xviii――どうなるでしょうね
次の日、母の手を引いて外に出た。母は直人に言った通り、化粧をして、茶色のスカートを穿き、チェックの柄の肩掛けをしている。直人のもう片方の手には車の鍵がある。
外を掃いていた夏美に気付くと、母はびくっと驚いた様に直人の陰に隠れる。直人は、これをいつも不思議に思ってしまう。初対面の相手にこの様な態度をする事は珍しくないが、この、家族同然と言うと大袈裟にしても、毎日顔を合わせ世話になっている夏美にまでこういう態度なのは気にかかる。
「ああ、お二方とも、もうお出かけですか。いってらっしゃいませ」
夏美は特に気にかけることなく笑顔で頭を下げた。それを見て、直人も今日はどうしようかというあれやこれやに思考を傾けて、すぐに疑問は彼方へ飛んだ。母を助手席に乗せエンジンをかけ、馬力の強さを誇る様な音を立てながら、アクセルを踏みアスファルトを進んで行った。
それを見送るエプロン姿の夏美。目を細め訝しげな視線を車の後姿に投げかける。
「うーん、もしかして――お母様、何か勘付いていらっしゃるのかな」
病院に着いて母の顔を見せると父は驚いた――ふりをして、直人ら二人を笑って迎え入れた。
実の所父にこの旨は既に連絡していて、その下手な芝居は、しかし母を騙す位、わけなかった。仕方ないと言う諦めと罪悪感との混ざり合った複雑な気分でいた直人だが、それを自ずから振り払うように、当たり障りのない、とにかく楽しいだけの話を切り出した。
始めは、ちょっとした家庭での失敗の事だった。するとそれを切っ掛けとして、会話はどんどん転がった。他の失敗談だとか、ご飯がどうしたとか、三人で遊んだ事だとか昔の旅行の事だとか、夏美の事だとか、そういう他愛のない、第三者が聞けばくすりともしない話題であったが、自然会話は弾み、三人を笑顔にするには十分だった。久々の母と父の面談にやはり不安があり、父のあからさまな嘘を前にして(自分の事など棚に上げて)嫌な気持ちにもなったりしたが、作為や意図を微塵も感じさせない嘘偽りない二人の笑顔を見て、ようやく安心出来た、連れてきて良かったと思えた。
今日、一時あまりにも複雑な関係にあった母と父を会わせた事を、成功だと思えた。
「じゃあ、今日はこれくらいで」
二時間位話していただろうか。楽しい時間だったが、父の体に障るといけないので、直人は適当な所で切り上げた。幸せな時を過ごし、二人は満足した、と思った。
父に別れを告げて、母を病室から出した所で父に、
「直人」
と呼び止められた。
「何?」
直人は振り向いて父を見た。笑顔だったが、……その笑顔にはどこか陰があった。
「すまんな」
――陰った笑顔から暗い言葉が飛び出した。
直人の笑顔が一瞬にして固まった。心臓をぎゅっと握りしめられる、息が止まる様な苦しみ。
体が震え、目の前が霞んで揺れた。顔に血が上って赤くなり、涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
……どうしてそんな事を、そんな風にしか言えないのか。実の息子が気を利かせてくれたお陰で楽しいひと時を過ごす事が出来たんだ。
ありがとう、でいいじゃないか。さっきまでの笑顔は何だったんだ。やっぱり、嘘でしか無かったのか。裏切られた気持ちだ。
今この場で子供の様に泣き喚いてやりたかった。それが出来れば、どんなに楽か。
しかし同時に直人は、父の心中を痛い程理解していた。別に言い方が悪かっただけじゃない。
すまんな、というのは、父の素直な、これこそが嘘偽りない正直な気持ちだ。
嬉しい嬉しくないはともかく、今の状態の母との会話は気を使う為、今日一日父にはかなり無理を強いたと思う。
……いや、それだけじゃ無い。父は、思い通りにならない体で、家族の負担になっている事を、しっかりとした頭で、十分すぎる程理解していて、それでも日長一日寝そべる以外に出来ない。
そんな風に弱っている所へ、自分を養ってくれているばかりでなくあれやこれやと面倒を見てくれる息子が、あれやこれやと気を使ってくれている。母の事でも全部直人が引き受けてくれている。しかも母の事は、自分が原因かもしれない。
それなのに、自分はひたすら寝そべる以外に出来ない。
そりゃあつらいさ。やるせないさ。分かってる、分かってるんだ。でも、――
どうして「ありがとう」って言ってくれないんだ。せめて僕の為に。それだけで僕は救われるのに。今日自分がやった事は、結局自己満足でしか無かったって言うのか。
――僕は、あまりにも惨めだ。
「……ううん、大丈夫だよ。父さんも、今日は付き合ってくれてありがとう」
直人は努めて声の震えを隠した。父に顔を見せないように背中を見せて、振り返らずに後ろ手に扉を閉め、怪訝そうにのぞきこむ顔馴染の看護婦に適当に会釈しすぐに歩きだして、五、六歩先の母の前に辿り着く頃には既に笑顔を作っていた。
直人は、震える体を抑えて、零れ落ちそうになる涙を必死に堪えた。ただただ耐えた。父の為、母の為、何より自分の為に、耐える以外に何もできなかった。




