i ――孤独な虎
馬鹿騒ぎ、開幕
神が自然数を創造し、他は全て人間が作った レオポルト・クロネッカー
今まで自分のやりたいことなんて、一つもやってこなかった。
とういうか、やりたいことなんて無かった。恋愛も友達との語らいも青春も、全部が億劫で、初めからそんな事望んでいなかった。
――なんて、本当は違う、全部、ハナから諦めてきた。
人並みに好きな人はいた。でもその人の側にはちゃんと、程度に合った人が既にいた。
友達もいたけど、心から通じ合う様な人はいなかったし、お互いにその程度だと割り切っていたのだろう、学校を卒業すると、自然、関係が消滅した。
青春は……何というか、いつもいつも勉強やその他雑事に囚われていて、部活やその他活動に感ける余裕に欠けていた。
端的に言えば、そんなもの始めから存在し得なかった。
それでもいいと思っていた、というかそう思わざるを得なかった。
諦めざるを得なかった。
諦めることでしか、前に進む事が出来なかった。
多分これが死ぬまでずっと続く。
諦めて諦めて、それなりの歳月を過ごすだけ。
つまらない人生だと思う。
それでも、それ以外に方法は無いから諦めるしかない。
泣き叫んだことはあったが、そんな事をしても何の足しにもならない。
だから諦め続けて生きて来た。
でも、いや、だからこそ僕は、――
《目標到着まで、残り五分だ。〈直人〉、トイレに行きたいのなら今の内だぞ》
思案をぶった切って脳内に直接注ぎこまれる通信、少年の様な声と生意気そうな口調。
しかしこの〈直人〉は、この声の主が異性で、しかも年上である事を知っている。
「こっちは生憎子供じゃなくって、エリートですので、ご心配なく。戦闘準備からお祈り・遺書の作成まで、やるべき事は全て済ませてありますよ、〈スズシロ〉先輩」
直人の、子供じみた声。こちらはこの名前の通り男だが、通信相手の声よりもやや高く『かわいらしい』と言っても差支えない。
《それは頼もしい。『明日死ぬかのように生きなさい』だ。なかなか出来るものではないぞ、偉い偉い。えっと……これは誰の言葉だったかな》
「ガンディーでしょう、確か。後、『永遠に生きるかのように学びなさい』が抜けています」
《ハッ! 坊さんごときが随分偉そうな口をきけたもんだ》
「一転、随分な言い草ですね。聖職者が嫌いですか?」
《思想云々は問題じゃない。他人の金で生きてる癖に、他人より偉そうなのが嫌なんだ。他人の金で生きてる糞みたいな大学生がネットで鼻息荒くしてんのと変わらんだろ》
「周りの大人に怒られますよ。ガンディーは、まあいろいろやりましたし。それに、そのご立派な講釈たれてる大学生だって自分で、実は苦労して工面しているかもしれませんよ」
《そういう、バイトだのなんだのしている苦労人は、留年したりうまく就活できなかったりだ。それが現実だ。金持ちは成功の原因は自分にあると思い込みより傲慢に、貧乏人は忙殺され考える余裕も無くより卑屈になる。それが今のシステムだ。残念ながら、糞みたいな世の中だ》
「『システムだ』、じゃありませんよ。こっちが生きるか死ぬかって大事な時にあんまりテンション下げないでくれると助かりますがね。話逸れましたけど……でも、他人の金云々は、我々〈公僕〉の台詞じゃないでしょ、それ」
《ふん、私達は必要な存在だ。坊さん共とはわけが違う。目標到達まで残り二分》
「あれ、そんなに経ちます?」
《初期の測定より加速している。速い。気を張れ》
「そうですか。……ねえ先輩、聖職者は必要だと思いますよ」
《いらんだろ》所謂〈先輩〉の、けろり平然とした声。
「僕は……祈りたいんです。この世界を――」
《お二人とも、いい加減にして下さいっ! 敵襲がそこまで来ているんです、緊張感を持って下さいっ!!》
直人の通信を遮って脳内に注ぎ込まれる、少女の様に高い、別の声。口調だけは厳しいが声そのものは柔らかい感じ。
こちらの声の主も知っている。先程とは異なり、年下の、見た目は声の通りの柔らかい少女。
《ホレ見ろ直人。気を張れって言ってるのに。お前のせいで怒られた》
《直人さんだけの所為じゃありませんっ! 直人さん、準備して下さい。〈突偽〉装填まで三十秒ですっ!!》
「はいはい」
次々と注ぎ込まれる異なる口調の批難に、直人は嫌々という風に立ち上がった。
潮気を含んだ風が、栗毛色で癖の強い髪を後ろに靡かせる。
彼は今年で十九歳。……なのだが、見た目に幼さが消えていない。子供らしい大きな目、低い鼻、日に焼けた健康そうな肌。身長も百六十を超えた程度で、中学生と言っても差支えない。昨年、中学生料金で映画を観られるか試した事がある。その企みは見事、成功したが、虚しく感じて映画も楽しめず、それ以来止めた。実の所、映画を見たのは後にも先にもそれきり。
無芸無趣味。本当に味気ない、意味のない人生。
臨海の学校の校舎の屋上で一人、じっと海を見据える。校舎には誰一人としていない。それもその筈、ここはそこそこ新しい廃校舎である。直人はぐるりと一回転し、周りをぐるりと見回す。どういうわけか、人っ子ひとりいやしない。
当然だ。すぐにここは戦場になるのだから。
屋上の縁に立つ。元々生徒は立ち入り禁止で、フェンス等はない。卒業生だから知っている。直人はついこの間まで、この学び舎で学徒として勉学に励んでいた訳だ。
『永遠に生きるかのように学びなさい』――ガンディーさん、あんたの言った通り、僕はたくさん勉強しました。
果たして意味があったのやら。
《〈突偽〉装填まで五秒、四、三って、直人さ―――――――――ん!?》
「よっこーらせっと」
少女の声の途中、直人は地面を蹴り屋上を飛び降りた。空中で向きを変え、仰向けになり、真ッ青な天を抱くように両手を広げるが、しかし大地の重力に引き寄せられる。
『雲の上の神にも仏にも見放されているわけだ』、などと余裕をかましながらも、みるみる落下してゆく。落ちてゆく。決して届かない天を見つめて、直人は微笑した。
一連の動作に意味など無い。ただ意味も無く飛び降りて、ただ意味も無く天を仰ぎ、ただ意味も無く微笑しただけの事。やがて『どしん』と音を立てて地に着く。普通なら湿った音が辺りに響き、〈一人〉から〈一体〉に変わるのだが――地面は、直人の体重ではありえない程凹んで、真ッ白な砂塵が校庭を埋め尽くさんばかりに舞っている。
『ああ、やっぱり死ねなかった』――直人はふうっと気楽な溜息を一つ。
《おーい馬鹿、死んだか?》《ちょっと、直人さん、何やってるんですか!? 正気ですかッ!!》
脳内に注ぎ込まれる年上と年下、各々の非難。しばらくの間、直人は仰向けのまま天を仰ぎ見つめていたが、やがて上半身を起こし、すっくと立ち上がり、しっかりと地面に二本の足を立てる。右手でさっと宙を払う。同時に疾風が立ち、砂塵を悉く消し去る。
直人の体を覆うゴムの様な素材のピッチリとした黒のタイツには、緑に光る、大蛇が巻き付いた様な模様が描かれている。頭部と手は覆われていないのだが、代わりと言った風に、仄かに髪と手が緑に発光している。
『〈突撃用装甲偽体〉通称〈突偽〉』――直人を地獄の様な地上に縛り付けるもの。
直人は手を腰にあてて、にっと不敵に笑った。
「ぎりぎりで装填完了。生きていますよ。ええ、生きちゃいました。生きているなら、この糞みたいな現実を生きなきゃいけませんね」
《当たり前だ、馬鹿。目標到達。さっさとやれ馬鹿》
ドゴォン! 天を震わせ大地を劈く様な怒号。突如海上に現れた、百メートルはあるだろう、巨大な〈海鼠〉? 〈海月〉? そんな軟体動物や節足動物の様な、二匹の生命体。灰色で表面がぐちゃぐちゃぬめぬめぬらぬらぼこぼこした、――すごく簡単に言って気持ち悪い物体。
「〈愚衆〉目視で確認。駆逐します」
こんな世界に縛り付けられて生きている、どうしようもない人間たち。
そんな人間でも、唯一、完全に自由になれる方法がある。それは死ぬことだ。
いつの時代のどんな人間も、死ねば自由になれる。それ以外に方法は無い。早く自由になりたいけど、どうやらまだ許されないらしい。『ああ、皆が幸せになれますよう』と天を仰ぎ祈る。どうしようもない人間ばかりが蔓延るバグだらけの、どうしようもない世界に、祈りを捧げずにはいられない、どうしようもない自分。
直人は地面を力強く蹴った。