死だった。
先程までの沈んだ気持ちを払拭するのに腐心した。母の言葉に不自然な程大袈裟に笑った。母の為というよりは、そうでもしないと彼自身がもたなかった。
そうこうしていている内に時間は経って、その後も車で適当に回っていると、やがて、そろそろ車の前照灯を点けなければならない時間になった。
その頃になって母はどうしても海に行きたいと言いだした。風が強く、寒くもなって来たので体に障る。どうかとも思ったが、いつも引き籠ってばかりの母の願いとあって無碍には出来ず、だからと言って地球外生命体に荒らされた海岸に連れて行くのは精神衛生上よろしくないので、敵の未だ辿り着いていない内海の側、渥美湾の海岸線に車を走らせた。
時間も時間だし、人はまばらだった。だがその中に、背の小さい、見なれた黒い長髪の陰がぴょこぴょこと動くのが見えた。あれくらいの背の子供は幾らでもいるが、腰まで伸ばしているのはそうそういない。
間違いなくあの人だ、と思った頃にはスズシロも直人を発見した。
直人を見ると、旅行先で教師が生徒と出くわした時の様に苦い顔をしたが、傍らの母に気がつくと何を思ったのか、目を細めにやりと口の端を上げずかずかと近寄って来た。
「おう直人。こんな所で会うとは奇遇だな。しっかし、母親孝行とはまた感心だな」
『からかってやろう』という意図のありありとうかがえる、心底性根の悪いその笑みに、直人は深々と溜息をつく。自分の為に、耐える以外に何もできなかった。
ここで『大人になって下さい』なんて口を衝けば、忽ち口より先に手が飛んで来るだろう。
……いや、他人の母親の前で息子の頭を引っ叩くなんて暴挙は、いくらこの人でも流石にしやしないだろう。となれば、利はこちらにある。今度は直人がにやりと笑みを浮かべた。
「こんにちはスズシロ先輩、奇遇ですね♪ いやはや、ロングスカートですかぁ。今日は普段と違って乙女チックですね。可愛いと思いますよ☆」
スズシロは目を吊り上げ、膝を曲げ小さい体を小さく躍動させ、迷わず直人の頭をグーでパカンとはたいた。スズシロは直人の予想の上を行った。
「うがッ!! 殴りましたねッ!! 親の目の前でッ!!」
「いつ何時であろうが、自分のペースを崩さない。それがお前の上司、スズシロ優香だ。参ったか」
スズシロは憤然たる面持ちでうずくまる直人を見下ろす。その光景に一時驚き目を丸くした母だが、やがて口を抑えながら、楽しそうにくすくすと笑いだした。そして、何と人見知りである筈の母の方から、スズシロに一歩、また一歩と近付いた。これには直人も、母の事を事前に知っていたスズシロも驚きを隠せなかった。
「こんにちは。スズシロ優香さんですね。息子がお世話になっているようで、話はうかがっております」
そう言って頭を下げたその所作は、あまりにも丁寧かつ『普通』で、他と比べ遜色無く、直人を悩ます原因の一つだとは到底思えなかった。母は頭を上げ、笑みを浮かべた顔を見せた。
母は直人よりも多少背が低く、女性とは言え長身とは決して言えなかったが、スズシロを悠々見下ろすには十分だった。母のその笑みに、スズシロは気圧されたが、直人の目もありたじろぐわけにもいかず、頭の中をぐるぐると回転させて言葉を探した。
「いえ、そんな、世話だなんて、とんでもない。あくまでも仕事でして、それにそんな大層な事をしているわけでは……」
「いえいえ、そんな事ありませんよ」
堂々と受け答えをする母と、必要以上に畏まるスズシロ。『自分のペースを崩さない』と、つい先ほど言ったことが一瞬で崩れてしまった。そんなスズシロに、母は更に追い打ちをかける様に、徐に手をスズシロの頭に乗せて、撫でた。そして柔らかく笑いながら、
「でも、本当に可愛らしい方ですね。ちっちゃくて、服も子供っぽい」
直人が一言でも口を衝こうものなら即刻手が飛んでくるようなことを次々と、事も無げに平然と言い放った。
スズシロは、それでも耐えに耐えた。
その時直人が思ったこと――『これは勝てる』。
直人がにやりと笑みを浮かべた事を、スズシロは気配で察した。(この野郎め、後で憶えておけ)という視線で睨みつけられ、一時びくっと背筋の凍った直人だが、負けられない戦いがここにあると、気を張り直して笑顔を作り直した。その間、母はずっとスズシロを撫で続けていた。直人は母に笑顔で近づいて、
「スズシロ先輩は面倒見もよくって、皆から愛されているよ」
と煽った。母はスズシロの頭を撫でながら嬉しそうに満面の笑みになった。スズシロの恨めしげな視線が直人に突き刺さる。不図、こんなにいい様にされながらも耐え続ける、普段は堪え性のないこの先輩の心中を察する。こんな扱いは、スズシロは大嫌いな筈だ。何故こんなにも今日は大人しく、この屈辱を受け入れ続けているのか? ……母の為であり、自分の為だ。考えてみれば至極当然のことだ。
それに気付くと、直人は慌てて母とスズシロの間に入って、母の手を止めた。
「まあまあ、母さん、ね、スズシロ先輩は子供じゃないんだから」
しかし、スズシロは寧ろ直人の『子供じゃないんだから』に反応して、母に見えない様にしながらも、ぎろりと鋭い目つきで睨みつけて、
「後で憶えていろよ」
と耳元に囁いた。直人の背筋がびくっと伸びると、やがて満足したように、いつも通りの性根の悪そうな顔へと戻ったので、恐怖するとともに、ちょっとだけ安心した。




