xvii――戦場と日常と
《おい、だから離れろと言っているだろ馬鹿ッ!》
《馬鹿、お前が危なっかしいんだよッ! もうちょっと下がれねえのかよッ!》
《おい馬鹿二人いい加減にしろッ! 訓練通りにどうして出来んッ!》
《スズシロ、あなたも落ち着いて!》
「あのー、他人の頭の中で喧嘩は――」
《直人さんっ! 前線突破されましたっ!》
「うー、了解……」
「あー、疲れたー」
直人は溜息交じりに呟いて玄関の扉を開けると、夏美が奥からとてとてと音を立てて走り寄り、労う様な、大人っぽい微笑みを向けた。
「お帰りなさいませ直人さん。今日も大変だったでしょう、お疲れ様です。夕餉の支度は出来ておりますが、どうしましょう、先にお風呂になさいますか?」
「……びっくりするほど元気が出たよ。ありがとう」
「はい? ……ああ、遂にこの私と添い遂げる覚悟をしたのですね。では今すぐベッド・イン」
「うん、これからも雇う側と雇われる側としての関係を続けていこうね」
「畜生めッ!!」
夏美は虚空に叫んだ。
……夏美ちゃんって時々おかしくなるんだよな。
と思いながら母の許へと足を向ける。
襖の前で、
「母さん、開けていい?」
と声をかけると、中から、
「どうぞ」
と母の静かな声が聞こえたので、そっと襖を開けて中へ入った。
母はパジャマの上にブラウスを着て、畳の上に座って眼鏡をかけ、本を読んでいた。直人が入ると本を閉じて机の上に置き、直人ににっこりと微笑みかけた。
「お帰り、なお君。お疲れ様」
危険な仕事場から戻った息子に対する、安心した様な、母らしい、自然な普通の笑顔。
それを見て直人も安心する。母は最近安定しており、錯乱することが少なくなっている。いつまた情緒不安定になるのか分からないものの、矢張りしっかりとした会話が出来る事は、直人にとって限りなく嬉しいことだった。直人も母に子供らしい微笑みを返す。
「ただいま。……今日はずっとパジャマでいたの? それじゃ、あんまり不健康で駄目だよ。もっとお洒落しないと」
「大人らしいこと言っちゃって。でもそうね。ずっと家に籠ってるものだから、つい、ね」
「……ねえ母さん、明日一緒に父さんの所に行こうか。で、その後ちょっとどっか寄ったり」
「え?」
突然の息子からのデートの誘いに目を丸くするも、すぐさまぱあっと明るい表情に変じて、子供の様に何度でも頷く。それを微笑みながら見守る直人。親子が瞬時に逆転してしまった。
「うん! 行く行く! そっかー、うん、嬉しいなぁ。何着て行こう」
急に提案した風だが、実際には今思い付いたことではなく、きちんと事前に医者と相談し了承を得た事で、夏美にもすでに伝えている。
「喜んでくれるのはいいけど、言っとくけどそんなに大したことできないよ?」
「それでも嬉しいもんなんだって! でも大丈夫なの?」
「うん、平気。暫く襲撃は無いみたいだしね」
言った後にしまったと思った所でもう遅い。それを聞いてすぐに、母の表情が陰ってしまった。真面目な顔で、直人に向きあう。
「ねえ、その……お仕事のことだけどさ……」
「うん、言いたい事は分かってる。でもやめられない。今働けるのはこの家で僕だけだから」
「そうなんだけど……でも、なお君帰ってくるまで、いつも心配で心配で……」
直人はきゅっと唇を噛み『誰の為に命懸けで働いていると思っているんだ』を必死で飲み込む。同時にこの仕事以外で稼ぐたずきの無い自分自身が情けなく思える、親を安心させてやれない自分が嫌になる。
母は、(本来は嬉しい事なのだが)精神が安定していると、直人がどんな仕事をどんな事情で従事しているか、十分理解できてしまう。それが逆に不安の種になって、あれやこれやと考えに考えて、直人や、延いては母自身を責めてしまう。
「僕がいないと、街が大変だから……」
心にもない事を言う。本当に自分は街の為に働いているのか? 違う。確かに人が傷つき、街が壊されるのは悲しいが、自分がこの仕事に従事するのはあくまで、徹頭徹尾自分の為だ。
不図、頭を擡げるロジャーの言葉。『お前はどっちかと言えばこっち側の人間だ』。
それもそうだ。自分は選んでここにいる訳じゃない、仕方なくここにいるんだ。ミアさんはこんな風に考えていないだろう。
黙りこくった直人を見て母は、気分を害してしまったのかと、慌てて取り繕う様に、
「あの、ごめんね。えっと、その、ね、そうじゃなくって、あの、お母さんがね、心配してるんだなって言うのは分かって欲しいって言うか、ううん、なお君が大変なのは十分わかってて、その、やめられないって事も分かってるんだけど……本当にごめんなさい」
尻すぼみに声が小さくなって、申し訳なさそうに頭を下げ項垂れた。母の頭部を見て我に帰った直人も慌てて取り繕う。
「あ、いや、そうじゃなくって……ま、まァさ、明日、楽しみにしててよ。ご飯ももう出来てるみたいだから、一緒に行こ」
直人は無理矢理話を切り上げて、不安げな母の手を引いて立ち上がった。




